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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第93話 緊急発動、絶対九条防壁

 一限目は、現代国語の授業。

 五月の穏やかな陽光が窓から差し込み、埃の粒が光の筋の中で踊っている。そんな中、教壇に立つ中年教師が教科書をトントンと叩き、彼女を指名した。


「九条。次、五十六ページから読んでくれ」

「はい」


 九条さんがスッと立ち上がる。

 その所作一つで、教室の空気が心地よく引き締まった気がした。

 彼女がしなやかな指先で教科書を手に取り、静かに言葉を紡ぎはじめる。

 

 澄んでいるのに、どこか深みのある声が心地いい。

 一言一句を疎かにせず、淀みなく流れるような朗読。物語の情景が彼女の声に乗って、教室中の隅々まで広がっていく。

 クラスメイトたちはみな、麗らかな声に耳を傾けていた。教科書の文字を追っているはずなのに、俺の耳には彼女の吐息の混じり方や、微かな音の震えまでが克明に響く。


「──『君は恋をした事がありますか』

 私はないと答えた。

『恋をしたくはありませんか』」


 その問いかけが教室の空気に触れた瞬間、波紋のように、微かな、けれど確実な熱が広がる。

 誰もが彼女の唇から放たれる、その一文字()を意識せずにはいられない。

 それくらい、彼女の口から放たれた「恋」という言葉は甘やかだった。


「『したくない事はないでしょう』

『ええ』……。

『しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか』──」


「恋」という言葉に色めき立った連中も、今はただ、その言葉の毒に当てられたように動けない。

 恋は罪悪。俺もそう。

 ただ、教科書を見つめたまま、彼女の唇から零れ落ちた余韻に耳を奪われていた。

 

 そうしてチャイムが鳴り、一限が終了すると同時に、九条さんは淀みのない動作で筆記用具を片付け始める。

 その立ち振る舞いは、連休明けの気だるい空気とは完全に一線を画していた。


「じゃあ、ちょっと行ってくるわね」


 席を立つ際、彼女が俺の方へ、クラスメイトに告げるのとは少しだけ違う。ほんの僅かに温度を孕んだ眼差しを向ける。


「ああ、気をつけて」


 努めて短く、けれど、少し仲が良すぎる友人としてのトーンで返す。

 そこに、俺なりの温かさを乗せて。

 彼女は小さく微笑むと、そのまま迷いのない足取りで教室を出て行った。その背中を視線で追っていると、案の定、健太が横から首を突っ込んでくる。

 

「なんだ、蒼。一緒に行かないのかよ?」

「……この手だぞ? 行って何ができる。それに、先生からプリントを貰いに行くだけだろ」

 

 俺はギプスに包まれた自分の手を軽く示して、自嘲気味に肩をすくめるだけ。

「そ、そうか。まあ、委員長の仕事だしな」

 健太は納得したように鼻を鳴らす。

 学校での彼女との距離感だけは、絶対に踏み間違えてはいけない。

 吉岡先生に、これ以上の心労を掛けるわけにはいかないのだから。


「でも、これだけは言っとくぜ、俺にだけは、嘘をつくなよな」

「……ああ、肝に銘じておくよ」


 俺が視線を逸らさずに返すと、健太はそれ以上何も言わず、「おう」とだけ短く答えて前を向いた。

 具体的に何が起きているかは分からなくても、こいつはこいつなりの勘で、俺たちに気づいているのかもしれない。

 いつか。言えるようになった時は、お前には一番に言うさ。約束する。


 それから、二限、三限、四限と時間は緩やかに過ぎていき──

 昼食を告げるチャイムが鳴ると同時に、教室に一気に緩んだ空気が広がってゆく。

 九条さんは、職員室から持ち帰った宿泊行事のプリントを手に教壇へと向かう。そうして食堂へ急ごうとする連中を制するように、凛とした声を響かせた。


「みな、食事の前にちょっとだけ聞いてくれる?」


 一瞬で静まり返る教室。

 時折、俺の耳元で甘い吐息を吐くあの唇が、今はクラス全体を統率する委員長の声を紡いでいる。

 

「朝、吉岡先生が言っていたホームルーム・デーの件だけど。班分けのルールを説明するわね。……食堂に急いでる人は、後で黒板を見ておいてくれればいいから」


 彼女は黒板に手際よく、流れるような筆跡で要点を書き込んでいく。


・1班は5〜7人程度

・男女比は可能な限り半々

・期限:木曜中

・班長がメンバー表を提出

 

 淡々と、淀みなく。その隙のない振る舞いに、クラスのあちこちから感嘆の空気が漏れるのが分かる。

「……期限までに決まらなかった人がいたら、個別に私に相談してちょうだい。よろしくね」


 説明を終えた九条さんは、そのまま教壇に留まり、クラス全体を見渡して質問を待つ。黒板に残された彼女の筆跡は、まるで彼女自身を写したかのように、美しく整っていた。


 そのわずかな沈黙を縫うようにして、俺たちの席ではささやかな会話が弾み出す。


「なあ、九条さんって字まで綺麗だよな……」

 健太が、未開封のパンを片手に感心したように呟く。

「ああ。字が綺麗っていうのは、それだけで一つの才能だよな」

 俺が素直な同意を口にすると、前の席から椅子をくるりと回した高階さんも、黒板をしみじみと振り返る。


「はあ。本当ね。あんなにさらさらと綺麗に書けたら、書いてて持ちよさそう。……私もどこかで習おうかな」

「習字か?」

 健太の問いに、彼女は少しだけ考え込む仕草を見せニヤリと笑う。

 

「んー、今風ならペン字じゃない? ま、でも小園は習った方がいいかも。あんたの字、汚すぎて読めないもん」

「俺も同感だ」

「なっ、蒼、裏切ったな!」

 健太が情けない声を上げ、俺と高階さんが笑い合っていると、教壇の九条さんが特に質問もなさそうなことを察し、静かに幕を引きに掛かる。

 

「では、質問もなさそうなので、ここまでにしましょう」


 特に異論がないことを確認した彼女は、教壇を降りると、真っ直ぐに俺たちの席へと歩いてきた。

 高嶺の花、氷の城壁、完璧な委員長、そして人気モデルの『MINA』。

 全学院生の憧憬をその細い肩に一身に背負い、いくつもの肩書きを纏う彼女ではあるけれど。やるべきことを終え、いつもの四人の輪に戻ってくるその歩調は、どこまでも軽やかで、少しだけ弾んでいるようにも映った。


 ──そして。

 そんな九条 葵が、一たび学校を離れると途端に隙だらけになることを。

 俺だけが知っている。

 

 胸の奥で微かな優越感を飼い慣らしながら、俺は委員長サマを迎え入れる。

「お疲れさま。……ほら、お茶」

「ありがとう、水無月くん。それで、さっきから何をそんなに笑っていたの?」

 

 彼女は俺の隣に腰を下ろすと、少しだけ首を傾げて聞いてきた。

 呼び方は「水無月くん」

 俺の「九条さん」と同じだ。

 だけど、その声のトーンはどこかとても柔らかいもの。

 

「ああ、いや、最初は君の字が綺麗だなって話だったんだ。そこから、健太の字があまりに解読不能なレベルだって話に発展して……」


「皆して俺をネタにしやがって。しかも最後は盛っただろ。解読不能って何だよ!」

 健太がメロンパンを握りしめたまま、顔を真っ赤にして抗議する。高階さんはそれを見て、お腹を抱えながら笑っている。


「ふふ……それは確かに、先生を困らせないためにも、検討の余地があるわね」

 九条さんは俺の分の弁当の蓋を開けながら、含みのある顔で微笑んだ。

 普段は冷静な彼女が、こうして軽妙な冗談に乗ってくれる瞬間が、俺はたまらなく好きだったりする。


「ええっ!? 九条さんまで? 勘弁してくれよぉ」


 健太の情けない嘆きに、高階さんが、

「ほら! 九条さんもそう言ってるじゃない!」

 と追い打ちをかけ、輪の中にいっそう大きな笑いが広がる。

 これこそが、俺たちの日常にすっかり定着した、平和で騒がしいランチタイム。永遠に続いてほしいと願わずにはいられない、かけがえのない時間。


 けれど、そんな幸福な温度が──背後から忍び寄る不快なノイズによって、一気に冷え切ることになろうとは。

 誰が想像できただろうか。


「なあ、九条さん。俺のグループに来ねえか? そっちより絶対楽しいぜ?」


 楽しい食事に、冷や水をぶっ掛けるような、厚かましくも馴れ馴れしい声。

 田島が、九条さんの机のすぐ横に立っていた。

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