*31*桜華の雫(後編)
どのくらいの時間がたったのだろう。
俺には長く長く感じた沈黙。
ミオは、ひざの上の猫を見つめたまま動かない。
猫は規則正しく、体を上下に動かしている。と、猫の耳がぴくっと動いた。
同時に彼女の唇が何かをつぶやいたのを見逃さなかった。
「ミオ?」
俺が、もう一度、返事を促すと、ミオがすっと顔を上げて、俺をまっすぐ見据えた。
“教えて”
彼女の口がそう動いた。
「知りたい?」
俺は確認するように聞くと、ミオは、少し間を置いてから、こくん、と首を縦に動かした。
何かを断ち切るように、ミオは凛とした顔で俺を見つめ返していた。
だから、俺も彼女と一緒にその何かと戦う覚悟で、うなずき返した。
「2年前、優希さんがうちの高校を卒業した年の春」
俺は、彼女の顔をうかがいながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「4月の優希さんの誕生日に、彼女のお姉さんと妹と3人で花見に出かけることになっていた」
しかし、末の妹は、当時付き合っていた彼氏が遊びにくるということで、優希と姉の二人で行くことになったそうである。
「そう、向かった先は、この桜」
この川原沿いの道には、途中に公園がある。この公園はいわゆる、花見の時期には普段の何十倍もの人でごった返すのが毎年恒例となっている。
幼いころによく見た桜を、久しぶり見てみたくなったといっていた、と千明希さんが寂しそうに語った。私も一緒に行けばよかったな、と付け足して。
「二人は、お姉さんの運転する車で、ここへ向かった。でも、たどり着かなかったんだ。途中で、交差点でトラックにぶつかって…」
そこまで話したとき、彼女の膝の上で寝息を立てていた子猫が、ビクっと体を揺らした。そして、何事かといわんばかりに、自分の体の上に置かれた、彼女の手を眺める。その手は、子猫の体をつかむようにして震えていた。
大丈夫だろうか…やめたほうがいいのかな…。
俺は不安になった。彼女は下を向いたままで、表情がつかめない。
「…ミオ?」
はっとしたように、ミオが顔を上げる。そして、なんでもない、というよう首を横に振って笑顔を見せた。
いや、笑顔を作った、というのが正しい。その証拠に、彼女の瞳は笑っていない。
ミオはその弱々しい笑顔で、俺の言葉を待っている。
俺も笑って見せたが、きっと引きつっていたに違いない。
「千明希さんが、病院にたどり着いたときには…優希さんはもう息を引き取っていたそうだ」
俺がそう告げる間に、ぐっとミオは唇をかみ締めて、目を伏せた。
いい終えた頃には彼女の頬を伝った雫が、ぽたっと彼女の膝の上に落ちていた。
その涙で、再び目を覚ました子猫が、彼女を見上げる。そして、子猫が体を伸ばし、まるで彼女を慰めるように彼女の頬を流れる涙をぺろりと舐めた。
その瞬間、こらえきれなくなったのかミオは両手で顔を覆って激しく肩を上下させ泣き始めた。
その嗚咽こそ聞こえないが、きっと、妹の優希の死を嘆く、初めての涙なのだろうと俺は思った。
もしかしたら、ただ、妹を失った悲しみからだけのものではないかもしれない。
謝罪や自責の意味もそこに含まれているのかもしれない。
助けられなかった、後悔も。
そんな悲痛の涙なのかもしれない。
受け入れることすら出来ないでいたほどの、強い強い悲しみのミオの、聞こえないはずの泣き声が、俺には深く、悲しく、激しく、苦しく、聞こえてくる気がした。
それでも…。
苦しくても…。
受け入れるしかないんだよ…君がちゃんと。
生きている君が受け止めてあげてよ、妹の死を。
俺は心からそう願った。
そして、ここからが勝負だ、と俺は思った。
「車を運転していたお姉さんは奇跡的に助かったけれど、今も意識が戻らない」
姉の存在を、彼女に告げたのだが、その反応はなかった。
先ほども、さらりと“姉”という単語を出したが、まるで人事のように流れていった。
もう、自分がその姉であることをすでに、思い出していたのだろうか。
もしかしたら、以前『私死んじゃってるみたい』と、飄々と言ってのけたのだから、妹が亡くなっていてその車に同乗していた自分も妹と一緒に命を落としたと思っているのだろうか。
あれ!?
そこで俺は異変に気がついた。
俺は身を乗り出してミオを見つめる。
彼女と子猫の色の濃さが違うことに気がついたのだ。
つまり、彼女の色が透けている!
さっきまでは、そんなことはなかった。
確かに、今は、子猫の方がはっきり見えている。
時間!?
いや、まだ10分ある!
俺はもう消えてしまうのではないかと不安になって、彼女に声を掛けた。
「ミオ!」
すると彼女が、ゆっくりとこちらを向いた。
自分の声は聞こえているらしい。少し、俺はほっとした。
俺の話を聞いて、新たに記憶を取り戻したために、確実にまたこの世界から離れていってる、ということだろうか。
そこで、俺はいやな疑問にぶち当たった。
もし、このまま自分が生きていることに気がつかないで、ミオがすべての記憶を取り戻したら彼女はどうなるのだろうか。
おそらく、このまま彼女がすべてを受け入れてた時、“ミオ”は姿を消すのだろう。
しかし、その時に、彼女自身が“生きよう”と思えなかったら…?
…眠ったままの彼女の肉体が今度は死を受け入れてしまうなんてことはないだろうか…?
つまり…。
武山美桜希が死んでしまうということは──!?
俺は、自分の考え出した結論に、背筋がぞっとした。
冗談じゃない!
心の中で俺は思わず叫んでいた。
俺がそんなことにはさせない。
不安でいっぱいな筈なのに、俺は強い自信に溢れている気がした。
俺は、深く、深く、深呼吸してから、再び口を開いた。
「ミオ…よく聞いて」
大丈夫。
彼女なら、大丈夫だ。
俺はそう自分に言い聞かせた。
ミオは、涙をいっぱいに貯めた瞳で俺を見つめ返した。
「俺は、君に会えて本当に、自分が変わった。君が俺を変えたんだ」
弱い自分と向き合う勇気をくれた。
君に出会わなかったら、俺はあのままずっと…“今”を生きることはできなかった。
君を愛したことを誇りにして、これからを生きていく。
俺はそう決めた。
その隣に、君がいてくれたら、もっと強く、もっと楽しく、もっと幸せに、生きていけると思うんだ。
だから…。
「君にも、ちゃんと生きてほしい」
彼女は、何を言っているのか分からないといった表情で、俺の次の言葉を待った。
俺は、一呼吸おいて。
しっかりとした声で。
こう、告げた。
「君は、生きているんだよ。まだ生きている」
彼女の震える唇が、小さく、え?と言った気がした。
やっぱり、彼女は自分が死んだと思ってるんだ、と俺は確信した。
「だから、逃げるな」
苦しくても目を開いて、ちゃんと先を見据えて。
「俺と一緒に前へ進もう。一緒に生きていこう」
“いきる?”
彼女の声がした。
俺は、空耳かな、と思いながら彼女を見つめた。そのまっすぐな瞳に吸い込まれる気がした。
“新くんと、一緒に…生きる?”
今度は俺にはっきりと、そう聞こえた。
「そうだよ」
俺はそう返事をしながら、自然に笑顔になった。
「君が好きだよ。
幻でも、夢でもない。現実でしっかり、君と生きていきたい。
苦しい、悲しい、痛みのある現実の世界だけど、その中の小さな幸せは、きっと君となら見つかるはずだから」
だから、これはさよならじゃない。
俺たちの始まりだ。
「だから…ずっと一緒に、二人で生きていこう」
その時だった。
彼女がふわりと笑顔になった。そして、すっと俺の目の前に移動し、ゆっくりと唇を重ねる。
俺は目をつぶった。
彼女の存在はその唇からは感じられないが、でも、たしかに彼女の気持ちが流れ込んできた気がした。
暖かいキスだった。
目を開けると、少し照れた彼女の顔があった。久しぶりに俺が目にした、ミオの、いや、俺が初めて目にした美桜希の、心からの笑顔だった。
俺はその笑顔に胸をぎゅっと締め付けられた。瞳から自然と涙が溢れる。
愛しい──。
もっとずっとこうしていたい。
彼女を力いっぱい抱きしめたい。
でも…。
いや、だからこそだ。
そして、俺は力強く続けた。
しっかりと彼女の瞳を捕らえたまま。
ありったけの心を込めて。
ありったけの笑顔で。
君が迷わず、俺のところへ帰ってこれるように──。
「目を覚ませ、美桜希」
刹那。
彼女の、美桜希の瞳が大きく見開かれた。
そして俺が瞬きをした次の瞬間、彼女の姿はそこにはなかった…。