*29*桜華の雫(前編)
俺は桜の木の下で膝を抱えるように座っていた。
時刻はあと数分で0時だ。
今回の天気予報は実に正確で、夕方にはきれいな夕日を見ることが出来た。
俺は気持ちを落ち着けるために、一つ深呼吸をした。思ったよりも緊張している。
情けないことに、まだどこかで、躊躇している。
俺は思わず苦笑した。
諦めが悪いな…。
確かに、諦めが悪い。
現状維持を望む自分。
でも、同じくらい諦めの悪い、『彼女の笑顔』を見たいという自分。
いや、こちらの方が若干、気持ちが強いのだろう。
だから、俺は今この桜の木の下にいるんだ。
急に、さわさわと桜の木の葉がざわめいた気がした。生暖かい風が木々を揺らしたのだ。
そして、音もなく、気配もなく…彼女が現れた。
「おかえり、ミオ」
俺は笑顔でそう呼びかけた。わりと冷静な自分に、内心驚く。
ミオは、俺の顔を見止めると、ふわりと笑った。
“ただいま”
その動いたミオの唇でそう言ったのが分かった。そして、ミオも俺の隣に座る。
「ミオ、今日は俺の話を聞いてほしいんだ」
俺はまっすぐと、隣の彼女の瞳を捕らえた。
彼女は、一瞬不思議そうな顔をしたが、コクリと頷いた。
「俺の昔話」
俺は、そう言ってにやりと笑う。それで、構えていたミオの表情が和らいだ。
「昔々、ある青年が、とてつもなくすさまじい女性に恋にをしました。青年は、いつもいつもいつもいつも…彼女に振り回されて…ぐったりしていました」
その、とてつもなくすさまじい女性は何がすさまじいのかというと、とにかく周りを巻き込んで突き進んでいくんだ。
自分のしたいことを、手に入れたい夢を、いつも追いかけてまっすぐに生きていた。
“今”が永遠でないことを知っていた、女性。
「彼女の名前は……美生」
俺は少しためらいながら、そう口にした。
ミオの口が『え?』とビックリしたように動いた。
「ごめんね、実はこの名前は、君に付けた名前じゃないんだ…」
ミオは苦しそうな表情で数秒見つめた。その短い時間で、あっという間に涙があふれていく。大きな瞳から雫が零れ落ちそうになった瞬間、ミオはすっと目を伏せた。
俺は、胸が痛かった。
ミオの瞳から零れ落ちた涙で、首が絞まって息が出来ないんではないかと思うほど、苦しかった。
最低だな、俺…本人が喜んでたとはいえ、前の女の名前を付けるなんてな……。
しかし、これも自分が巻いた種。彼女から目を逸らしてはいけない。
俺はそう思ったんだ。
ミオ自身のショックを思えば、甘んじて非難を受けるほかないのだ、と。
俺は顔をしかめ、手をミオの肩へ伸ばそうとして、その手を止める。
今、ミオの涙をぬぐえないことが、抱きしめられないことが、『罰』なのかもしれない。
静かに涙するミオを見つめながら、俺は続けた。
「彼女は、体が丈夫ではなかった。だからこそ、今やりたい、と思ったことは、今やる!っていう生き方をしていたよ。そんな危なっかしいところが見てられなかったんだろうね…」
いつでも全力疾走、とはよく言ったものだった。
突然、沖縄の海が見たい!と言い出して、次の日の朝には、二人でほんとに沖縄に居たことや、京都の桜が見たい!と思い立ったその日のうちに出発して、『あ、新〜?今京都〜あはは』と電話を受けたので、慌てて京都まで迎えに行ったことや…。
酒は弱いし、あまり飲んではいけないと医者に言われているにもかかわらず、友達との飲み会で、先頭にたって盛り上げているうちにノリで酒を飲みすぎ、前後不覚に陥り『飲んじゃった〜迎えにきて〜』と呼び出されたこともあった。
“今”が大事で、今やらないと、“明日”はないかもしれない。
そう、彼女はいつもどこかそんな脅迫観念にとらわれていたのかもしれない。
『どうせ、いつか散るなら、桜の花のように、ぱ〜っと綺麗に咲いて、ぶわ〜っと綺麗に散りたいな〜』
彼女の口からそんな言葉が出てきたことがあった。今おもうと、そのように逝ってしまった気がする。
その日は、俺と純とで次の日の花見計画を立てていたとこだった。
深夜だというのに俺の携帯が鳴った。
『公衆電話』の表示に俺は首を傾げながら電話を受けた。
美生の母親だった。
突然の発作で亡くなった、そう言っていたような気がする。
実はよく覚えてない。何を言っているのか理解できなくて……。
「純…悪い」
俺はそれだけ言って携帯を純に差し出した。純が変わりに応答してくれたようだった。気がついた時には俺は純につれられて病院にいた。
そこには…美生によく似た人が病院のベッドに寝ていた。
「みお……」
俺はなんとか美生の近くまで歩いて。
その穏やかな顔を見た。
呼んでも返事がない。
でも寝ているようにしか見えない。
何で目を覚まさないんだ。
昨日、「明日は花見に行こう!桜が見たいの」と元気に笑っていたじゃないか。
こんなところで寝てる場合じゃないだろう。
早く明日の準備しろよ。
そう言ってやろうと思ったんだ。
でも……勝手に出てきた涙が邪魔して、声が出てこなくて。
俺はそっと美生の頬を撫でようと手を伸ばした。
でも、できなかった……。
冷たい美生の体を感じることが、美生の死を認めることになる気がしたから。
だから、触れなかった。
怖かったんだ。
怖くて…最後まで俺は、美生には触れることができなかった。
抱きしめてやればよかった、何度もそう思った。
あの時、美生を抱きしめてやればよかった。
もう、二度と抱きしめてやれないのだから…。
そして俺は、彼女の両親から彼女の最後を聞かされた。
『ありがとう、楽しかった。新に会えて幸せだった』
そう、伝えてくれと、彼女は言ったそうだ。
俺は、桜の木を仰ぎ見て、クスっと笑った。
「どうして、最後まで、俺を待っていてくれなかったんだろう。最後まで、俺が彼女を追いかけて、今度は追いつかなかったんだ。逝く時まで突然で、きっと『あ、天国いってくる〜』みたいに、その辺に散歩に行くみたいに、逝ったんだあいつは…」
美生の話を、笑いながら話せる自分に少し驚いた。でも、心は落ち着いていた。
俺は、ミオを見た。神妙な面持ちで聞いている。涙はいつの間にか止まっていたが、彼女に笑顔はまだ戻らない。
その時、ミオの唇が動いた。
“大丈夫?”
彼女がそう言った気がした。
その心配そうな表情から、俺が辛い話をしているんじゃないか、そうミオは感じたようだった。
「大丈夫だよ、今はもう…」
俺はミオに笑いかけた。
「確かに、彼女が亡くなったあと、俺は彼女に何も出来なかった、何もしてやれなかった自分を悔いて、恥じて…彼女を忘れないように、過去にしないようにしようとしてた。でも苦しくて、仕事に逃げた。仕事していれば、何も余計なこと考えないですんだから…。ガンガン仕事して、必死になってた」
そんなときに、君にあったんだ、と俺は優しくミオに笑いかけた。
つられて、ミオの固くこわばっていた表情が一瞬和らぐ。
「君に会って、自分が彼女の死から逃げていたことに気がついて…それで、自分に向き合った。逃げるのはやめようと思った。…君に恋をしたからだ」
こんな気持ちになれたのは、君のおかげなんだよ、ミオ。
伝わっているかな、この気持ち。
好きとか、なんて言葉じゃ足りないんだ。
「今度は、ミオの番だよ」
俺は、“私の番?”と不思議そうにしているミオをまっすぐ見つめた。