一匹目
とある関西圏の高校。
正午を知らせるチャイムが鳴り響く。
鳴ると同時に校内がざわついた。
静かだった時間に終わりを告げる。
試験が終わり生徒達が歓喜に湧いたのだ。
しかし、それは全員が歓喜するには至らない。
幾ばくかの生徒は肩を落とし絶望感に浸る。
それは、この物語の主人公である彼女も例外ではなかった。
小さな口で大きくため息をつく。
今終った試験が最悪の結果であった事は間違いない。
ほぼ白紙である数学のテストが、ヒラリと宙に舞い他の生徒の手にわたる。それを見た生徒が鼻で笑ってきた。
同じくフンッと鼻を鳴らしてやってもただの負け惜しみだ。
どうせ0点以外取れる訳がないと解っている。分かっていてもやはり悔しい。1点すら取れそうにないことも、こうやって鼻で笑われることも。
彼女なりに一生懸命やったのだから余計に。
この主人公、数学がかなり苦手なのだ。
机の上に広がる大量の消しカスは、何を消した物なのか。紙にある名前以外の文字は、全て印刷されたものであったというのに。
大きく飛び出しそうな程の黒い目ん玉で、戻ってきた生徒を何の気無しに見上げた。
「お前、何消すもんあってん? アホちゃう?」
「……出来る限りしたんや」
「ま、0点やろ」
「……えぇねん。アホやもん」
拗ねた主人公は口を尖らせ、紺色のブレザーを纏った袖に顔を埋めた。
同時に、短く切られたショートカットの黒い髪の毛がさらさらと揺れる。
諦めも肝心だ、と聞いたことはあった。
だがそれは、試験前にしか通用しない言葉であろう。今となっては諦めとかいう容易い言葉では片付けられない。
毎回のことでも中々受け止めきれない彼女は、再び大きなため息をついたのであった。
季節は初夏。
相変わらずの暑さだが、クーラーが掛かっているこの部屋に怖いものなどない。
唯一怖いものであった試験も終了した。明日を挟んだ二日間のテスト返し時間さえ終了すれば、夏休みを迎える。
そう考えれば、主人公の思考も少しは楽になった。
担任が連絡事項を伝えるも、テスト終わりの彼らの騒がしさに勝てる物は無い。一向に静かにならない彼等を止める気もない担任は、ようやく号令を出す。
コレだけは聞き逃さない生徒達が、ココぞとばかりに静かに直立する。
「礼!」
その一声で生徒達は蜘蛛の子を散らしたかのように、騒がしく散らばった。
勢いよく出ていくクラスメイトを横目に、のっそりと起き上がる主人公。今時の高校生らしく、女子であるのにスカートを履いていない。中性的な整った顔つきをしている彼女は、みようと思えば男子にも見える。今のご時世であれば、彼女を女性だと3割近くはすぐに判断できるであろう。
ブレザーと同じく紺色のズボンを身に纏う彼女は、ゆっくりと帰り支度を始めた。
「ナツ!!」
「……ん? あー……、何?」
「何? やないわよ、今日は、買い物行くって言うてたやん! ほら、自転車乗せてってーな!」
「……僕歩いて帰るし、ランが使い。寝たいねん」
「だーめっ! 自転車は借りるけど、あんたも来なアカンの! ほら、行くで!」
「……ごーいんやなぁ。ふぁぁ……」
気の強い主人公の女友達は、主人公、基ナツの腕を引っ張って廊下を歩き出す。
ナツを引っ張る女性は、茶髪で髪を巻き上げ付け睫毛やグロスで顔を塗り固めている。モデル体型の彼女は、大分と華の高校生を謳歌していると言えよう。
正に、蘭――ラン――という名前が似合う容姿であった。
男子高校生の平均身長を越え170cm付近の背丈とはうって変わり、20cmも小さい主人公ナツは、彼女に引っ張られるも嫌な顔はしていなかった。彼女を中性的にする要因にその身長の低さもあげられる。みようによっては中学男子に見えるのだ。引きずる蘭とは対照的な容姿である。
さも当然、そのような雰囲気さえ感じられる。ランは、眠そうなナツを引きずったまま自転車置場へ連れていった。
我が我がと家路に急ぐ生徒達で溢れ返る場所で、ランはすぐにナツの自転車を見つけだした。
「ほら、早く鍵出してっ! うちが乗るから、ナツは走り!」
「……えぇ、歩きたい」
「はよ行かな、お目当てのモンが無くなんの!」
「一人でいてらっしゃい」
そう言って逃げようとするナツは、いとも簡単に襟首を捕まれ、逃げることができなくなった。
「あぁもうっ、二人乗りしたらえぇやん!! ほら、こいで!」
「結局、僕が疲れるやんか……」
溜め息をつくも、強引な彼女を止める術などない。無理矢理、サドルに乗せられた体は、すでにハンドルを握っている。
いや、ナツの意志ではない。ランに強制的に握らされたのだ。
肩に乗せられる手を確認してから、仕方無しと言わんばかりにそろりそろりと漕ぎ出す。重くも軽くもない重さには慣れてしまったナツは、平然と緩やかに走り出した。
こんな事は、今に始まった事でなくよくある事だった。二人乗りと言えど、決まって漕ぐのはナツであったし、ランもランで自転車を持ってこようとはしなかった。
ざわつく校門を突破、ようやく歩道へ入ったところでナツが口を開く。
「……あ、何買いに行くん?」
「ん? 睫毛切らしたから、睫毛と~、あとその他もろもろ?」
「質問に質問で返されても。睫毛て、“付け”を付けやな。人の睫毛買うんやないんやし」
「長ったらしいツッコミやなぁ、もうちょい短くしぃや」
「ツッコマんよりかはマシやろ」
ゆっくりと速度を落として、横断歩道の手前で止まる。
止まった自転車で、ナツの肩をやたら揉むのはランの癖。そして、止まる時に決まって何かの台の上に足を乗せるのは、ナツの癖だ。
「短く早くの方が気持ちえぇやん! ってか関西人やろ、しゃきっとしぃな!」
「そんなん人によりけりやわ。関西人全員を括ったらあかんよ」
再び走り出した自転車は、爽快に風を切り、夏前の暑苦しさを半減してくれる。
歩道を通る分人も多かったが、そこらへんは、ナツの運動神経のよさでカバーされ、ぶつかることはない。警察署の前を賢く通り過ぎてしまえば、怖いものなどない。
お目当ての場所まではまだ、少しある。
では、二人の関係を少しばかり。
彼等は、幼稚園以来の所謂“幼なじみ”という奴で、ナツにとれば腐れ縁としか言いようがない関係でもあった。
家も向かい同士にあり、勿論、親同士も仲良く――なんて言うのがよくある“幼なじみ”だが二人は違う。
ランには親がいない。
幼稚園の頃、町役場の前に捨てられていたランを拾ったのがナツの両親である。二人は同居人でもあり同い年の姉妹でもある。
二人は姉妹のように、また親友・腐れ縁としてもお互いの存在を認めていたのだ。
元よりあまり口数の少なかったナツの言葉数を増やしたのはランであったし、乱暴でお転婆というよりか、暴力的で、“や”のつく家業の嫁に成りかねなかった蘭を引き戻したのはナツである。
お互いがお互いを助け合っていた――、なんて事があっての今であった。
ようやくお目当ての場所・ドラッグストアに着き、ランは先に中に入っていく。
ナツは、溜め息をつきながらも後を追った。
ランが向かう所は決まって化粧品コーナーで、ナツはその間小さな雑誌コーナーでいろんな物を読み漁る。
決まって最初はかの有名な少年雑誌から初め、時間が長けりゃ成人向けまで手を伸ばす。
そういう物を見て鼻を伸ばしていれば、決まってランに叱られる。待ち時間が長くなるランのせいでもあって、お互い様なのだけれども。
「ナツー! 来て!」
「えぇー……、いい所やのに」
読みかけの雑誌を置いて彼女の元へと行けば、両手にグロスを持っている。どちらの色がイイか迷っているようだ。
「……オレンジ。夏にはそっちやと思う」
「何も言ってへんのに、ようわかったね? そやねん、この二つで迷てるんやけど……やっぱオレンジ?」
「うん。それでなくともピンク多いやろ。オレンジにしぃよ」
「そやなぁ……うん、そーするわ! よし全部見つけた!」
「はいよ。もう、今日はいいん?」
「うん十分! 買って帰ろー!」
やけにテンションが高い気がするのは、気のせいでは無いはず。テストが終わった日であるから当たり前であろう。
数学が0であることが、毎度の事ながら判明したナツにとっては、少しばかりか大分と喜びが減ってしまっていたが。
店を出て再び自転車にまたがった。
もちろん、役目は先ほどと変わっていない。
再び、ランを後ろに乗せて漕ぎ出す自転車。あまり重みも感じさせずに走り出した。
ゆっくり、ゆっくりと。
なんら変わらぬ
日常の1ページ
の、はずだった。
漕いでいる自転車はまた爽やかな風を吹きながしていく。歩道をすり抜け人をすり抜け気持ちよくかけて行く二人。
ランは髪を靡かせながら軽く鼻唄を歌う。最近、ナツが嵌まりだしたロックバンドの曲だ。
ランも好きになってくれたようで、一層嬉しくなる。ナツが鼻唄に乗せて歌を歌いだす。気持ち良く風に流れるメロディーと共に、彼等の帰宅への道程は終盤へとかかる。
あとこの坂道を下って行けば家があるという場所で、ランが自転車を降りた。
さすがに急勾配のその坂を、二人で自転車に乗って降りれる程の勇気はいつも無かった。
「今日の昼ご飯、何やろ?」
「ったく、ナツは食べ物ことばっか。太るで?」
「部活しとるからえぇもん」
坂の上で、ランの荷物を手渡してゆく。軽い方が何かと扱い易い。前が重くなると加速が止められなくなる。
急ブレーキを踏んだ時には籠からすべての物が落ちてしまうこともある。
そうやってランの化粧道具を割ってしまった時には、だいぶんと怒られたものだ。
「農学部て大学やあるまいし。毎日農作業しとるだけやないの。陰気くっさいなー」
「うっさいわ。あれでもほんまに重労働やねんで?」
「どーでもえーわ、はよ帰ろ」
「酷いなぁ~、もうえぇし先帰るー!」
ランの降りた自転車は、ナツの足によってその坂の頂上から一気に滑り落ちるように下って行く。
ランが待ってなどという声を上げていたが、半分面白がって速度を上げてやった。
坂で速度を上げるということは、ブレーキを握らずに坂の上を滑っていったのだ。せっかく安全のために荷物を下ろしたりしたのに、意味を成さぬ結果となった。
いつもであればやらない冒険のようなワクワク感に浸っていたナツ。
左右を確認するなど、出来るはずがない。
道程の途中には何本もの左右からの道があった。
「ちょっ、ナツ!!! ナツ?!」
「なんやー?」
ようやく、後ろをフイッと振り返れば、彼女の顔は何故か恐怖の感情に満ち溢れていて。
何が何だかわからぬナツが、
声を
出そうとした
瞬間
大きなクラクションが
町中に響き渡った。