*14*ただ、それだけだから(後編)
「…はぁ…はぁ……っ……み…お…」
その場所に必死でたどり着いた時、汗だくで息も絶え絶えになっていた。
もう、自分でも何を言っているのかわからない。
胸の鼓動がうるさい。
呼吸がじゃまで言葉が出てこない。
確かにそこには彼女がいた。
俺が数日何度も恋焦がれた、笑顔が出迎えてくれたのだ。
一気に体温が上昇したような気がした。頭も真っ白になる。
こういう時、勝手に体は動くものなんだ。
俺は彼女の体を力一杯抱きしめた。
全身の感覚器官という感覚器官が、彼女の体温や香り、呼吸、鼓動を一つも漏らさないように集中しているのがわかった。
不意に彼女が俺の胸の中で優しく囁いた。
「おかえりなさい」
俺はその一言で、一瞬にしてすべてが拭われた気がした。昼間受けた理不尽な仕打ちも、それをただ受け入れるしか出来ない状況下も。なんだか、ちっぽけなことのような気がしてきた。 そして、同時にこう思った。
“おかえり”ってこういう時に使うんだね。
こんなに暖かい言葉だったんだね。
こんなにほっとする言葉だったんだね。
「ただいま…」
自然にこぼれ出る言葉──。
とくん。
とくん。
暖かな心地よい彼女の鼓動が俺の鼓動と重なる。
真っ黒な不満の雲がサンサンと輝くまぶしい太陽で吹き飛んだ、そんな気持ちだった。
あんなにギスギスしていた自分から、笑みがこぼれることが不思議であり、同時に自然のような気もする。
心が軽い。
来てよかった…。
汗だくになって、くたくたな体に鞭打って、必死に走ってきただけのものを、もうすでに手に入れた気がした。
「ミオ…」
「どうしたの?何かあった?」
俺の様子にミオも気がついたようで、少し体を離し心配そうに俺を覗き込む。
「…いろいろと。でもミオの顔を見たら全部吹っ飛んだ」
安心させたくて、俺は笑顔を作る。
「もう元気になったの?」
「うん」
返事をしてから、自分の口からそんな返事が出てきたことに驚いた。
うん、だって……。思わず苦笑いしてしまう。
“ああ”とか“そうだな”とか“みたいだな”とか、普段なら違う単語を使う。間違っても“うん”なんて言わない。
俺は、照れくさくて思わず視線を泳がした。でも、その様子をミオは見逃さなかったらしい。
「なぁに?うれしそう」
ミオは笑顔で俺の顔をのぞき込む。
「……ミオの前では、俺はえらく甘ったれだなっと思って」
「え、そうなの?私はその甘ったれな新くんしか知らないからなぁ〜」
ミオはくすくすと笑った。
一緒になって微笑んでいた俺は、すっと真顔に戻ってミオの頬にそっと触れた。
「ミオ」
まっすぐミオを見つめる。
「なぁに?」
名前を呼ばれたミオは、きょとんした顔でこちらを見ている。
俺は一呼吸置いた。
喉が、ごくんと鳴る。
そして、かみ締めるように、はっきりと告げた。
「好きだよ」
ミオの瞳が大きく見開いた。そしてすぐに満面の笑みになって。
「私も新くんが好きよ」
その一言で、小躍りしそうなほど嬉しいって言ったら、また君は可愛く笑うのかな。
でも、真実だから。
お馬鹿って言われても、かまわないよ。
ただ、君が好きで。
それだけだから。
二人はどちらからともなく、そっと唇を重ねる。
それがまるで合図だったように、音もなくミオは姿を消した。
やわらかな唇の感触とぬくもりだけを残して。