第18話
「好基!まだここにいたのか、心配したぞ」
背後から息を切らせた偲の声がかかって、好基は振り返った。女の姿はもう消えていた。
「偲さん……」
心配していたのか。こっちが見知らぬ女と陰口のような真似をしていたときに……。
「まったく、花を探すだけでどこまで行ってたんじゃ。もう帰るぞ」
二人は暗闇の木のトンネルを抜けてもと来た坂道を下る。雨にぬれても無頓着なのは幽霊が、でなくて偲やさっきの女のほうがおかしいんじゃないか。好基は揚々と先を進む偲の後を追いながら、暗くなければ服が透けたのが見えたかもしれないなどと下らない想像をした。
でも別に、どこにも行ってはいないさ。花があるはずの場所に来て、そこで時間がかかっただけだ。偲だって探さなくても相手はいそうな場所にいたのだ。引き返せばすぐに見つけることができただろうに。なにをそんなに心配することがある?
あの女と話をして思ったより時間を使ってしまっているが、偲は別の場所を探していたのか?それとも今の今までずっとあの猫女とおしゃべりしていたのか?
あの謎の女のこと、偲には見られていないだろうか。本当に偲は心配を?
「別にどこにも行ってないですよ。ただ花が見つからなくて、ずっとこの辺りを探してたんです。ごめんなさい、夢中になって時間が経つの忘れてました。待ったでしょ?」
偲相手に隠し事をするのがこんなに気分の悪いものだとは思わなかった。
偲は猫女のことを話すだろうか。
でも白々しい嘘をついて人を試すような言い方をするなんて最低じゃないか。好基は言いながら自分で自分が嫌になった。
「あ、ハハハ、それがな、実はおぬしのいない間知り合いと会って話しこんでしまってな。話に花が咲いてしまってこっちも時間を忘れていた。それで気づいたら雨が降ってきてるわ暗くなってくるわ、おぬしの姿は見えぬわで、心配になったのじゃ」
こっちもだって?どちらも相手をごまかすようにいらぬ説明をしてはいないか?嘘の上塗りをしているようだ。
……いや、偲の言っていることは一応嘘ではない。久しぶりに会った知り合いと、ちょっと話していただけで大したことではない。特に隠し事をしているつもりではない。そう言いたいのだとしたら?
だったら自分もあの女のことを話すべきだ。それも今すぐに。チャンスは今しかない……。
ははは、偲を疑うだなんて、そんなバカな……。
「そうでしたか。お互い、びしょぬれになってなにやってるんでしょうね。急ぎましょうか」
好基は偲の肩をたたいた。
言い出せなかった……。偲よりも、今日会ったばかりの名前も言おうとしない女の方を信用しようと言うのか?……あの女は、今もどこかで見ているのだろうか。例えばあの茂みの向こうとか。
「しかしよく降るなあ?」
「ええ、びしょぬれになっちゃって、気持ち悪くありません?」
「いいや、別に」
「ああ、そうですか……」
「山らしい天気じゃないか。故郷に帰ってきた気がしてくる」
「でも、風邪ひいちゃいますよ」
「好基よ、おぬしにはこの風情がわかるか?」
「……」
風情か……。
水のにおい、遠雷の音、日中の暑さを吹き散らす冷気……。
言われてみてようやくまた、遠くの雷の音が耳に入ってくる気がする。遠くの空の稲光もまた、目に入ってくる。
風情と言われてもわかりそうにない。でも、心に余裕がなかったのだ。
勘ノ丞の疑念、猫又の妖怪、そして謎の女と古い桐ケ谷の墓、気にかかることがたくさんある。だからわかりそうになかった。
「まあおぬしのような小僧にはわからんでもいいさ。だがな、びしょぬれになって気持ち悪いだけが雨ではないよ。雨が降れば雨の風情があるものじゃ」
「雨には雨の、ですか。オレは若輩なんでまだわからないかもしれませんが、でもたまにはこういうのもいいと思います」
「なんだ、わかってるじゃないか。それでいいさ。それだけ言えればおぬしも風流者じゃ」
ご機嫌の偲が好基の肩をたたく。びちゃびちゃとぬれた雑巾をたたいたような嫌な音がした。
「偲さん、少し聞いていいですか?」
「ん?なんだ、改まった顔をして」
偲はいつになくご機嫌で、びしょぬれの顔に笑みを浮かべて好基の方を向いた。いつもの結い上げた髪も、房飾りのついたかんざしもびっしょりとぬれてしまっている。
しかし、なにを聞こうというのだろう。
偲を疑うようなことは口にしたくない。それに偲はきっとなにも教えてはくれないだろう。それは、友と呼んだ相手にさえだ。
でもいいじゃないか。他人に言えない秘密は誰にだってある。それを疑ったり掘り返したりするのは不粋というものだ。そうじゃないのか?
――――さっき話してた猫女はいったいなんなんです?
――――冨樫家って、ただの知り合いですか?
――――桐ケ谷の墓って、あのひとつだけなんですか?
簡単なことなのに聞けない。
ああなんだという、不思議なことはなにもない、自然に納得のできる答えが返ってくるかもしれない。でもそうでなくて、この問いを今偲に投げかけたら、それは恐ろしい現実を掘り返すような不粋でとげを持った詰問になりはしないか。それは、仲間に対して投げつけていいものだろうか。
――――偲さんって、本当に桐ケ谷の先祖なんですか?
あの女は、最後にはこう言わせたいんじゃなかろうか。
「あ、ええと、その……、偲さんって、お姉さんとかいました?すごくそっくりなの。妹でもいいですけど」
言い淀んだ末、好基は自分でもわからない的外れな問いを口にしていた。
「いや、いないが……」
「ああ、そうですか」
ご機嫌だった偲の表情が明らかに曇るのがわかった。
でもあのツインテールをさげた偲の複製が他人の空似だなどと、考えられないことだ。偲のことを知るあの女のことを、偲は知っているのだろうか。
「なぜそんなことを聞く?妾に姉がいると思ったのか?どうして?」
「……」
鋭い切り返しにあって好基は返す言葉が見つからなかった。不用意なことを聞いてしまった。
「妾の姉に会いたいのか?そりゃいれば妾に似て美人じゃろうからな?」
「いや、そうじゃなくて……」
皮肉るように吐き捨てて、偲は先を進む。好基は歯がみをしたまま立ち止まって動けなかった。
「ほら好基、来いよ」
「……」
いつの間にか二人は山道を抜けて、家に続く畦道に差しかかっていた。横に並んだ好基の肩に、再び偲の手がおかれる。それはびちゃっという嫌なぬれ雑巾の音をたてたが、なにかを伝えようというあたたかさがあった。
「好基よ、他人に言えない秘密は誰にでもあるものじゃ。それはおぬしにもあるし、妾にだってある……」
「そうですか」
今まで近いと思っていた偲との距離が、一気に遠くなった気がした。偲も好基が疑っていることを勘付いていて、それを疑っている。でも、あの女のことは、言えない……。
「だがな、他人には言えなくても、友になら言えることはあると思うよ」
「え?」
「だから昔の話はな、いずれ必ずする。それはな、おぬしの事を信用しているからじゃ。わかってくれるか?」
「……ええ」
偲のことはよくわからない。考えてることもときどきわからなくなる。でももし偲のことが本当にわからなくなっても、今の言葉だけは信用するんだと思う。仲間だから。
これだけいろんなことを言われて、偲のことを疑うのは自然なことかもしれない。だがその人を信用するかしないかの判断を下すのは最後には自分なのだ。周囲がどうとかではない、自分が信用する人間は自分で決める。好基はそう思う。
つづく