第99話 健太の特別な時間
勢いよく戻ってきた健太が、円卓の光景を見て漫画のように飛び上がった。
無理もない。慌てて席を外した本人が戻ってきたら、本来自分が座るはずだった場所に平然と鎮座しているのだから。
全校生徒の憧憬を一身に集める、『歩く芸術品サマ』が堂々と。
朝起きてから眠りにつくまで、常に手が届く範囲に九条 葵がいる。それが、俺にとっての日常になりつつあった。
けれど、彼女を遠くから拝むことしかできない一般生徒からすれば、これはもはや事件であり一大イベントなのだろう。健太の飛び上がりっぷりを見て、ようやく自分の感覚が世間とズレ始めていたことに気づかされる。
「く、九、九条さん!? なんで……あ、あれ? 帰ったんじゃ……」
「ええ。でも、私もある程度なら教えられると思うから、戻ってきたのよ」
九条さんは、何食わぬ顔で言い放つ。
つい数分前まで、俺の耳元で甘い蜜を注ぎ込んでいた女性と同一人物だとは到底思えない、凛とした『九条 葵』の声音で。
その鮮やかな切り替えの速さに、俺の方が置いていかれそうになる。
俺まで飲まれてどうする。
ここは、ついていかないと。
「え、まぢで!? 九条さんも教えてくれるの!? うおおお、ありがてええ! 入学以来不動の学年一位サマだぞ、蒼! ああ、女神さまがここに」
健太は天を仰ぎ、今度は九条さんに向かって拝み始めた。
さっきまで親友のよしみで俺に縋り付いていた男とは思えない、鮮やかすぎる宗旨替え。
こうも安っぽく「女神」として崇め奉られている状況も、どうにも癪に障る。その綺麗な顔を、そんなに熱心に見るなと。
俺の血管が、わずかにピクリと跳ねた。
「おい、健太。いい加減にしろ。ここで変な宗教を始めるな。さっさと座れ」
「なんだよ蒼、いいじゃねえか! 女神の慈悲だぞ! それにしても、あの『花子さん』が俺に勉強を教えてくれるだなんて。一泊二日のキャンプに希望の光が見えてきたぜ!」
「え? ……なに、それ?」
九条さんが、少しだけ眉を寄せて首をかしげた。
好奇心に瞳を揺らす彼女の視線を受け、健太はさっきまでの勢いをどこかへ置き忘れたように、きょとんと目を丸くする。
「んあ? ……何のことだろ。あ、もしかして女神降臨のこと?」
「いえ、いまハナコさんって……」
健太は「なんだ、そっちか!」とばかりに得意げに鼻を鳴らした。
「九条さんは知らないのか。俺たち男子の間でついた、ちょっとしたあだ名みたいなもんだよな、蒼。……名付けて、高嶺の花子さん!」
「鉄壁の花子さんとか、派生シリーズも色々あるんだぜ! 男子が告白して散った時は氷の花子さんとかさ」
「……まあな。高嶺の花の、花子さん。……そのまんまだ」
俺はため息混じりに同意した。
男子連中の安直なネーミングセンスには脱帽するしかない。
でも、語呂の良さと妙な説得力のせいで、俺も稀に頭の中で使ってしまうから、強くは言えやしない。
何よりそれが、君の輪郭をなぞるのに手っ取り早いのは事実。
「氷の……って、そんな。好きでもない人からのお誘いをお断りするのは、普通のことでしょう?」
九条さんは、どこか遠くを見るような、寂しげな目でポツリと呟いた。
その声には、男子たちが面白おかしく囃し立てる言葉遊びへの、戸惑いが混じっている。
彼女にとっては、誠実に、自分に嘘をつかずに対応した結果でしかない。
それを「氷」だの「鉄壁」だのと、まるでゲームや遊びのようにカテゴライズされることが、どうしても馴染まないのだろう。
その顔を見てしまったら、もう黙ってはいられないよな。
健太の無邪気な信仰を、彼女の本当の姿を知る俺が、あの不器用で人間臭い姿で上書きしてやりたくなったんだ。
「実際は、高嶺のクマ子だろうに。なあ?」
「ああっ!?」
「は? クマ子って何だよ?」
健太が能天気に首をかしげた、その瞬間。
──ダンッ!
乾いた衝撃音が静かな室内に響き渡り、健太が「うおっ!?」と情けない声を上げてのけぞった。
九条さんが、机に両手を突き、ものすごい勢いで立ち上がっている。
「小園くん!」
静かに、けれど逃げ場のない鋭さで、健太の言葉をぶった斬る。
唇の両端を吊り上げた、完璧なまでの微笑。
だけど、そのこめかみには微かに青筋が浮かび、瞳の奥には口封じを辞さない絶対的な威圧感が宿っている。
「それは、貴方が知る必要のないことよ。今すぐ、この場で忘れて。もし、知ろうとしたら……そうね。小園くんのこと嫌いになるかもしれないわ。いい?」
「ひっ……わ、わかった。もう二度と聞かないから! だからその、怖い笑顔はやめて……っ!」
健太が混乱しながらも即座に屈服し、椅子ごと後退する。
彼女にとって、俺だけが知る重度のファンシー好きという秘密は、相手の好悪を左右しかねないレベルの一大事らしいぞ(笑)
別にそれくらいいいだろうに。
多面性こそが人の魅力だし、むしろそんなギャップに俺は心底、愛着を感じているのだけれど。
彼女はどうしても、その柔らかい部分を外に晒したくないらしい。
「ふふ、分かればいいの。さあ、勉強を始めましょうか」
九条さんは涼しげに言って、何食わぬ顔で参考書を開く。
だがその直後──机の下で、俺の太ももに鈍い刺激が走った。
「……っ!?」
見れば、彼女は正面を向いたまま、シャープペンシルの頭を俺の腿にこれでもかとグリグリ押し付けていた。
『余計なこと言わないで、蒼くん』
無言でそう語る瞳が、あまりにも、あまりにも可愛かったから。
俺はきっと、また同じ過ちを繰り返すだろう。
悪いが反省なんて、これっぽっちもしていない。
こうして、九条さんの威圧に屈した健太が泣く泣く参考書を開く形で、勉強会は開始された。
場所は図書室の一角、ラーニングコモンズ。
可動式のホワイトボードを引き寄せた九条さんは、マーカーを手に取ると、淀みのない動作で英文を書き連ねていく。
「いい、小園君。この構文の本質はね……」
キュッ、キュッ、と濡れたペン先が。
ホワイトボードを滑るように、リズミカルに走っていく。
そこに立つ彼女には、先ほどまで「クマ子」という単語に羞恥を爆発させていた影など、まったくない。
まさに学年の頂点に君臨しつづける才媛、そのものだった。
俺が目指し、いつか追い越さねばならない頂きだ。そうして、いつか必ず君を俺だけのものにする。
これはもう、俺の中での決定事項。
「なんか、わかる気がするぞ……」
「そう? ならよかったわ」
いやはやどうして、彼女の教え方は、担任の吉岡先生の授業とはまた別の意味で、鮮烈に映る。
吉岡先生の授業は、クラスの誰もが置いていかれないよう配慮された、丁寧で澱みのない正解への道筋だ。
ただしそこには、基礎ができているという暗黙の前提がある。
対する九条さんの教え方は、もっと強引で、それでいて驚くほどパーソナル。
健太がいま、どこで思考を詰まらせ、どこで勘違いをしているのか──
彼女の圧倒的な知性が、今この瞬間、健太のためだけにチューニングされている。
それはこの上なく贅沢で、そして二度とはないかもしれない。特別な時間。




