*1*風の絵
忙しい毎日の中で、めまぐるしく時間が過ぎていく。
“君”が俺の前から姿を消してからもう3年という月日が流れたらしい。
仕事は充実している。
「松本、今日も遅くまで頑張るな〜」
笑顔で俺に声を掛けてきたのは、隣の席の香坂先生だ。30台半ばの彼は、まだまだ若々しい。新人の俺に教師の仕事を丁寧に指導してくれたのが彼だった。
「ありがとうございます! これだけやっちゃったら帰りますよ、今日は」
「あんまり、無理するなよ。お先」
「お疲れ様でした」
さわやかな笑顔で、ぽんぽん、と俺の肩を軽く叩くと、香坂先生は職員室を出て行く。
一人になった職員室の時計に目をやると、もうすぐ日付が変わりそうだということに気づいた。
こうして一人になる時間は嫌いだ。
考えなくていいことを考えてしまう。
一瞬でも、そう思っただけでもう頭からこの黒い霧は晴れるどころか、濃くなっていくんだ。
……もう3年……。
いや、あれから、まだ…3年。
またこの季節がきた。
だめだ、集中できない。
思わず深いため息がこぼれた。
休憩しよう。
俺は、マグカップを片手に席を離れて、給湯室へ向かった。給湯室に入ったとたん、誰かが閉め忘れたのか、数センチ空いた窓からの冷たい風に出迎えられた。
「寒……」
窓を閉めようと手を伸ばし、ふと窓の外の風景に目をやった。
その窓の正面には大きな木が見えていた。
この学校から徒歩で5分ほどの距離に、かなり川幅の広い川が流れており、そのある川原にはかなりの数の桜の木が植えられている。春になるとこの桜並木を目当てに集まった花見客でにぎわうのも、地元では見慣れた光景だ。
その桜並木でも、一際大きな見事な桜木が、ちょうどこの学校の給湯室の窓から一直線に見えていた。
これだけでも、俺にとっては大きな発見だ。
川原の堤防があるため根本の方は見えないが、十分に横に広がった枝が見える。きっともっと暖かくなれば見事に咲いた桜の花がこの窓から見えることだろう。
その時だった。
違和感を覚えた。
だから、思わず二度見した。
「……ん?」
あれはなんだろう……。
白いものが見える。
しかもゆっくりゆっくり、その川原の方へ向かっているように見える。
俺は目を凝らしてそれをじっと見つめた。
月明かりを浴びてそこにぼんやりと浮き上がっているように見えた。
「……猫?」
はっきりと見えるわけではなかったが、妙にその猫が綺麗に見えた。
なぜだろう。
その桜木の深い緑と白い色。
月明かりと川原の闇。
まるで絵のようだった。
──その中に入りたい。
俺はそう思った。
一度気になると、気持ちを抑えることはできなかった。仕事の方はそっちのけだ。
もともと、自分で仕事量を増やしているところがあるのは自覚していたから、今日やらねばならないという仕事ではない。
もう今日は帰ることにしよう、と自分に言い聞かせるようにして、ざっと後片付けをし、さっさと職員室を後にした。
職員室を出たとたん俺は走り出した。
『廊下は走るな!』と普段、生徒たちに注意しているくせに。
自然と笑みがこぼれた。
息を切らして、俺はその白いもののほうに向かった。
だんだんと姿をはっきりとさせていく、それは、堤防の上にちょこんと座っていた。
やっぱり猫だった。
猫に近づくにつれて、足がだんだんと速度を落とす。
それと反比例するように、徐々に俺の顔が腑抜けていっているにちがいない。
俺の足がぴたりと止まった時、俺の思考もぴたりと止まった。
その瞬間、猫は堤防から川原の方へ駆け降りてその大きな桜の木の下へと向かっていってしまった。
でも、俺には猫を目で追う余裕はなかった。
堤防より低い位置にある木の根元のあたりは、見えていなかった。
だから、気がつかなかったんだ。
「あ、猫だ〜!かわいい〜」
そう言って、屈託のない笑顔で猫に手をふる女の子だった。