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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第98話 君の羅針盤

「……く、九条さん?」

「そうだぞ、九条さんだぞ」


「ど、どうしてここに?」


 問い返す俺の瞳に、君の白く細い首筋を伝う、ひと筋の汗が映り込む。

 あの潔すぎる背中からは想像もつかないほどに、彼女の肩は上下し、その呼吸は乱れていた。

 学院が誇る才媛であり、常に模範的な生徒である君が。まさか俺を探して、なりふり構わず校舎を駆けたというのか。嘘だろ?

 

 驚きで硬直する俺をよそに、彼女はその微笑みを崩さない。

 それどころか、彼女はさらに顔を寄せるから。傾き始めた陽に透けて、黄金に輝く漆黒の髪が、俺の頬を甘くくすぐるんだ。


 ふわりと、俺の理性を狂わせるあの甘い香りが、逃げ場のない濃密さで鼻腔を支配してゆく。パーテーションによって切り取られた、二人だけの狭い世界。


 それは、図書室の静寂を侵食するように、ゆっくりと。

 けれど俺の鼓膜を直接揺らす、低く、熱を帯びた音となって忍び込んでくる。

 彼女は俺の耳元に唇を寄せ、誰にも聞こえない、俺だけに向けられた蜜をそっと注ぎ込んだ。丁寧に、消えない火を心にくべるようにして。


「……君だけの、葵さんだ」

「な……」


「戻ってきてあげたぞ」

 

 代官山のデート以来、時折聞かせてくれるその口調。

 俺たちの言葉を真似たのか、彼女なりの遊び心なのか。その、たまにしか見せない一面が堪らなく好きだった。

 俺だけが知っている貌。それが、どうしようもなく俺の(へき)に鋭く刺さる。


 ドクリ、と心臓がひっくり返るような音がした。


 学校という『九条さん』の仮面を被るべき場所で、己が俺の所有物であることを肯定するような、その甘露な響き。

 耳元に残る吐息の熱と、それを学校で聞かされるという背徳的な衝撃が、俺の心臓に耐え難いほどの負荷をかけてゆく。


 だから……息をするのさえ、苦しくなるんだ。


「君の目が、寂しそうだったからな。ふふん」

 

 全生徒が君に憧れ、誰もがその高嶺の花を遠巻きに眺めることしかできないというのに。

 その煌めく双眸は、俺しか見ていないのだと。

 ほら、またそうやって。

 世界でただ一人、自分だけが彼女に許された特別な存在なのだと、切なげに、けれど強引に教えてくれるから。


 俺はもう、言葉を返すことすら忘れて、ただ彼女の瞳に射抜かれることしかできない。抗う術なんて、とうの昔に手放してしまった。

 傾き始めた陽に照らされた君の美顔は黄金色に輝きながらも、底知れない湿度を湛えて。恒星の引力に身を任せるままに、俺を深く、深く。

 そう。君以外の光の届かない場所へと、沈めていく。


「……あ、葵……さん」


 抑えきれず、震える声でその禁断の名を呼ぼうとした、その時。


「しーっ」


 彼女は愛情いっぱいに目を細め、人差し指を俺の唇にそっと当てた。

 吸い付くような指先の感触と、わずかに残る彼女の体温。それだけで、俺の言葉は喉の奥に封じ込められる。

 あまりにも、簡単に。


 陽が差し込む静かな図書室の一角、ラーニングコモンズ。

 その指先一つで、彼女は俺に思い出させたのだ。

 ……そうか。ここは、学校だったなと。

 

 名前を呼んで抱き寄せたいという、胸の奥で暴れる雄の衝動を。

 かろうじて理性で押し殺す。

 俺は彼女の指が離れるのを待って、努めて冷静な──それでいて、隠しきれない朱を混ぜた声で問いかけた。


「……先に、帰ったんじゃなかったのか?」


 廊下で「わかった」と物分かりよく頷いたはずの君が。

 さっき、「目が、寂しそうだったから」と、言ってくれた。それが答えなのだと、もう十分に理解しているはずなのに。

 それをもう一度、君の口から聞きたかった俺は、同じことを聞いてしまう。

 

 すると九条さんは、何事もなかったかのように俺の隣へ腰を下ろした。

 そうして、僅かに椅子を滑らせ、学校で許される距離感ギリギリまで身を寄せてくる。

 だぶついたブレザーの肩同士が、何かの拍子に擦れ合うほどの距離。

 

「……もう、一人での帰りかた、忘れちゃったわ」


「だから、一緒に帰ってくれる?」


 そんなことを、この距離で、あの『葵さん』の声音で囁かれては堪らない。

 俺は小さく息をつき、降参するように視線を教科書へ落とした。

 無理だ、これ以上甘さを浴びたら平静を保てなくなる。俺は逃げ込むように、無機質な活字の羅列へと視線を縛り付けた。

 どうにかお礼を言うのが精一杯。


「……そっか。……嬉しいよ、戻ってきてくれて」

「あら、素直なのね」

「実際、寂しかったからな」


 俺の正直すぎる吐露に、彼女は満足そうに口角を上げた。

 インクと古い紙の匂いが交じり合う時の中で、彼女は再び俺の耳元へ顔を寄せる。誰にも聞かせない、それはとても甘い呪文(ワード)

 

「My compass always points s()o()u()th, never north. (私のコンパスは常にs()o()u()thを差し、北なんて指さないのよ)」


 鼓膜を直接叩く、甘い英語の囁き。

「……サウス? どういうことだ?」


 俺の口から、無意識に疑問が零れ落ちていた。

 私の羅針盤は、北なんて指さない。南?  彼女がわざわざ英語で告げた言葉。その綴りの中に込められた艶のある響き。

 その真意に、あと一歩で手が届きそうで届かない。


「くそっ。……俺も、まだまだだな」


 悔しげに呟いた俺の答え合わせに、彼女は「ふふっ」と、陽だまりのような柔らかな笑みを浮かべた。

 そして、俺の目をじっと見つめ、慈しむように目を細める。


「まだ、もう少しかかりそうかな~。頑張れ、蒼くん」

「──え?」

 いま、何て。

 

 彼女の唇から、零れ落ちるように紡がれたその呼称は。

 最も高い壁を築かなければならない、この場所(学校)で。

 『九条さん』という鉄壁の仮面をかぶり忘れて、つい、うっかりと『葵さん』の顔を見せてしまっていた。


「つい、うっかり……。ごめんなさい。……頑張って、水無月くん」


 慌てて言い直した彼女の声は、少しだけ上ずっていて。

 斜光に照らされて真っ赤になった耳たぶを隠すように、彼女は視線を教科書へと落とした。

 

「ぷっ、ははは」

 込み上げてくる感情を抑えきれず、俺の口元から密やかな笑みが零れた。


「むぅ。どうして、笑うの?」

 

 俯いたまま、少しだけ膨れたような声で彼女が問うけど。

 どうしようもなく、可笑しかったんだ。

 だって、そうだろ?

 完璧なはずの君が、こんな初歩的なミスをして。それを聞いた俺が、勝手に心臓をバクバクさせて舞い上がっている。

 そして最後は、共に気恥ずかしくなって並んで教科書に視線を落とすんだ。


「……俺たちは共に、未完全だなあ。そう思っただけだよ」


 教科書に並ぶ難解な数式や構文よりも、俺たちはもっと単純な、この「距離の測り方」さえ満足に解けないでいるから。

 

「もう。変な水無月くん。ふふ」


 彼女もまた、小さく笑い声を漏らしていた。

 陽に溶け合う二人の笑い声は、未完成な二人だけの。

 誰にも邪魔されない聖域の調べ。


「お待たせ蒼! 急いで連絡してきたぜ……って、えっ、えええええええ!? 九条さん!?」

 第98話、お読みいただき本当にありがとうございます。作者の神崎 水花です。

 ここまでの物語を「楽しかった!」「続きが気になる!」「九条さん可愛い!」と少しでも思っていただけましたら、ぜひ下の「☆☆☆」を「★★★」に変えて、本作を応援していただけると執筆の励みになります。

 ブックマークや感想も、どうぞお気軽に。それでは、次話でお会いしましょう。

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