第10話
渋々と偲の後をついて暗い廊下を進む。トイレには明かりがついている。先客がいるようだ。
「誰か入ってますね。じゃ、オレは戻りますんで」
「待て」
「大丈夫ですよ。まったく、幽霊のくせになにを怖がってるんです」
袖を引っ張ってくる偲にちょっとした捨て台詞を残して、好基はトイレの前を立ち去ろうとした。
「あのなあ好基、あまり妾を怒らせないほうがよいぞ。まだ行くな」
額に青筋を浮かべて偲がすごんでくる。不覚にも、好基は少し怖くなった。
「な、なんなんです?ホントに」
「ここにはおぬしの妹が入っておる」
「ああそうですか。ず、ずいぶん長いですね」
それがどうしたんです、と言おうとしたが、本当に怒りそうなので咄嗟に別の言葉に差し替えた。
――――パチン
なんの前触れもなく、偲がトイレの明かりを消した。
「ちょ、なにするんですか!?」
好基は慌ててスイッチをつけ直した。一体なにをしだすんだこの人は。
「ニシシ」
偲は酔ったジト目にいたずらっぽい笑みを浮かべている。
パチン、また偲はスイッチを消した。
「ニシシじゃねえ!」
偲のあまりのすっとぼけに好基は鋭くつっこんで、すかさずスイッチをつけ直した。ニシシ笑いを本当に口に出して笑うやつなんて初めて見たぞ。
「いいつっこみじゃ、好基。酒が入って冴えてきたな?」
言いながら、偲はまたスイッチに手を伸ばす。好基は即座にその手首をつかんだ。
「いやいや偲さん、ここまでオレを連れてきてなにするんですか!?」
「イタズラじゃよ?」
しれっと言って偲はもう片方の手でスイッチを消す。
「ああもうっ!」
すぐさま好基はスイッチを入れる。
「ねえなんなの?誰……?」
「うぐっ」
「げへへ」
トイレの中から美琴の不機嫌そうな声が聞こえてくる。そう言えばもう何回スイッチを消したんだったか……。隣では偲が下品な笑いを口元に浮かべている。げへへって笑ったろ今。
「お兄でしょ、そこにいるの。なんなのイタズラ?いい歳こいてやめてくんない?バカなの?死ぬの?」
美琴のドスのきいた脅し文句が響いてくる。自分の妹なのに、不覚にも好基は少し怖くなった。
「あ、いけない、お兄は……。お兄……、そうだった」
「あ……」
こいつ勘違いして……。
美琴のしょぼくれた表情が目に浮かぶ。それに自分まで、また死んだことを忘れていた。好基はやりきれない思いがして、うなだれた。
「よ、好基……?」
偲も自分の予期せぬ展開になったことに当惑しているようだ。
「す、すまぬ好基。他愛のない冗談のつもりで、妾もこんなつもりじゃ……」
さっきまで下品な薄ら笑いを浮かべていた偲が急に深刻な表情になって、優しく好基の肩に手をおいて顔をのぞきこんできた。
「いや、別にいいんです。美琴もオレも、肝心なこと忘れちゃって……、偲さんが悪いんじゃないですから」
「好基……」
「じゃあ、そ、そこにいるのは誰なのよ?ねえ誰なの?答えなさいよ!」
中で美琴が癇癪を起している。こんなことをしそうな人間は親族の中でも自分くらいなものだから、冷静に考えると普通の状況ではない。声が少し震えているようだ。
「好基、その……、なんと言うか、本当にすまぬ。この落とし前は必ずつけるから許してくれ。謝る」
偲がいつになく大げさに頭を下げる。
「落とし前だなんて物騒ですね。オレは平気だからそんな気にしないでくださいよ……」
「いいのか?許してくれるか?」
偲は頭を下げたままうれしそうに言う。
「大げさだなもう。許さないって言ったらどうするんです?落とし前なんて簡単に言わないでください。仲間でしょ?オレたち」
それを聞いて、偲は突然顔を上げた。さっきと同じ下品な笑いを浮かべている。
「ニシシ」
「え?」
――――パチン、パチン、パチンパチンパチンパチパチパチパチパチパチパチパチパチッ
「ちょ、て、おいっ!!」
「すまぬのう好基、おぬしの妹には本当にすまぬ。だが恒例行事なものでなあ。げへへへ」
「げへへじゃねえ!!」
トイレのスイッチを連打しながら偲は下品に笑う。そしてなおも連打を続けながら片手を口元にあてて、トイレのドアにぴたりと近づいた。
「ヒヒッ、ヒヒヒ?ヒヒヒヒヒヒィッ!?」
追い打ちと言わんばかりに、中の美琴に向かって偲が別人のような声で狂気じみた笑い声を上げた。なんの心の準備もなく突然迫真の狂人笑いを聞かされて、好基まで背筋が凍る思いがした。どこの山姥だよ?
「ヒヒヒでもねえよ!?ていうかどこからそんな声出すんですか!?感じ悪っ!」
「イヤァァァアアギャァア―――!!」
「うわっ」
――――ドタンバタン、ガタガタ……
暗くなったトイレの中から美琴の悲鳴がして、あわただしい物音が響いてきた。
「なんてことするんですか!?」
「だからイタズラじゃよ?」
「しれっと言って、軽くトラウマになっちゃうくらいですよこれって!」
「ううむ、おぬしの妹がなかなかいい反応をするものだからつい……。やりすぎたかな?」
トイレからは暗い中でまだ美琴が悪戦苦闘する音が聞こえてくる。
「だって本当に幽霊の仕業なんだもの。シャレになんないですって。それに今の笑い声、どうやったんです?美琴に聞こえてたみたいじゃないですか?」
「一種の魔法じゃ。多分それらしいものが美琴にも聞こえた」
「ひでえ……」
――――バタンッ
吹き飛ばされたように勢いよくトイレのドアが開いて、中から美琴が転がり出てきた。入口の段差で一度つまづいてころりと転がったと思うと、その姿勢から滑らかな動きで器用に立ち上がり、そのままほうほうの体でトイレから逃げ去っていった。
一応穿いていたものは上げたようだった。よかった。が……。
好基はそのとき、目に涙を浮かべながらも襲い来る幽霊から必死に逃げようとするかのような美琴の真顔を、正面から見てしまった。おまけに、見落としても不思議ではないのに、どうやって穿き損ねたのかわからないが片手に自分のぱんつをぶら下げているのまで目ざとく発見してしまっていた……。
「偲さん、これは重罪です。市中引き回しの上打首獄門です」
「いいものが見れたな」
「……ええ」
なぜかニヤリと急に意気投合してトイレの前で頷き合う二人。
「ヒヒヒ、ぬしも悪よのう。……だが少々やりすぎたな」
「やりすぎですね。偲さん、偲さんってもしかして、もうすごい残念なくらい救いようのないおバカさんなんじゃないですか?こんなこと考えつくなんて」
「そ、そうか?いやあ、へへへ、照れるなおい」
偲が照れ方の見本とでも言うように顔を赤くして頭をかいた。
「ほめてませんから……」
「ウハハハハ、まあよい余興じゃった。なあ、おぬしもそう思うじゃろう?ハハ、ハハハハハ」
「バカじゃないですか?まったくもう、プッ、ハハハハハハハ」
楽しそうに笑う偲につられて好基も笑い出した。廊下の向こうでは、「幽霊が、幽霊が……!」という美琴の涙声、それに続いて、「ぱんつなんかさげてどうしたんだ……」という父の声、そして親族がどっと笑いにわく楽しげな様子が聞こえてくる。
自分の居場所はあちらにはない。でも、新しい居場所はもうこちらにある。そのどちらにも、楽しげな笑いが満ちている。
腹を抱えて笑う偲が、勢いでまた背中をバシバシと叩くようになってきた。いつも通り加減がきかないので飲んだ後の背中には地味にきいてくる。
まだ、吐いたりしないぞ……。
必死に心の中でつぶやきながら、好基はなおも偲と楽しげに笑い続けた。
つづく