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*6*ココロノコンパス(前編)

「松本先生?」


 突然呼びかけられて、我に帰る。

「え、はい?」

 目の前には同期の大谷先生が、心配そうな顔をしている。

「大丈夫ですか?なんだか今日おかしいですよ?」

 大谷先生は理科を教える若い女性の先生だ。噂によると、この職員室の中で、ずば抜けて男性職員人気が高いらしい。

 俺にとっては、唯一の同期で気軽に話せる同僚なのだが、俺をダシに彼女を食事に誘おうとたくらむ輩も多い。いや、輩といっては、先輩がたに失礼か。

「大丈夫ですよ、やだなあ」

 と言ってから、初めてなぜ心配されているのかが理解した。

「うわ、何だこれ…」

 そこには俺の机を基点として、書類が四方八方に飛び散る大惨事となっていたのだ。

 いつのまに落ちたんだ?

 呆然としてそれを眺めていたら、大谷先生が書類を拾い集めだしたので、俺も慌てて作業にかかる。

「何だこれ、じゃないわよ。ちょっと最近働きすぎなんじゃないの?」

 周りに聞こえないように、小声で彼女が話しかけてくる。

「そんなことないよ…たぶん」

 確かに疲れてるから、“変なもの”を見てしまったのかと思って混乱したけど、昨日ちゃんと確かめたし。いや、確かめてしまったし。

 …現実だよな…? 

 まさか、過労のために神経衰弱に陥った俺が、幻覚を見るようになってしまっただけってことはないよな…?


「松本先生?」


 また考え込んで動きが止まってしまっていた俺を大谷先生がため息混じりに呼ぶ声が聞こえて、はっと我に返った。

「…今日は…早く帰ろうかな」

「そうしたら?なんだか今日は、ずっと上の空みたいだったわよ」

 書類をすべて拾い終わり、大谷先生が俺にそれを手渡した。

「しっかりしてくださいよ、松本先生」

 いつも、うっかりが多いのは大谷先生の方だというのに、ここぞとばかりに彼女はニヤリと笑うのだった。

 でも、今は言い返せない。

 実際、自分が上の空だったこと、そしてそれすら気がつかずにいたのだから。

 そして同時に、気がついてしまった。

 昨日あれから、ずっとずっと桜の木の下で出会った彼女の事ばかりを考えていたこと。

 


 …まじかよ。


 そう。

 気がつくと彼女のあの笑顔が脳裏に浮かぶ。

 目をつぶれば鮮明に、目をつぶらなくても明確に。


 何を思って君はそんな顔で笑うんだ。


 だめだ、今は仕事に集中しなくては。


 小さくため息をついたら、向かいの席の大谷先生と目があった。大丈夫だから、というように笑いかけて、机の上にあった書類を無造作に手にした。しかし、その文面なんて頭に入ってこない。


 そして新たな自問自答。

 俺、あの子のことばっかり考えて、仕事も手につかないじゃないか。

 今日、仕事全然進んでない。

 おいおい…冗談だろう?


 確かに…気になるけど…。

 さっきからずっと、あの子のことばっかり考えてる、ていうか、あの子のことしか考えてないけど。

 でもそれは、あんなの見たら誰だって、気になるだろうし!

 それだけのことで…好きなはずは…ないよな?

 だって、現実か幻覚かすら疑ってる段階だよ、俺。相手は正体不明の自称幽霊。


 いやいやいや。

 ないだろう。ないない!

 さすが、23年も生きていれば、恋の一つや二つ経験している。

 でも…この感情は何なのかと、聞かれても答えに困る。

 だいたい…俺はもう……。


 俺が深いため息をつきながら、先ほど拾い集めた書類の山に再び手を伸ばした瞬間、派手な音が職員室に響き渡り、再び書類が舞い散る惨劇が繰り広げられた。そして向かいの大谷先生にジロリと俺は睨まれるはめになったのである。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 時計が8時を回った。

「今日はお先に失礼します」

 俺は、まだにぎわっている職員室の入り口で、残業する先生方に声をかける。


「なんだ、今日はやに早いな、松本!デートか?」

「え、松本先生、彼女いたんですか〜?」

「え〜嘘だ〜!いるわけない、いるわけない」


 口々に先生方が勝手なことばかり言う。

 まったく相手にせずに、俺は「お疲れさまでした〜」とだけ挨拶をして職員室を後にした。

 

 職員用玄関を出ると、なんとなく足を止めた。

 ここからは桜の木は見えない。

 わかっていても、あの桜を探してしまっている。

 …今日も彼女はあそこに一人でいるんだろうか。

 

 いや、今日はこのまま帰ろう。

 考えるのはやめよう。

 子猫も待ってるし。

 帰ろう。

 俺は、まるで自分に言い訳するようだな、と思いながらも帰路についた。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 部屋に響くテレビの音。

 膝にうずくまる子猫の規則正しいリズム。

 そろそろ日付が替わる。

 落ち着かない。

「寝よう。もう寝てしまおう」

 自分に言い聞かせるように俺は子猫をどかして、布団に入る。


 ──私、何でここにいるかもわからないの。いつも気がつくとここにいるの。


 いつもあの木の下で、何をしているんだろう。

 あんな寂しい場所で、一人でいつもいるのだろうか。

 名前も年齢も、自分が何者かも分からず。

 何のためにあそこに居るのかもわからない。


 つらくないわけが無い…。 

 

 ──でも…この桜の木だけは覚えてるのよね。なんか懐かしいんだ、すごく…すごく…。


 あの桜の木に何か思い出があるのかな。

 でも自分のことが思い出せないのに、桜の木だけ覚えてるってのもどうなんだろう。

 そもそも、桜の木から離れられないみたいだったし。

 懐かしくて、居たくてあそこに居るんじゃないくて、離れたくても離れられないのかな。

 実はあそこに居たくないのか?


 ──私もしかして死んじゃってんのかな、とかって思うんだ〜。


「ああ〜〜もうっ!」


 俺は思わずベッドから半身を起こして、叫んでしまった。

 それに驚いた子猫がビクッとして、離れたところで固まっているのが見える。

 ちらりと時計に目をやると0時40分を回っていた。


「雪。行くぞ」


 反射的に立ち上がり、子猫とコートをひっつかんで駆け足でアパートの外へ出る。

 外は今日も冷え込んで、口からはき出される白い息が空に消えていく。

 まだまだ細い月は、雲の間からひょっこりと姿を見せていた。

 

 俺は走った。

 こんなに全力で走ったのは何年ぶりだろう。

 息が上がる。

 足がもつれる。

 連日の残業で体が悲鳴をあげていたはずなのに。

 勝手に体が動いていた。

 この気持ちをなんて呼ぶかなんてしらない。


 もう一度君に会いたい。


 あれこれ考えたって、君の笑顔が頭から離れないし。

 君に会いたい。

 そう思ったのは紛れもない真実なのだから。


 実際の距離にしたら、たいしたことはないのに、永遠にも感じられる長い時間必死に走り、桜の木の前にたどり着いた。

 そして俺は、今日一日何度も何度も頭に思い浮かべたその姿を実際に目にして、顔の筋肉が緩むのを感じた。


「新くん、また会えたね」



 彼女は桜の木の幹を背に、笑顔でこちらに手をふっていた。

 


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