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*30*桜華の雫(中編)

 俺は一呼吸置いた。

 桜の木が一瞬ざわめいたように思えた。まるで、これから俺が言おうとしていることを知っているかのように。

 ごくん。

 俺の喉がなった。俺のひざの上に置かれた手のひらもぐっちょりと湿っている。

「おとといね…」

 俺が口を開いた瞬間、ミオの視線がふっと俺からはずされた。反射的に、俺もその視線を追う。

 そして、俺は「え?」と小さく声を上げた。

 猫だ。

 ただの猫ではない。俺の家にいるはずの、あの白い子猫だった。

「雪?」

 俺は、眉間にシワを寄せた。どう見ても、あの子猫がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるようにしか見えない。

 なんで?…今日、部屋の窓を開けっ放しで仕事にでたのか?

 自分で子猫が、玄関を開けて出て行くわけはないし、さすがの俺も玄関を開けっ放しで出てくるほど、泥棒に親切なはずはない。

 俺が首をかしげている間に、子猫はそっとミオのひざの上に座った。そして、一つあくびをしてから丸くなる。

 のどをゴロゴロと鳴らしながら、ミオになでられている子猫の姿に俺は呆然とするしかなかった。

 まったく自然だ。

 いつも、そうしているかのように、当たり前に子猫はミオのひざの上におさまった。

 ミオまでもが、ごく日常的な様子で優しい表情で子猫を撫でている。

 …どうなってんだ?

 俺が言葉を失っていると、ミオが視線を上げた。

 そして、ふわりと笑う。

 俺は目を奪われていた。


 綺麗だ。

 笑顔が一番、彼女には似合う。

 やはり、彼女にはいつも笑顔で居てほしい。

 これが、俺自身のわがままだと言われても、おせっかいだといわれても、迷惑かもしれなくても。


 …さあ、ミオ、起きる時間だ。


 俺は自然に笑顔になった。

 どうやら、思いもよらぬ乱入者に、すっかり緊張がどこかに飛んでいってしまっていた。おかげで、リラックスして話始めることができた。

「おととい、君のうちに行ったんだよ」

 笑いかける俺に、ミオはきょとんとしていた。


 “私の…家?”


 聞こえないはずの、彼女の声が俺の耳にそう届いた気がした。

 俺は、うん、とうなずいて、こう付け足す。

「武山優希さんの家に、線香を上げに行ったんだ」

 その瞬間、ミオの表情は一変した。猫をなでていた手がぴたりと止まる。

 はっきりとした動揺が俺に伝わってきた。

 ゆっくりと、彼女の小さな唇が動く。


“…優…希……?”


 そうだよ、ミオ。

 君がまずは妹の死を受け入れることだ。


 俺は、ミオの顔をじっと見つめた。どんな変化も見逃さないように。 

「君は、知りたい?」

 俺は一言一言、かみ締めるように言った。

 ミオの瞳の動揺の色が濃くなる。

 だから、俺はもう一度しっかりと確認のためにミオに問いかけた。


「優希さんの妹の千明希さんに会った。彼女から聞いた話、君は聞きたい?」


 以前、確かに彼女は真実を知りたいと言っていた。

 だが、すべてを知る覚悟が今、彼女にあるのだろうか。

 俺は、彼女が聞く気になるまで、記憶を取り戻す覚悟ができるまで、何日でも待つつもりでいた。

 彼女が過去に向き合うことの手伝いができても、彼女自身がその気にならなければ、ただ事実を突きつけても、何の意味もないと思ったからだ。


 俺はじっとミオの表情を窺う。

 彼女は、おどおどと、定まらない視線を泳がしている。

 その心の中までは、俺には分からない。

 ミオは今、どのくらい記憶を取り戻しているのだろう。

 何を考えているのだろう。

 俺にわかるのは、その俺らかな青ざめた不安げな表情と、握り締められたその両手から伝わる緊張。

 だから、ただじっと、俺は返事を待つしかなかった。

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