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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第97話 本当に欲しかったものは日常の中にある

 六限は、担任である吉岡先生の英語だった。  

 朝の宣言通り、先生は中間考査という言葉を盾にして、容赦のない密度で文法解説を押し進めていく。黒板を激しく叩くチョークの音が、あたかもテストへの秒読みのように、俺たちの耳をせっついて離さない。


『私のクラスなんだから、みんな頑張ってよ』

 そんな幻聴が今にも聞こえてきそうな、授業風景が広がっている。


 ──カツン。

 

 授業が残り三十分になろうかという辺りで、不意にその音が止まった。

 それは吉岡先生が、手にしていたチョークを黒板の溝へと置いた音だった。

 それまでノートを取るために伏せられていた全員の視線が、俺も含めて。糸で引かれるようにして、教壇へと向かった。

 なんだ……、何が始まる?


 先生は、教卓に積まれたプリントの束に手を置くと、

「……じゃあ。今から、現在の皆の到達度を確認するために小テストを配るわね」

 涼し気な顔で、予想だにしない台詞を吐いた。

 その宣告が放たれるやすぐ、教室内には数舜の絶句が訪れ、やがて地鳴りのような非難の声が巻き起こる。


「「「ええええええ――――っ!?」」」


 絶叫したのは誰か。答えは簡単。

 目の前に座る友人をはじめとした、付け焼刃の『つ』の字も用意できていない連中の悲鳴に決まっている。

 けれど、そんな阿鼻叫喚を吉岡先生は柳に風と受け流し、教卓から教室全体を鋭く見渡した。


「いま『えーっ』て騒いだ子たち。あのねえ、前もって言ったら、あなたたちはその場しのぎの暗記しかしないでしょ? 私が知りたいのは、今の皆の実力なのよ」


 その言葉は、悲鳴を上げた者たちへは厳しく突き刺さる一方で。

 騒ぎ立てることもなく、淡々とテストの準備を整える九条さんや長谷川さん、そして俺を含む。

 日頃から着実に積み重ねてきた者たちにとっては、己の足跡を肯定されるような、静かな信頼の言葉としても響いていた。


 教室を支配する絶望と静穏。

 吉岡先生は、その二層に分かれた空気の温度差をあえて楽しむかのように、不敵な笑みを深めてプリントを捌いていく。


「水無月くん?」


 不意に、隣の席から声がかかった。

 九条さんは前を向いたまま、けれど俺にだけ届く微かな、秘めやかな声音で告げる。


「その手でも……書けそう?」

 視線は黒板に向けられたままでも、彼女の意識が、心配そうに俺の両腕へと注がれているのが分かった。


「うーん。書けるけど、先生が読める字になるかは別問題かな」

「そうよね……」

「でも、さすがにテストを君に代筆してもらう訳にもいかないだろ?」


 彼女はわずかに唇を結び、「……うん」と短く頷いた。

 代わってあげたいけれど、そればっかりはできない。彼女の中の俺だけに向けられた格別な優しさが、今日もじっと見守ってくれているから。

 今日も、こんなに幸せなことは無いと、思うに至れる。


「始め」


 先生の合図と共に、一斉にペンの音が走り始める。

 俺は、彼女の家で懸命に叩き込んできた数々の構文を思い出しながら、周囲の滑らかなリズムに置いていかれまいと、不自由な手つきでペンを握り直した。


 ギプスが嵌められてから、そろそろ一か月だろうか。

 利き手ではない左手で綴る文字は、いまだに慣れることができずにいて。

 当初の、それこそミミズが這ったような……無残な字に比べれば随分とマシにはなったものの、それでもまだ、自分自身で見るに堪えない代物だった。


 三十分という、短いようで長い時間が過ぎた。

 答案が回収されると同時に、教室のあちらこちらから溜息が漏れ出し、やがて放課後を告げるチャイムが、解放の合図のように鳴り渡る。


 思考を巡らせるよりも、不自由なペン先で紙に挑むほうが苦難という。そんなもどかしい時間がようやく終わった。

「……はぁ、やっと終わった。……なんとか間に合ったよ」

「書くだけで、大変よね。……お疲れ様、水無月くん」


 隣から届いたのは、俺の苦労をすべて見透かしたような、慈雨にも似た優しい声。

 俺は慈雨に浸りながら帰り支度を整えると、隣の席で静かに立ち上がった彼女に視線を送る。


「九条さん、ちょっといい?」

「なに? 水無月くん」


 彼女を促し、騒がしさを増した教室を出て廊下へと向かう。

 放課後の斜陽が差し込む廊下は、部活に向かう生徒たちの足音と談笑でとても賑やか。窓際の、少しだけ人の波が切れた場所で立ち止まり、俺は声を落として切り出した。


「ごめん。今日はこのあと、健太に勉強を教えることになったからさ。……先に、帰っててくれるかな」

「……その話、朝に聞いていたから……うん、わかっているわ」


 九条さんは寂しそうに、けれど随分と物分かりの良い顔で頷いている。

 本当は一緒に帰りたいし、俺だってそう思っている。けれど、あいつをキャンプに行かせるために引き受けた役目である以上、もうどうしようもないこと。

 

「終わったら連絡するよ」

「……ええ。頑張ってね、水無月くん」

 

 彼女が背を向けようとした、その時だった。

「あ」

「……どうしたの?」


 思わず零れた俺の声に、九条さんが弾かれたように振り返る。その瞳には、一瞬だけ、期待に似た微かな光が宿ったように見えて。

「いや……何もない」

「そ、……じゃあね」


 言いかけて飲み込んだ、身勝手な未練。

 わずかに名残惜しそうに揺れた彼女の黒髪の先が、見えなくなっていくのを、俺はただ見送ることしかできなかった。


 友人が待つ教室へ。

 心に、一陣の風が吹いたような感覚だけが残る。

 どこかで、『それでも彼女なら俺を待っていてくれるのではないか』なんて淡い期待を抱いていた自分に気づき、情けなさに唇を噛んだ。


 自席に戻れば、そこには案の定、机に突っ伏して真っ白な灰になっている友人の姿がある。


「突っ伏してる暇はないぞ。キャンプに行きたいならな」

「わ、わかってるよ……。でもよぉ、英語なんて記号にしか見えねえんだ。……で、どうする蒼。どこでやる? 図書室でも行くか?」


 健太が力なくカバンを肩にかけ、不安げに尋ねてくる。

 聖諒の図書室は設備も蔵書も一級品だけど、あそこは話すのに適さないしなあ。どうしたものか。


「いや、図書室だと話せないだろ。お前に教えながらやるんだから」

「あ、そうか……。カフェとか外の店は誘惑が多すぎるしな。いっそ、ここでやるか?」


「いや、待てよ。……図書室の奥に『ラーニング・コモンズ』があったはずだ。あそこなら、小声での議論は許可されてたような」

「お、マジか! じゃあそこへ向かおうぜ!」

「行ってみるか」


 放課後の喧騒を抜け、重厚な図書室の扉を潜る。

 奥へ進むと、仕切られたテーブルとホワイトボードを備えたスペースが点在していて、俺たちは先客のいない円卓を選んだ。

 確かに。ここは、教え合うには絶好の環境かもしれない。


 丸テーブルにカバンを置くと、健太が思い出したように顔を上げる。そしてとんでもないことを言い始める。


「わりぃ蒼、ちと顧問に部活休む連絡だけいれてくるわ」

「おい、今更かよ。時間が惜しいから、出来るだけ早く戻れよ」

「わかった、十分で戻る!」

「おせえよ!」

「じゃあ、七分!」


 ったく。

 嵐のように去っていった健太を見送り、俺は一人、円卓に教科書を広げた。

 さて、どこから教えたものか。あいつのあの壊滅的な小テストを思い出すと、中学の文法からやり直した方が早い気がしてくる。

 そんな思案に耽りながら、ページの余白を指でなぞっていると。


 ふわりと、俺の好きな、あの甘い香りが鼻先を掠めたから。

 ──瞼裏に、さっき廊下で別れたばかりの『彼女』の姿を描いてしまう。

 無意識に幻影を追いかけてしまう自分に、少しだけ自嘲気味な笑みを零しかけた、瞬間。


 右肩にストンと、柔らかな重みが置かれた。


「……おせえぞ、健太」


 苛立ちを混ぜて、振り返らずに声をかけた。

 だというのに、いつまで経っても返事がない。

 代わりに、耳元で衣擦れの音がして、ひんやりとした、けれど微かな熱を帯びた吐息が俺の頬を優しく撫で上げた。


「なっ!?」

 

 その感触に、心臓が跳ね上がる。

 慌てて振り返った俺の視界に飛び込んできたのは、艶めく漆黒の髪と、悪戯っぽく細められた、あの湿度を孕んだ双眸で。


「……く、九条さん?」

「そうだぞ、九条さんだぞ」


 彼女は、ようやく見つけ出した迷子を慈しむような、形容しがたい深い微笑を浮かべてそこに立っていた。

 君の白く細い首筋を、ひと筋の汗が伝う。

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