*22*心の湧き水(前編)
その日俺は職場を0時前に出ることができた。
明日はやっと休日らしい休日を迎えることができそうだ。約一ヶ月ぶりの自由な時間に、仕事のことで張り詰めていた気持ちが一気に緩む。
武山優希という少女の存在を知ってから、ますますミオに会いたい気持ちは膨れ上がる一方だったが、なぜか同時に忙しさも増すばかりだった。
やっと時間ができたと思えば、世の中は大型連休のニュースで持ちきりだ。
きっと彼女がミオでなければ、なんでこんなに会う時間作れないのよ、とか言われてフラれている気もする。いや、実際ミオにもフラれているかもしれないな、こんな1ヶ月近く放置するような男なんて。
苦笑しながら、俺は川原に向かった。
時計は23時55分をさしている。
俺は桜の木を背に、すっかり緑の葉をつけた桜木を眺めていた。
あと5分。
あと数分で君に会える。
胸が躍る。
君に会いたい。
君の笑顔が早くみたい。
なんて長い5分間なんだろう。
何度時計を見ても、20秒くらいしか針は進んでない。
待ち遠しい。
心臓が勝手に強く早くなっていく。
そして―――
ゆっくりと俺の待ち望んだ姿が映し出されていく。知らずに息を飲んで、俺はそれを見つめていた。
「新くん、おかえりなさい」
月明かりに照らされた彼女の笑顔は、この世の何物にも勝る。
俺は本気でそう思った。
どれほどその声が聞きたかったことか。
どれほど君を抱きしめたかったことか。
狂おしいほど、俺は君だけを望んでいる。
この気持ちをどうやって伝えよう。
俺が知ってるどの言葉を使っても、到底足りないきがする。
半ば見とれて呆然とする俺に、ミオが微笑んだ。その瞬間、俺の心にふわりとやわらかくて暖かいものが入り込んできて、そして全身に一瞬で広がったのがわかった。
すごいね、君は。
君のその笑顔が、こんなに俺の心を軽くする。
仕事の疲れも、不満も、愚痴も、全部どこかに飛んでいってしまうんだ。
ミオはそっと俺に近寄り、俺の腕の中に収まった。
俺は、1ヶ月ぶりの温もりをしっかり体中で受け止めた。
そして噛みしめるようにやっと……。
かすれた声でなんとか……言葉をミオに届けた。
「ただいま、ミオ」
俺は、ミオの存在を全身で確かめるように強く抱きしめた。ミオもしっかりとそれに応える。
「会いたかったよ」
小さく震えながらミオは言うと、ぎゅっと俺の背中に回した手に力を込める。
俺も言おうとした。
俺もずっと会いたかった、と。君のことを思い出さない日はなかった、と。
しかし、そんな月並みなセリフでは足りないんだ。
だから俺は、ミオを抱きしめる手にすべての気持ちを込めた。
――愛しい。
知らなかったよ、君に会うまで。
心って液体だったのか。
こんなに泉のように後から後から気持ちは溢れてくるものなのか。
俺は自然と口にしていた。
初めて使うその言葉を。
「愛してる、ミオ」
ミオの体がぴくりと反応したが、何も言わなかった。
それでよかった。
俺もそれ以上何も言わずに、静かに涙するミオをしばらく抱きしめていた。
どのくらいたったのだろう。
「新くん…痩せた?」
その言葉に少し体を離してミオの顔を見ると、頬を膨らませていた。
心配して怒っているのだろうが、俺の色ボケメガネには可愛いなぁ、としか映らず、つい笑みがこぼれる。
「何笑ってるの!?」
それを見た彼女が、ますますフグのように膨れた。
俺はますます笑顔になる。
だめだ、可愛いすぎる。
俺は彼女の膨らんだほっぺたを突っついた。そして何か抗議しようとした彼女の口を自分の口で塞いだ――。
「……っ!」
初夏の風が二人の髪を優しくなでていく…。
唇を離すと、ますます頬を膨らませて真っ赤になる彼女の顔が見え、俺はだらしない顔でにやけているのが自分でもがわかった。
しょうがないではないか、惚れた女とキスをして喜ばないのは男ではない。
そんな変な言い訳を自分にしていた。そうすることで、冷静さを保とうとしているのかもしれなかった。
「このところ無理して働いたかな。ごめん、でも俺、体は丈夫だからなかなか壊れないよ」
「ヤダ」
「……以後気をつけます、無理しないように善処いたします」
「つーん」
彼女はそっぽ向いたまま、でも俺の腕の中からは離れようとせず、がっちり自分の腕を俺の背中に回している。
怒ってるんだろうけど可愛いから……つい虐めたくなるんだよな、全然分かってないだろうけど。
俺は思いついた意地悪を実行に移すことにした。
「ミオ…せっかく会えたのに…顔見せてくれないの?」
俺がわざとしょんぼりした声をだしてみせると、とたんにミオは慌て俺を振り返った。そして、俺のニヤニヤと勝ち誇った顔を目の当たりにするはめになり、たちまちミオの顔が真っ赤に染まった。
「騙したわねっ!」
「正直に言っただけデスヨ。人聞きが悪いデスネ」
おどけた声をだした俺に、ミオはいよいよ恥ずかしいやら、悔しいやら、といった顔をして、拳で俺の胸をポカポカと叩いた。
「むきー!許せないっ」
そう言ってミオは背伸びをして勢いよく俺の唇を奪った。
一瞬何が起きたのか俺には分からなかった。情けないことに、真っ白になっていた。
自分からミオがこんなことをするのは初めてで頭がクラクラする。俺は全身の感覚が唇だけに集中するのがわかった。
唇を少し離して、どうだ、参ったかと言わんばかりのミオの顔に俺は呟いた。
「……それ……逆効果だから」
「え?」
この後、ミオは俺に唇を塞がれ、しばらく話すことを許してもらえなかったのは言うまでもない。