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*28*笑顔が見たいから

 翌日、俺が職場を後にしたとき、静かに雨が降っていた。現時刻を確認すると、あと十数分で19時。

 先日から降っているこの雨は、天気予報の通り、明日まで続くのだろうか。


 ミオに会わなくてすむ。

 心のどこかでそう思っている自分がいる。


 

 俺は傘をさしながら、家路についた。

 傘が奏でる雨音は、俺をどうしても重たい気持ちにさせたが、原因はそれだけではないことぐらい自分でもわかっている。


 ミオは、生きている。

 今も、しっかりと生きているんだ。


 誰に確認したわけでもないが、間違いなく、ミオは“武山美桜希”という女性だ。

 彼女は、2年という長い時間、あの病院の無機質なパイプベッドの上に横になったままだという。外傷は無く、素人目には、ただ眠っているようにしか見えない。

 静かにリズミカルに呼吸を繰り返し。

 ずっと眠り続ける。


 そう、目を覚ましたくない理由が、あるからだ。



 俺の中ですべてが繋がった気がした。

 

 彼女が目を覚ましたときには、自分の隣にいた妹、優希の姿はない。しかも、その妹の笑顔を奪った原因は、彼女自身。

 守れなかった。

 妹の未来を、妹自身を。

 いや、むしろ。

 妹からすべてを奪ってしまった……。

 それなのに、自分だけは生き残って……。


 そんな現実が、目を覚ましたときに待ち受けていることを、彼女はわかっているような気がした。

 もしかしたら、事故当時、彼女は薄れ行く意識の中で、すべてを目にしていたのかもしれない。


 だから、目を瞑った──。

 


  

 俺にはその気持ちが痛いほど分かる。身に覚えがあったから。

 俺もそうだったんだ。

 忘れたふりをして、見てみぬふりをして、そこから逃げて。

 必死に逃げて、逃げて。

 でも、もう。

 

 気がついたんだよ。


 ミオ、君に出逢って、逃げていた自分に気がついたんだ。

 逃げても、何も進まない。

 何も得られない。

 ちゃんと目を開けて、前を見据えて、苦しくても辛くても、もがいてもがいて、でも、ゆっくりでも一歩一歩前に進まないと。


 今を生きていかないといけないんだ。

 俺たちは生きているんだから──と。


 


 だから、彼女に“生きてほしい”。

 どんなに辛くても。


 そのためには彼女がしっかりと“記憶”に向き合う必要があるのかもしれない。


 

 都合よくいくんだろうか…。

 俺は、不安に襲われた。


 今、記憶を手に入れたミオは徐々に消えていっている。

 彼女がすべてを思い出したとき、ミオは消えて、そして、武山(たけやま)美桜希(みさき)が目を覚ます──?

 漠然と、当たり前のように、そんな気がしていたがそんな保証はどこにもない。


 すべて思い出したとき、ミオはそのまま逝ってしまったりしないだろうか。

 よしんば、武山美桜希が目を覚ましたとして、彼女は俺のことを覚えているのだろうか。


 ぐるぐると、俺の頭の中を黒い渦が襲う。




 いつの間にか、俺は足を止めて呆然と足元のアスファルトを眺めていたことに気がついた。まだ、時間が早いので、通行人が不審そうに俺を眺めながら、避けて行く。少し、ばつが悪くなって、あたりを見回すも、再び歩き出した。

 しかし、すぐにピタリと再び足を止める。

 俺は、唇の端にぐっと力を入れて、(きびす)を返した。





 1時間後、俺は途中で買った小さな黄色いバラの花束を持って、“武山美桜希”の病室の前に居た。

 ゆっくりと、俺は彼女に歩み寄る。


 胸がドキドキと早く鼓動するのは、病院の最寄り駅から走ってきたからだけではないのだろう。

 その白い肌。

 サラサラと白いシーツに零れた黒髪。

 気持ちよさそうに眠る彼女の寝顔を俺はしばらく静かに眺めていた。

 

 そっと彼女の手を握る。

 暖かな体温が俺の手に伝わってくる。

「ミオ…」

 俺は、彼女の手を握りながら、もう片方の手で彼女の頭をなでた。

「なあ、俺の声が聞こえるかい?」

 俺は返事のない彼女の顔を眺めながら、ふっ、と頬を緩ませた。

「もう、目を覚まそう、ミオ。目を覚まして、俺に『ただいま』って言ってくれよ」


 やっぱり、全部話そう。

 

 彼女の顔を見て、そして、決心がついた。

 おせっかいかもしれないけど、君をこのままにはさせておけないよ。

 あの桜の木に縛られて、そして、ここでもベッドに縛られて…ただ寝ているなんて、ミオらしくない。

 もし、すべてを思い出したミオがこの世から消えてしまったとしても、あの桜の木に寂しく一人でいるよりずっといいと思うんだ。


 それに、すべてを思い出して、ミオが“武山美桜希”として再び人生を歩み始める可能性があるなら、その可能性に賭けたい。

 だって。

 笑っているミオが見たいんだ。

 コロコロ変わる、彼女の表情を取り戻したい。

 そして、彼女の声が聞きたい。


 今、俺の目の前にいる彼女が、本当に再び目を覚まし、でもその時に俺のことをまったく覚えていなかったとしても、彼女が笑って生きていてくれるなら、それでいい。

 俺は、強くそう思った。


 


「おやすみ、ミオ」

 俺は、そっとミオの手の甲にキスをした。


 今は、おやすみ、ミオ。

 明日はたたき起こすから、覚悟しとけよ。


 もう一度だけ、俺はミオの頭をなで、病室を後にした。


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