第6話
日が沈み、空は赤から群青に変わろうとしている。日中の暑さが嘘のように山から冷たい風が吹いてきた。
家に戻るとどうやら宴会があるらしい。誰がなにを用意するのかわからないが幽霊だけのもののようだ。それにどんな人たちが集まるのかも見当がつかない。当然皆桐ケ谷家の先祖なのだろうが、知っている人はいないだろう。祖父母はまだ健在だし、曾祖父母には会ったことがないからだ。
「ねえ偲さん、今日はどんな人たちが集まるんですか?」
「桐ケ谷家の者たちじゃよ。中には猪作のようなやつもおるが」
「大勢ですかね?」
「多少なりとも、な。どうしたんじゃ?今頃になって」
「いや、知ってる人はいなそうだと思って」
「誰か亡くなった親類があれば会えるじゃろう」
「いませんね。オレが一番乗りで片付いちゃったんで」
「ああ、そうか。まあ堅物の老人ばかりだが、おぬしまで硬くなる必要はないよ。皆親類なのだからな」
「そ、そうですよね」
とは言っても、相手は知らない老人たちなのだから実際は序列やら決まり事やら、いろいろ小難しいルールがあるのだろう。顔も知らないから誰から挨拶すればいいのかもわからない。席は、とりあえず末席に座ればいいだろう。酒もついで回らないといけないだろうな。好基は家に戻る道を歩きながら不安にかられた。
バシャッ、バシャッ――――
二人が歩いている畦道の脇を用水路が通っている。そこを流れる水音の合間に、なにかが水を跳ねるような音が聞こえてくる。水の中になにかいるのだろうか。
「おいおぬし、そこでなにをしておるのじゃ?」
偲が一段高くなっている畦道から薄暗い用水路を見下ろしている。人がいるのだろうか。好基も道端から下をのぞいてみる。
バシャッ
暗い用水路の中で、人が水に浸かってなにかをしている。それが急に声をかけられたのにビクっと驚いて顔を上げた。
顔色の悪い男だった。土気色の顔に髪はボサボサと乱れ、髭がまばらに生えている。余程驚いたのか、目を大きく見開いて偲の方を見ながら固まっている。声をかけた方が驚いてしまうようなおかしな風体の男だったが、それがまたおかしなことに口になにかをくわえているようだった。
「おぬし、そんなところで一体なにを食っておるのじゃ?」
食べているのか?こんな水の中で?一体なにを?
偲がもう一度尋ねると、固まっていた男はハッと驚いて口にくわえていたものをポチャンと水の中に落とした。
男は慌てて落としたものを水の中から拾い上げると、それを手にかかげて言った。
「エ、エビガニでげす」
「え?」
思わず好基は耳を疑った。すると男はやにわに手に持ったザリガニをベリッというイヤな音をたてて二つにへし折り、そのまま口に運んだ。
ベリッ、バリッ、バリバリ、……むしゃむしゃ――――
ザリガニが拉げるイヤな音をこれでもかとばかりにたてながら、男はおいしそうにそれをきれいに丸ごと平らげてしまった。
「うへえ……」
好基は暗くてよく見えなかったが(見たくもなかったが)、音だけで胃の底からこみあげてくるものを感じた。
「エビガニとな?うまいのかそんなものが?」
偲は平気そうに言葉を続ける。しかしさすがの偲も気分が悪かったのだろう、少しだが眉を顰めているのが見えた。
バシャッ、男はまた水に手をつっこむ。
「うまいですぜ。なんならご一緒にどうでげすか?まだまだたくさんありますぜ。極上もんでげす。へへっ」
水の中を探っていた手を上げると、またもう一匹、大きなザリガニが握られていた。
そんなものが食えるかっ!?と言ってやりたくなったが、冷たい水の中でうれしそうに、しかもうまそうに食べる男の姿を見て、なぜだか、好基は言う気が失せてしまった。
「いいや、妾は遠慮させてもらうよ。生は好かぬし、硬いやつよりも川魚の方が好きじゃからな」
偲の大人な対応を見て好基は尊敬の念すら覚えた。
「そうですか。そっちの旦那はどうでげすか?」
バシャッと音をたてて、男が好基の方を向く。
「オ、オレも、遠慮しときます……」
「さいですか。ならここはあっしがいただきますぜ。へへっ」
またイヤな音をたてて男はザリガニを貪り始める。好物を前にした子どものようだ。
「なあおぬし、そんな冷たいところで冷や飯など食ってないで、家に帰ったらどうじゃ?今日は盆じゃぞ?」
そういえば、話ができるということはこの男も幽霊ということか。お盆で故郷に帰ってきたのなら、この男の実家も親族も、この近くにあるわけなのだ。
「あっしは、ここでエビガニを食ってるのがいいんでげす。へへっ」
むしゃむしゃとおいしそうに口の中のザリガニを味わいながら男は言う。
「それもいいが大概にして、一度戻れ。親族が心配しておるぞ。どこなんじゃ家は?」
「あっしは……、あっしは、家がねえでげす」
「なに?」
男は二匹目のザリガニを食べ終えて続けた。片方の手はまた新たな獲物を求めて水の中をさまよっている。
「家はねえんでげすよ。だからけえるところもねえでげす」
それを聞いて、偲の顔が急に真剣になった。
「そうか。妾は桐ケ谷偲という者じゃ。おぬし、名前は?」
「あっし……、あ、あっしは……」
ザリガニを探っていた手が止まる。男は思い悩むように下を向いた。
「どうした。妾はエビガニ好きのどぶさらいの、おぬしの名前を聞いておきたいのじゃ。それとも、妾に名乗るのはいやなのか?いやならいやとはっきり言え!!」
「し、偲さん、どうしたんですか急に?」
偲が突然声を荒げる。偲がこんなに大きな声を出すのは初めて見た。
「いやじゃねえ!!いやじゃねえでげすよ。高貴なお方があっしなんかに声をかけてくだすって、名前まで名乗ってくれた……。いやじゃねえでげす。でも……、でもあっしは、あっしは……」
バシャッと音をたてて男はまた下を向いた。
「わかった。もうそれ以上言わなくともよい。猪作!猪作はおるか!ちと来てくれ!!」
あの大男が近くにいるのだろうか。それを呼んで偲はどうするつもりなのだろう。男はしょんぼりと水面を眺めている。
「偲さん、一体なんだって言うんです?この人がどうかしたんですか?」
「こやつは自分の故郷も名前も知らぬ。放っておくわけにはいかぬのじゃ」
「つまりただの浮浪者ってことですよね。いいじゃないですか放っておけば」
パチンッ
耳もとで大きな音がして、好基は自分の頬をおさえた。
本当に怒ったらまずひっぱたくよ。おぬしの場合はないと思うが――――。ついさっきの偲の言葉が、聞こえた気がした。
「黙れ小僧!おぬしが軽々しく判断してよいことではない。それは妾とても同じなのじゃ」
好基は二の句が継げなかった。
「おいエビガニ獲り、そこは冷たいからひとまず上がってこい。今日は大漁じゃったな?」
「へ、へい」
男はバシャバシャと用水路から上がり、畦道に登ってきた。びしょぬれで、見てくれは汚らしいが着ているものはしっかりとしている。江戸っ子の町人といった風情だ。
「おぬし寒くはないのか?日が暮れて冷えてきたぞ?」
「あっしは下司でござんすから、へっちゃらでげす。へへっ」
男は用水路の水を滴らせながら言う。
「そうか。だが風邪をひいたら大変じゃ。これを使え」
偲は羽織っていた好基の上着を脱ぎ、男に差し出した。男はそれを見てヒッと上擦った声をあげ、ガバっと突然這いつくばって平伏の姿勢をとった。
「も、もったいねえでげす!あ、あっしごときが、あっしごときが……、畏れ多いでげす!」
「なにをそんなに畏れる必要があるのじゃ。ほれ、自分で袖を通すのじゃぞ」
偲は平伏する男に羽織をかける。男はまたもやビクッと驚いた。
「き、桐ケ谷さま、なんとお礼を申し上げたらいいのやら。あっし、もうこれで寒くねえでげすよ」
「礼などいらぬ。さあ、平伏せずともよい。面を上げよ」
じゅるるっと鼻をすすって、男は顔を上げた。目からは大粒の涙がこぼれている。
「うむ、よい面構えじゃ。よし、そこに直るエビガニ獲り!」
「ははっ!」
偲がなにを思ったのか時代劇のような芝居がかった声で言うと、男は再度ガバっと平伏した。
「おぬしはこれより、名を八郎平、氏を蛯沢と名乗ることを許す。蛯沢八郎平!!」
「ははっ!!」
「面を上げよ!」
男は再度、はじかれたように顔を上げる。顔がさっきよりも心なしか引き締まって、凛々しくなったように感じられる。
「あ、ありがたきしあわせ!!」
「名を名乗れ!!」
「ははっ!あっ、それがしは、蛯沢八郎平という者に、ござりまする!!」
「うむ、善哉じゃ。おう猪作、来てくれたか。食事の準備があるのにすまぬな」
どこから現れたのか、大男の執事がいつの間にか横に立っていた。
「滅相もない。遅参の程、お許しください。して、いかがなさいましたか?」
「うむ、この者のことなのじゃが」
偲は平伏す八郎平に目をやる。
「出自のわからぬ無縁者じゃ。名は今、妾がやった」
「なんと……」
「蛯沢八郎平という。帰りの手配はしてやれないじゃろうか?」
「それはもちろん。後日、送火の際になってしまいますが」
「構わぬ。では、頼んでよいな?」
「仰せのままに。この猪作にお任せください」
猪作が大きな体を折ってお辞儀をする。
「すまぬな、いつも世話ばかりかけて。おい八郎平、こっちに来い。話がある」
「へ、へい」
八郎平は偲と猪作の前まで走り寄り、またしてもガバっと平伏した。
「平伏さずともよい。同じ幽霊じゃろうが」
「も、もったいないお言葉でげす。親方さま」
「いつから妾の家臣になったのじゃおぬしは。よいか八郎平、よく聞け。妾はこれより三日後の夕刻、おぬしのエビガニの獲れ具合を見にもう一度ここに来る。必ずこの場所にいるように。よいな?」
「ははっ!必ず!」
「よし、では三日後にな。まあ、妾はエビガニより川魚の方が好きじゃがな。好基、行こう」
芝居がかった一幕も終わったようで、好基は帰ろうとする偲と猪作に続く。偲に打たれた頬がまだ痛む。
「それでは私はまだ準備がございますので、先に失礼いたします」
深々とお辞儀をして、猪作はどしどしと家に向かって走っていった。
日は完全に沈み、辺りは群青から月明かりに照らされた淡い色合いに変わっている。歩きながら後ろを振り返ると八郎平がまだ平伏の姿勢をとっていた。
つづく