第14話
「おい、どうした?」
偲が坂の上で腕組みをして、いぶかしそうに見下ろしている。偲には聞こえていないのか?
「あ、いや、なんでもないです」
好基はもう一度後ろを振り返ってから、坂道を駆け上がって偲と合流した。偲は「なにをぼさっとしておるこの腑抜けめ?」と口をとがらせている。
今の声は幽霊のものだったのか?そうだとしてもこちらも幽霊なのだから聞こえるのは自然なことだ。なのにどこか不気味な感じがした。声のことを聞いてみようかと思案していると、不意に偲が道をそれた。
山道は中腹に差しかかり、この辺りから道がいくつも枝分かれしていてそれぞれの墓に続いている。桐ケ谷の墓はもっと上のはずだ。好基は声のことなど忘れて偲に追いすがった。
「偲さん、家の墓ってもっと上ですよ?」
「知ってるさ。だが先に行っておく場所がある」
偲の進む道は好基の通ったことのないものだった。確かこっちは、もう墓参に来る者もいない、昔の墓があると聞いたことがある。
木のトンネルといった風情の暗い脇道を抜けると、開けた場所に出た。そこには古い墓石が点在しているが、それらはみなすり減っていたり苔生していたりしていて、どれも人の手が入っていないというのが一目でわかる。長い年月のせいで刻まれた字はどれも読めなくなっていて、中には倒れていたり、風化が激しくただの大きな石ころのように転がっているだけのものまである。
かつてはこれらの石も、亡くなった人を供養するために彫られ、立てられたのだ。墓参りに来る人だっていた。それが今となっては他に新しい墓ができたのか、子孫が絶えてしまったのか、手入れをするものも顧みる者もなくこうしてただ崩れ去っていく様だけをさらしている。
淋しい場所だ。淋しい幽霊は、人を呼ぶのだろうか。
偲はそんな得体の知れない石の墓場を勝手知ったる顔でずんずん進んでいく。そして奥まった場所の木の下で足を止めた。偲の前にはすり減った古い墓石があった。それは他の多くの墓石と同じで、立てられているというより捨てられて転がっていると言った方が正しい有様だった。
偲はいつの間に用意していたのか、手にしていた花束の中から数輪を、その墓の前に手向けた。
「知り合い、ですか?」
「ああ、そうじゃ」
偲は静かに答えた。
風雨にさらされてでこぼこになった表面には後から彫り直したのか、よく見ると字がかろうじて読みとれる。
「冨樫、家の墓ですか?」
「ああ」
自分の家を差し置いて先に来るような墓とは、どういう知り合いなのだろう。偲はいつになく淋しげな表情をしている。
「さあ行こうか。悪いな、付き合わせて」
ひと通り手を合わせると、偲は立ち上がって好基の背中をたたいた。
「いいえ。でも冨樫ってなんでしたっけ?親戚?」
「ちがう」
「オレは知ってますか?」
「いや、知らない」
「じゃあ……」
「好基よ」
先を行こうとした偲が好基の方を振り返った。その目は真剣そのものだった。
「墓場という場所は、もう会えなくなった者のために、各々がその者への想いを持ってくる場所じゃ。妾はそう思う。それは幽霊になっても変わることはない」
横に並ぶ好基を偲は笑顔で迎える。好基は冨樫家のことを気になりながらも、それ以上追及できなかった。
元の坂道に戻って少し登ると、すぐに桐ケ谷家の墓に着いた。山の斜面に沿って点在する新しい墓のひとつで、眼下には桐ケ谷家を含めた集落が一望できる見晴らしのいい場所にある。
なにも持ってきていない好基はそそくさと手を合わせる。ここに眠る先祖は皆、生前に会ったことのない人たちだ。
「おっと、いけない」
「へ?」
好基の後ろで偲が驚いたような声を出し、年寄りのような仕草で自分の額をぴしゃりとたたいた。
「どうしたんです?なんか忘れたんですか?」
「やあ、花を忘れてきた。ここにおさめる分じゃ」
「え、さっきのお墓にですか?」
「そのようじゃ」
大したことではないが、偲は悔しそうに天を仰いだ。
「しょうがないですね。オレがとってきますよ」
また下ってもう一度登ってくるのは少々しんどいが場所はすぐそばだ。ひとっ走りで行ってこれる。
「それは悪いよ。急がないから一緒に戻ろう」
「いいですって。さっさと戻ってきますから、そこで反省しててください」
「なにさ」
捨て台詞を残して好基は坂道を駆け下りる。さっきの古い墓場へのわかれ道にはすぐに着いた。林の奥へ続くその道は異様に暗かった。つい今しがた偲と通ってきた道とは思えない。道を間違えているかと思って辺りを見回してみるがそれも違う。
ひとりで来てみると、こんなにも印象が違うものなのか。好基は調子のいいことを言って威勢よくとび出してきたことを早くも後悔した。
ひとつ首を振って嫌な気分を振り切り、好基は暗い細道を一息に駆け抜けた。視界が開けて、古い墓が散在する広場に出る。視界は開けたが偲と来たときのように明るくはならなかった。見上げると、木々の間からのぞく空はいつの間にかさっきまではなかった黒い雲に覆われていた。
冷たい風がまた、ザァっと木々を揺らして吹き去っていく。ひと雨来るのかもしれない。
冨樫家の墓に来てみても先ほど供えた分があるだけで、偲の花束は見当たらなかった。通ったところを探してみてもどこにも落ちていない。
……どこに落としたのだろう。見つからないならもう戻ろう。雨が降りそうだし、そこまで執念く探すほどのものでもない。
好基は墓場を後にしようとするが、そこで思い出したように踵を返し、冨樫家の墓の前に戻った。
さっきは、偲が手を合わせているのをただ眺めているだけだった。好基はしゃがみこんで倒れた墓石に手を合わせた。
この古い墓は、周りの多くと同じで百年二百年と手のつけられていないものだ。もしかするともっと前のものかもしれない。偲はこの家とどんな関係があったのだろう。あるいはそれは、偲の生前のことだった可能性もある。
だが偲は、この家の者とは会えなくなってしまった。死に別れたのか、幽霊になった今でも会えないということなのだろうか。
偲は昔の話をほとんどしてくれない。いつか話すと言っているが、偲の過去には他人に言えないなにかがあるのかもしれない。それは友と呼んだ相手にも、隠しておきたいことなのかもしれない。
本人が話したそうにしていたら聞いてやれ。だがあまり掘り返すな。
偲のその言葉は好藏に限ったことではない、偲自身の場合にもそうしてほしいという思いが込められていたんじゃないのか……。
もしそうなら、偲はいつか自分の過去のことを話してくれるのだろうか。
好基は急ぎ足で細道を引き返した。来る時は一目散に駆け抜けてしまったが、今度は足早に進む合間にも花が落ちていないか足元に注意する。
ポツリ、ポツリ
不意に額に冷たいものを感じたと思うと、ばらばらと頭上の木々に水の当たる音がして、これは来たなと思う間もなくザァーっと本降りの雨になった。
好基は軽く悪態をついて走り出した。幽霊というのはぬれてもあまり気にならないらしく、雨が降っても無頓着な者が多いが(偲がそうなのだ)、まだそこまで慣れていない。ぬれれば寒い。
木のトンネルの先にもとの坂道が見えた。そこから少し登れば偲の待っている桐ケ谷家の墓に着く。
――――桐ケ谷の者よ……。
また、女の声がした。
好基は背筋が凍る思いがして、立ち止まらずに細道を駆け抜ける。
――――桐ケ谷の者よ、話がある……。
坂道に出たところで、また声が追いかけてきた。
「話があるなら、出てこいよ!」
不気味だが同じ幽霊なら怖がることもない。好基は気を奮い立たせて声を上げた。
――――クククッ、フフフフフフ……
木々の間から女の笑い声が陰々と響いてくる。
「くっ」
好基はじっとしていられず、坂道を駆け上がった。雨は夕立らしく土砂降りになってきた。雲に切れ目はなく、まだしばらくは降り続きそうだ。遠くで雷の音も聞こえる。
桐ケ谷の墓が近づいてきて、ようやく偲の姿が見えたところで好基はぴたりと足を止めた。
墓の前には偲ともうひとり、見覚えのない姿があった。
こちらに背を向けている偲と向かい合ってなにかを話している様子なのは、偲と同じくらいの背格好の若い女だった。その女はちょうどこちらを向くかたちになっていたので、好基はとっさに木の陰に身を隠した。
つづく