*26*扉の向こう(前編)
俺は窓の外から聞こえる雨の音で目を覚ました。ベッドから起き上がらずに、手を伸ばしてテレビのリモコンを探りあて、テレビをつける。チャンネルを回すと、ちょうど天気予報が流れてきた。あさってまで、予報によると雨が降り続くという。
俺は、どこかほっとしている自分に気がついた。
ここ約一週間、ミオには会っていない。
目を覚ました俺に気がついた子猫が、朝ご飯を催促しに近づいてきた。
どんな時でも朝はやって来る。
どんな時でも腹は減る。
俺は重たい体を起こして、ベッドを後にした。
今日は日曜日。俺にとっては久しぶりに仕事から解放された休日だった。休日とはいっても名ばかりで、俺が仕事に精を出すことが日常茶飯事だからだ。やることは山済みなんだ。どこから手をつけていいか分からなくなるほどに、いくらでも沸いてくる。
ちゃんと休日には体を休めないと健康的ではないということは、重々承知していた。友人たちや同僚から、『働きすぎ!』とお叱りを受けることも、少なくない。いや、しょっちゅうである。
それでも、俺はまるで自分を虐めるように仕事をしてきた。そう、あの日からずっと。
しかし、今日は違った。
久しぶりに、完全にオフの日を作ってあった。それは、もともと、ある計画を実行するためだった。
それは、 “武山優希に会いに行く”ということだった。
もう彼女が亡くなっているということや、武山優希の実家の住所が分かった時点で、その武山家に訪れてみるつもりだったのだ。
先日のミオの異変を目撃する前に、予定していたことだった。
ミオのあんな姿を思い出すと、以前のように心弾ませて武山家にいくことは、もうできないでいた。
それでも、俺は真実を受け入れよう。
行こう。ミオ、君の住んでいた家に。
君に会いに。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
数時間後、俺は、地図を片手に傘をさしながら『武山』という表札の家の前に立っていた。俺のアパートから電車を使って1時間ほどの距離だった。都心から少し離れた閑静な住宅街に、彼女の家はあった。
俺は、しばらくの間、そのインターホンの前で立ち尽くしていた。その玄関のドアが、俺には大きく重く感じた。このまま、ドアの向こうへ足を踏み入れないという選択肢もある。そうすれば、ミオとも、今のまま会うことは可能なのかもしれない……。
情けないな……この期に及んで……。
俺は、思わず苦笑した。
一つ大きく深呼吸する。
そして、震える指で、インターホンを押した。
その音に反応して、家の中でゴトゴトと物音がしたかと思うと、「はぁ〜い」と若い女性の声が聞こえてきた。
……ミオの声に似てる!
俺は心臓が、ドクンと跳ね上がったのがわかった。
玄関のドアがゆっくりと開き、そのドアの向こうにあわられた女性に俺は釘付けになった。
似てる!
俺は息を呑んだ。
どこと無く似ている。
ミオよりも髪は短く、ショートカット。そして、目はミオの方が大きくまん丸だ。口元は似ているかな。
俺は、じっくりとその女性とミオを比較していた。その失礼な視線を不快に思ったのか、気が付いたときには女性の瞳に不審感が宿っていた。
「あ、すいません。あまりにも似ていたので…」
俺は正直に、弁解した。
今度は不思議なことを言い出した不審な男を、女性はいよいよ怪しい、といった顔で見つめ返す。
「私は、武山優希さんの古い友人なんですが…。妹さんですか?」
俺の口から出てきた名前がよっぽど思いがけなかったのだろう、女性は驚いた表情になった。
あ…ミオにそっくりだ。
俺は、少し嬉しくなった。間違いない、ここが彼女の実家だ。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
「優希は確かに、私の姉ですが……何か御用ですか?」
女性は、どうやら広告や勧誘ではないとわかったらしく、多少先ほどよりは警戒を解いてくれたようだった。
「実はしばらく、海外にいたもので、彼女が亡くなったことをつい最近聞いたんです。是非、お線香を上げさせていただきたくて……失礼かと思いましたが、今日こちらにうかがわせていただいた次第です……」
俺は、道中に考えてきたシナリオどおりのセリフをつかって説明しはじめる。内心ではこんな内容で信じてもらえるのか、どっきどきであったが、彼女の表情を見る限りではどうやら成功したらしい。俺は、こっそり胸をなでおろした。
「……そうでしたか。そういうことなら、どうぞ」
彼女は、笑顔で俺を家の中に招き入れた。
その笑顔もどことなく、ミオを思い出させる。ただ、若干似ているだけあって、小さな違いが俺にとってはミオをさらに恋しく思わせ、胸がちくっと痛んだ。
俺は、導かれるままに仏壇の前に座った。そこに飾られた写真は、確かにアルバムの少女だった。
しかし、なんとなく俺は、その写真はミオではないような気がした。どうしてか、と問われても理由はわからない。なんとなくは、なんとなくである。現在のミオよりも数年若い頃に撮られた写真なのだろう。だから違和感がある、それだけのことなのかもしれないな、と俺は特に気に留めないことにした。
俺は用意されていたロウソクに火を点け、線香に煙を立たせる。そして目をつぶり、ゆっくりと手を合わせた。
ミオ。会いに来たよ。
ここで手を合わせて君に話しかけているのも、なんだか不思議な気がするね。
ていうか、これミオに聞こえてるんだろうか……あとで聞いてみよう。
そんなことを考えていたら、俺は思わず噴出しそうになってしまった。しかし、ここで計画を台無しにするわけにはいかないので、必死でそれを堪えることに成功する。
目を開けてロウソクの火を消し、背後を振り返ると、やさしく微笑む先ほどの女性と目が合った。
「ありがとうございました。……まさか久しぶりの再会が、こんな形になるなんて思ってもいなかったのですが……でも約束が果たせてよかったです」
俺は、彼女に向かってスラスラとそうセリフを述べた。我ながら役者だな。
俺がそんなことを思っているなんて知るよしもないその女性は、俺のセリフに興味を示したようだった。
「約束……ですか?」
「はい。といっても幼い頃の、ままごとのような約束です」
俺は笑顔で続けた。
「私は中学生のときに、彼女のことが好きだったんですよ。そして、海外に転勤になった親についていくことになったので、大人になったらまた会いに来てもいいか、と聞いて彼女にOKをもらったんですよ」
ははは、と笑って見せた俺に、彼女はうれしそうに微笑んだ。
「そうだったんですね。きっと、姉も喜んでると思いますよ。わざわざありがとうございました」
「いえいえ、私が彼女に会いたかったんですよ、ずっと……なのに……」
俺は、そこで言葉をきって、仏壇の方に目をやった。
「詳しいことはぜんぜん、聞いてないんです。事故だった、ということしか……」
「……はい、交通事故です……」
俺は彼女に視線を戻し、そっとその先を促すように沈黙していた。
「一番上の姉の運転する車の助手席に乗っていて、事故にあい……一番上の姉は、何とか命を取り留めたのですが……優希ちゃんは病院に運ばれる救急車の中で……」
彼女は、当時のことを思い出したのか、少し顔をゆがめ視線を下に落とし、そう続けたのだった。
「お姉さん…?」
一番上の姉?
三人姉妹だったのか……!
ミオは妹はいるとはいっていたが、姉がいるとは言っていなかった。しかも、姉が起こした事故でミオは命を落としたということなのか。
予想外の新情報に、俺は頭をフル稼働させた。
「はい、みさ姉は実は今も病院に入院しているんです……ちょうど今日、お見舞いに行こうと思っていたんですけどね」
「今も?」
「はい。もうあの事故から、2年。姉はずっと目を覚まさないんです……」
目を覚まさない……?
俺はとっさに、とんでもないことを口にした。
「お見舞い、同行してもいいですか?」
「え?」
案の定、彼女は俺の申し出に驚き戸惑っている。
とにかく、ミオの記憶につながりそうな話なら、一つ残らず持って帰ろう、その気持ちからでた一言だった。それに、もしミオが事故を思い出したときに、同乗していた姉の安否を気にするに決まっている。その時に、俺の目からみた実際の姉の状態を伝えてあげられるではないか。
とっさにそんなことを考えたのはいいが、正直にこれを説俺するわけにはいかない。
「いや、あの…」
俺は、何とかつじつまが合わないかと、目を泳がせながら懸命にもっともらしい理由を探す。
「……実は、私はお姉さんと同学年で……お姉さんとも面識が無いわけではないので……その……突然で、お邪魔でなければ……是非……」
彼女は、困ったように俺の様子を伺っている。
失敗したかな。
無理やりすぎたか……?
これは、今日は諦めた方がいいかもしれない。
「あの、すいません、ご迷惑ですよね。病院だけ教えていただけますか?後日、改めて伺うことにします」
俺がそう申し出ると、それは逆に手間を取らせて申し訳ない、と思ったのか、「近所なので、一緒に行きましょう」と、彼女は俺が病院に同行することを承諾してくれた。