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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第96話 4+1

 騒がしい昼休みは、まだもう少しだけ続く。

 俺は、飾らない彼女が待ち受けに収まっている例の赤いスマートフォンをポケットに仕舞うと、静かに腰を上げた。

 布越しに伝わるその微かな重みは、俺だけが持つたった一枚の重み。

 

「そうと決めたら、早い方がいい。行こうか高階さん」

「おっけー、ありがと。九条さん、ちょっと水無月くん借りるね」

 高階さんが、少し遠慮したように九条さんに断りを入れる。その許可を求めるような不自然な仕草に、俺はたまらず口を挟んだ。

 

「そういう、変な気遣いはやめてくれ」

「あはは、ごめんごめん。つい、ね」

 高階さんは明るい笑いで受け流す。隣の九条さんはといえば、相変わらず非の打ち所のない美貌で、小さく頷いてみせた。

 

「ええ。うまくいくといいわね、二人とも」

 その肯定は、どちらに向けられたものだろうか。

「借りるね」に対する許可なのか、それとも俺の「気遣うな」への同意なのか。答えは、微笑みの深みに隠した君のみぞ知る、といったところか。

 

「そ、蒼……頼んだぞ。俺の、俺のバラ色のキャンプがお前に……!」

「わかった、わかったから……鼻息が荒いぞ、健太」


 祈るように手を合わせる友人を放置して、歩き出す。

 相手があることだ。こればかりは、なるようにしかならないだろうに。

 

 高階さんは楽しそうに俺の背中をポンと叩き、俺の半歩後ろを、弾むような足取りで付いてくる。

 それを見たクラスの男子たちの視線が、どろりとした羨望を孕んで、まるで物理的な熱量を持つかのように俺の背中を焼き始めた。

 

『何なんだ、水無月は。九条さんの隣を独占しているだけじゃ飽き足らず、高階さんまで……』

 

 声にならない気配が、教室中に満ちていく。そんな無言の十字砲火を、俺はただ肩をすくめて切り分けながら、長谷川さんの待つ前方へと足を進めた。

 教室の前方、教壇のすぐ側。

 数人の女子に囲まれて、穏やかにお弁当を広げている彼女の姿は、いかにも『大人しい長谷川さん』らしい定位置に思えた。


「あ、水無月くんだぁ、萌ちゃんも。どうしたの?」


 俺たちが近づくと、女子たちの華やいだ会話が止まり、数組の瞳が好奇に揺れる。ただ事ではない雰囲気に、周囲の耳目が更に集まってくるのが分かった。

 どいつもこいつも、キャンプの班を決めるだけのことだというのに、どうしてこうも大袈裟なんだ。

 心の中で苦笑するしかない。


「長谷川さん。昼、もう終わった?」

 

 ゆっくりと、彼女の目線に合わせて腰を落としていく。

 立ったまま見下ろすような威圧は避け、誠実さを差し出す。

 かつて、九条さんの食事中に無作法に割り込んで不興を買った『サッカー部の誰かさん』あれが、いい勉強になった。

 あの二の舞にだけは、絶対になりたくない。


「うん、ちょうど終わったところだから大丈夫だよ。……水無月くん、わざわざ屈んでくれるなんて、優しいんだね」


 こういうことが、さらりと言えてしまうのだから、この子も大概『いい子』なのだろう。健太が煩悩にまみれながらも、惹かれる理由がなんとなく分かる気がした。

 

 長谷川さんは、おっとりとした動作で箸をしまい、不思議そうに首をかしげる。

 相変わらず、彼女の纏う空気はとても柔らかい。

 けれど、視線の高さを合わせたことで、制服の生地越しでも隠しきれない『豊かな山脈』の存在感が、より一層の迫力を持って俺の網膜を揺さぶりにくる。

  正直、これは……かなりキツイ。

 健太、お前本当にこんな致死量の煩悩と向き合うつもりなのか?

  

「こんなの、普通だろ。……単刀直入に言うけど……先生が朝に言っていたホームルーム・デイ、俺たちの班に入って欲しいんだ」

 周囲の女子グループから「えっ……」とか「きゃっ……」といった、吐息に近い小さな悲鳴が漏れ始める。

 すると、高階さんがすかさず、隣から明るい声で援護射撃を放ってくれた。

 

「そうなの! いまのところメンバーは私と水無月くん、九条さんと小園。あと一人、多恵が入ってくれたら嬉しいなーと思って。……どーかな?」


「九条さんまで……?」


 長谷川さんの瞳が、驚きに微かに揺れる。

 学院の頂点に君臨する九条 葵。その彼女が属する班に自分を誘いに来た。その事実の重みが、彼女の中でじわじわと広がっていくのが見て取れた。


「……でも」


 長谷川さんが、困ったように視線を泳がせる。

 その先には、今日もお弁当を一緒に囲んでいた友人たちの姿があって。彼女にとって、その穏やかそうな居場所もまた、大切にしたい日常なのだろう。

 人には人の、それぞれ守りたいものがある。

 それを察した俺は、彼女の優しさに先回りするように言葉を継いでいく。


「ああ、ごめん。何も今すぐ決めてくれっていう訳じゃないんだ。……ただ、一度長谷川さんと同じ班になってみたかったから、いい機会だと思ってね」


 打算のない俺の本音に、長谷川さんがぱちくりと目を丸くする。


「それ以降、俺たちに付き合えって話でもない。普段通りでいいんだ。今日一日、ゆっくり考えてみてくれ。……それじゃ、食事中に邪魔したな」


 努めて軽く手を挙げ、彼女たちの輪から離れる。

 あれほど賑やかだった高階さんが、今はなぜか大人しく、僅かに頬を染めて俺の後ろを静々と付いてくる。

 その沈黙が、かえって俺の背中に奇妙な緊張を強いたような。


「うん、わかった……。ありがとう、水無月くん。考えておくね」


 背中越しに届いた長谷川さんの声は、どこか弾んでいるようにも聞こえて。

 まずは一安心、といったところか。今の自分にできる最善は尽くしたはず。あとは野となれ花となれ。どう転んでも俺を恨むなよ、健太。


「はぁ~……やるじゃん、水無月くん。あんなの女子は断れないって……」

 不意に、少し後ろを歩く高階さんが感心したような、あるいは何かに当てられたような重い吐息を漏らした。

「ねぇ。……なんか、ちょっと変わった? 水無月くん」

「え?」


 足を止めずに問い返すと、彼女は少しだけ視線を泳がせ、それから小さく、独り言のように言葉をこぼした。


「いいなぁ、九条さん……」

「なんか言ったか?」

「ううん、何でもないから! ほら前見て、席に帰るよ!」


 誤魔化すように明るい声を張り上げ、高階さんが俺の背中を強めに押すから。

 だから俺は、見たくてしょうがなかった君に視線を向けて——少し驚くんだ。


 完璧な美貌に、いつもの柔らかな微笑みを湛えている九条、葵さん。

 けれど、その双眸だけは。

 にこにこと、春の陽だまりのような笑みを浮かべながらも、その奥に隠しきれない……湿り気が見えるような。

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