*15*記憶のかけら
次の日、机の上にコトンと置かれたマグカップから漂う香ばしいカフェインの香りで目が開いた。
「風邪引くわよ」
ぼーっとする俺の頭を大谷先生が右手で小突いた。
もう朝か…。
昨日はあれからまた職員室へ戻り、仕事を再開しいつの間にか寝ていたようだ。
「顔洗った方がいいわよ。もう7時だから」
「ん…ありがと。相変わらず大谷は朝が早いな」
俺はコーヒーをすすった。
「なに言ってるのよ。いつも日付が変わるまで残業してる人が…」
彼女が少し声を低くした。俺を心配してくれてるからだというのはわかっている。
俺は肩をすくめるしかなかった。
俺は一度家に戻り、猫の世話をし、シャワーを浴びてすぐに職場に戻る。
その日も家には帰れず、職員室で夜を明かした。
そして、3日目の夜。
「お、終わった……」
俺はヘロヘロと机に突っ伏した。
「もー今日は仕事しないぞ…絶対しない……」
思わず独り言がでてしまうほどに、俺は疲れ切っていた。
久しぶりにこれで、我が家のベッドで寝れる…というか、今何時だ……?
俺は自分の肩を揉み解しながら事務所の時計を見ると、0時半だった。
思わず窓の外を見る。
雨は降ってない。
間に合う!
疲れ切った体に鞭を打って、椅子から立ち上がった。
しかし、さすがに走る体力は残ってない。
でも、まっすぐ俺の足はあの桜へと向かう。そして堤防のところにたどり着いた時、桜の木の下でこちらに手を振るミオが小さく見えた。
それを目にしたとたん、俺の足が軽くなる。堤防を川原の方へ駆け下りた。
「おかえりなさい」
すると、俺を見つけたミオが駆け寄ってきた。
そしてふわりと俺の胸の中に納まった。俺はしっかりとミオの暖かな体を抱きとめる。
「…ただいま」
俺の胸をじんわりと優しい気持ちが満たしていくのがわかる。
ただいま。
俺はこうやって、ミオにどれだけ癒されてるんだろう。もう、ミオの笑顔なしの毎日なんて想像できない。
そう思った。
その時だった。
ほぼ同時に二人して、あれ?と顔を見合わせた。
「ミオ…!?」
「新くん…!」
無言のままに見つめあい、二人で同時に視線を足下にうつす。
「私……歩けた……?」
「2歩だけど…木から前進してるよね、ミオ」
そうなんだ。
ミオはさっき俺の胸の中に駆け込んできたんだ。
あんまり自然な動作だったからすぐには気がつかなかったけど、確かにミオの体が2歩分だけあの桜の木から離れていた。
「……うん、あんなに前に進めなかったのに!」
「……よかった、のかな……?」
「どうなんだろう……?」
もう一度二人して難しい顔を見合わせて、ぷっ、と同時に噴き出した。
「久しぶりに会ったのに、歩けた、ってどうなんだろうな俺たち」
「ほんとだね!あははは!」
「ごめんな、急な仕事が入ってなかなか来れなかったんだ」
「大変だったね、お疲れ様」
ミオは手を伸ばし、俺の頭をなでた。
あれ?なんだこれ。子供扱いされてるのに、嫌じゃない。
…俺どうなってんだ?
自分が彼女の前だと、別人になってるのがわかる。これがホントの自分なんだろうか。
恥ずかしくなって、思わずミオから視線をそらす。その間もミオは満面の笑みで俺の頭をなでていた。
「もしかして…照れてる?」
そう言われて、はっとしてミオの顔を見る。そこにはニタリと得意げに笑ったミオの顔に、うっ、と言葉をつまらせる。
「あ、やっぱり照れてる!かわい〜!いい子いい子〜」
ミオは調子に乗ってさらに、しかも大げさに頭をなでた。
「……こんの〜っ!」
恥ずかしさのあまり、俺は少し乱暴にミオの唇を奪うという暴挙にでた。
突然のことに予期してなかったミオは小さく悲鳴を上げたが、そんなことは知ったことではない。俺は照れ隠しを強行したのだった。しばらく驚きのあまり固まっていたミオから、ゆっくりと唇を離して俺はニヤニヤと笑ってみせた。
「顔真っ赤、ミオちゃん可愛い〜」
「……生意気っ!」
真っ赤な顔でミオが、俺の胸を軽く拳でたたいた。
「頑張ったご褒美はもらわないとね」
勝ち誇るように、ミオの柔らかな唇を人差し指で、ちょんちょん、と突っつく。もちろんわざとミオの負けず嫌いなところを刺激させるために。
「もう!」
ミオは益々、頬を赤らめて頬を膨らませる。
そんなミオを眺め、俺は自然と口元が緩む。
かわいい。
もっとミオの表情豊かな顔を見ていたい。
素直にそう思った。
「ていうか、そもそも生意気って、ミオより俺のが年上にみえるけどね」
「……そうなの?」
「ん〜、ミオ20歳前後だと思うよ」
「新くんは23だっけか?」
「そ、よく覚えてるね。1月に23になったばっかり」
不意にミオの顔が曇った。
「あたしいくつなんだろう。誕生日いつなんだろう…」
しまった……。
俺は心の中で舌打ちした。
「焦らなくてもいいじゃん。こないだちょっと思い出したんだから、また何か思い出すよ」
今度は俺がミオの頭をなでながらそう言ったが、その言葉はどうやらミオの耳には届いていないようだった。
「……私、桜の時期だったかも、誕生日」
ミオはどこか遠い目をしながら、ぽつりとつぶやいた。
「また思い出したの?」
ミオの顔をのぞき込むと、やはり考え込むように続ける。
「……桜の花と……」
ミオはゆっくりと桜の木を見上げる。
「……妹…?」
その言葉がミオの口からこぼれた瞬間、ミオは大きく目を見開いた。視線が中をさまよう。
「……ミオ?」
様子がおかしい。
俺の問いかけもミオの耳には届かない。
「……そう……妹が……い…た…」
ミオの膝ががくがくと笑い出す。今にも腰が抜けそうなミオの腕をつかんで支えてやる。
「ミオ!?」
だが、みるみるうちにミオの大きな瞳から涙があふれてきた。
「新くん……私……妹がいたの……どうして?……涙が止まらない……」
「ミオ、落ち着いて」
震えるミオをどうにか落ち着かせようと、自分の方へ引き寄せようとした時だった。
―――――え?
へなへなへなっとその場にミオが膝をつく。
今…ミオの体を手が通り抜けた……!?
数秒、呆然と自分の手を眺めていたが、はっ我に返って再びミオの肩を抱こうと手を伸ばす。しかし、それよりも早く、ミオの方から逆に俺の胸の中に飛び込んできた。
「新くん……私、思い出すのがこわい……こわいよぉ……」
ミオは俺の腕の中で震えている。
ミオの華奢な体を抱きしめながら、俺は呆然としていた。
今のは、なんだったんだ…?
その疑問が頭の中をぐるぐると回る。
漠然とした不安がおそってくる。その不安をかき消すように、泣きじゃくるミオを抱きしめる腕に力を込めた。
「俺がそばにいるよ。一緒にいい方法を考えよう……だから、泣かないで……」
俺はミオの頬を両手で挟み、笑顔を見せた。
ミオがその笑顔につられて、少し笑顔になる。
やっと笑ってくれた。少しほっとして、俺はそっと指でミオの涙をぬぐう。
「笑って、ミオ」
ミオは涙でぬれた瞳で笑顔を懸命に作って見せた。
そして──そのまま徐々に色を無くし……静かに闇の中にとけ込んでいった。
俺はミオの頬を覆っていた腕を、力なく降ろすしかなかった。
いったい彼女はどんな大きなものをその細い肩に背負っているのだろう。
自分に出来ることは何かないのだろうか。
いつの間にか咲いた桜の花びらが、俺の目の前を儚げに舞う。
桜が泣いている。
俺にはなぜか、そう見えた。
「……ミオ……」
かすれた声が、春を告げる風に乗って河の方へ運んでいく。
風が指をかすめた時に、一指し指にミオの暖かな涙が残っているのをはっきりと感じた。
胸が締め付けられるように痛い。
ねえ、ミオ。
そろそろ、君が目の前で消えていく姿を見るのは限界なんだ。
さっき一瞬感じた不安。
君に触れることができなくなる日が、遠からず来るのかな……。
君が俺の前から消える日が…来るのかな……。
このままでいられないことは、わかっているんだ。
ただ、今は。
もっと君と一緒にいたい、それだけなのに。
それがこんなに難しいことだなんて思わなかったよ。