第92話 友人の危機、冷めた怒り
眩しすぎた連休が終わり、校庭の木々はまた一段とその深緑を増していた。
たった一日。
けれど俺にとっては、何にも代えがたい一日だった。
彼女が唯一休めたあの日。代官山で触れたあの切実な熱情を、彼女から譲り受けたあの和歌の栞を。
俺は、心の奥底に大切に仕舞い込んでいる。
教室に漂うのは、連休明け特有のどこか気だるい空気だった。
休み中の思い出話に花を咲かせる女子たちがいて、机に突っ伏して現実逃避を決め込む男子たちもいる。
そんな、いつもと少し違う朝の風景。
俺は自分の席に着くよりも早く、その違和感に足を止めることになった。
「……健太。お前、その頭どうしたんだよ」
整髪料をこれでもかと塗りたくり、ガチガチに固められたその髪は、教室の蛍光灯を反射して鈍く光っている。
「……蒼か。フッ、そう驚くなよ。俺はもう、連休前の俺とは違うんだ」
健太はどこか遠く、窓の外を見つめながら言った。
それからゆっくりと、執拗なまでに前髪の端を指でなぞるから。
気持ち悪くてしょうがない。
「髪型の話か?」
「違うわ! おっと、いけねえ。取り乱した」
健太はわざとらしく咳払いをすると、声を一段低く沈めて続ける。
「いいか、蒼。俺はもう、ハードボイルドに生きると決めたんだ。……ゆえに、俺は──胸も見ないと決めた」
「お前が?」
「おう」
「本当に?」
「……しつこいぞ、蒼」
呆れる俺を余所に、健太は再び虚空を見つめた。
聞けば、あの酒々井さんにアタックして、散った結果のこれらしい。
「まあ、頑張れ。一応応援はしとくよ」
「おう、ありがとうな」
一体、そのキャラが何日いや、何時間持つのか分からないけど。
そんな俺たちの、どこか締まりのないやり取りを切り裂くように。
廊下に粛々と、けれど鋭く、リズム正しいヒールの音が響いて。
吉岡先生のご登場だ。
迷いのないその音が、赫々たる連休の終焉を告げる。
教室内の一同が本能的に背筋を正し、無意識に生徒の顔を作っていく中。教壇に立った先生は、相変わらずの涼しい顔で教室内を見渡した。
「おはよう。皆にとって、よい連休になったかしら」
その言葉と共に、先生の視線が。
俺の目の前で、不自然なほど彫刻のように背筋を伸ばしている男のところで、ピタリと止まる。
「小園くんどうしたの、その髪型。ガチガチじゃない」
「先生。俺はもう、連休前の俺とは違うんです。……男は、傷ついて大人になるんですよ。知らないんですか」
「そ、そう……。何だかよくわからないけれど。まあ、頑張んなさい。前を向こうとするのは、いいことだと思うわ。うん。……本当によくわからないけれど」
健太の迷走っぷりに、あの吉岡先生が明らかに戸惑っている。
そんな二人の様子に、静まり返っていた教室のあちこちから、耐えきれなくなったようなクスクスという乾いた笑いが漏れ出している。
「さあ、茶番はそこまでよ。今月の中旬からは、いよいよ中間考査が始まるから。浮わついた気分は、今この瞬間、欠伸と一緒に捨ててちょうだい」
「なあ、蒼。茶番は酷いと思わないか?」
「ま、まあな。ほら前を向いてないと、また怒られるぞ」
俺が宥める間もなく、吉岡先生の「中間考査」という言葉に教室がどよめいた。
「いい? 私のクラスなんだからね。担任の教科である英語の成績が悪いなんて……そんな悲しいこと、絶対にやめてよ。先生、泣いちゃうから」
少しだけ茶目っ気を含んだ口調。
だけど、その瞳の奥には確実なプレッシャーが宿っている。
『吉岡先生を泣かせるわけにはいかない』
『俺は英単語の海に沈む』
多くの男子生徒が人知れず熱い決意を固めていく中で。教室の片隅、一人だけ沈没しかけている絶望の顔があった。
「……やべぇ。俺、英語だけは壊滅的に駄目なんだよな。蒼……どうしよう。今回ばかりはマジでヤバイ」
おい、ハードボイルドはもう廃業か?
「何言ってるんだ、ヤバイのは英語だけじゃないだろ?」
「ま、まあな。数学も結構キテるぜ」
「だろうな」
なにせこいつは、英語と数学の時間になると決まって眠りこけている。
もはや授業ではなく良質な睡眠時間として活用しているのだから、結果を聞くまでもない。
「落ち着けよ。まだテストまで時間はあるだろ」
親友の肩を叩き、苦笑いして宥める。だが、その時の俺の胸の奥には、健太には決して見せない鋭い闘志が灯っていた。
幸い、俺は今、英語に関しては猛勉強の只中にある。
なんのことはない。打倒・九条 葵を掲げる俺が、たかが一教科の、それも中間考査如きで躓いてなどいられるかよ。
けれど、俺を突き動かしているのは、そんな青臭い競争心だけではなかった。
ふとした瞬間に、あるいは抑えきれない感情が昂ったときに、彼女の唇から吐息とともに零れ落ちる異国のフレーズ。
その本当の意味を、彼女の体温を感じながら直接理解できるようになりたい。
彼女が、無意識にさらけ出す本音。
その断片を、誰の助けも借りずにこの耳で拾い集めること──それが今の俺にとって、密かで、けれど何よりも強固なモチベーションになっていた。
「……蒼。お前、なんか今、すげー怖い顔してなかったか?」
「気のせいだよ。ほら前見ろ。先生の話、続きがあるみたいだぞ」
「お、おう」
「……でも、その代わり。この中間考査を無事に乗り越えたら、月末にはキャンプ場で一泊二日の宿泊行事が待ってるから、皆それを楽しみに頑張るのよ」
思わぬ朗報に、歓声に沸く教室。
健太が「一泊ぅ!? まじで!?」と椅子を鳴らして立ち上がる。
その後ろで、俺は隣の九条さんをチラリと窺った。学校で見る彼女は、あの溶けた君とは違う凛とした趣があって、これはこれで堪らないんだ。
お前は、どれだけ彼女が好きなんだよ。本当に、困った奴だな。
底なしの惚れっぷりに、思わず自虐的な笑みがこぼれる。
「キャンプの班分けは、九条さんに任せるわね。後でプリントを取りに来てちょうだい。今週中くらいに決めてくれると助かるわ」
「はい、先生」
彼女の鈴のような声が、広い教室に溶けてゆく。
だが、その直後の先生の釘刺しが、再び健太を地獄へ突き落とすのだから容赦がない。
「そうそう。折角のクラスの親睦を深める機会よ。テストで悲惨な点数を取って居残り補習……なんてことにならないようにね。各々自覚を持って過ごすこと。以上」
吉岡先生が嵐のように去っていくと、健太が泣きそうな顔で振り返った。
「蒼! お前がだけが頼りなんだ! 今日から俺に英語を教えてくれよ、一泊二日のキャンプなんだぞ! 俺が行けなくなってもいいのかよ!?」
「わかった、わかったから。まずは座れよ」
「今日の放課後から頼む! この通りだ!」
「って、今日からかよ! 急すぎるだろうが」
「お前、俺が付け焼刃でどうにかなると思うのか?」
「……いや、全く思わない」
「だろ? だから頼むよ、親友だろ!?」
健太はカチカチに固めた頭髪を振り乱し、俺の前で深々と頭を下げている
ハードボイルドが半日どころか、一時間も持ってないじゃないか。なりふり構わぬ必死さが、周囲の失笑を買っている。
クスクスとお前を笑う声がな、漏れ聞こえていたんだ。
なんだ、このイラつきは。
ああ、そうだ。
確かに、授業中に寝てばかりいたお前が悪い。それは否定しない。
だが、こいつは俺と同じで、あの過酷な一般入試を突破して外からこの『聖諒』へ入ってきた男だぞ。
本来なら、できないはずがない。
何も知らない連中に笑われるのは、それはそれで、無性に腹が立ってきたぞ。
「わかった、わかったから。……やるよ、やればいいんだろ。もういいから頭を上げろ。いつまでもそんなところで頭を下げるな」
根負けしたフリをして承諾すると、健太は「よっしゃあ!」と派手に拳を突き上げて喜んだ。
勇んで引き受けはしたものの、俺の胸の内はちょっぴり複雑だったりする。
「その代わり、約束しろ。もう授業中は絶対に寝るな」
「な、うそだろ!? お前、なんてことを……鬼かよ」
「そろそろ本腰入れないと、お前だけ三年生で違うクラスだぞ。……いいのか? 俺も九条さんも高階さんもいないんだぞ?」
「そ、それは嫌だ」
「だろ? お前がいないと俺も退屈だからな。ちゃんと、ついてこい」
「ぐ、くそ……。わかったよ。友人にそこまで言われちゃ、寝てる場合じゃねえな」
健太は少しだけ照れくさそうに、けれど真剣な面持ちで頷いていた。
……やれやれ。
けど、冷静になって考えれば考えるほど、俺の溜息は深く、重くなっていく。
放課後、健太に付きっきりになるということは、九条さんと一緒に帰れないということだ。
せっかくの、二人きりの甘い下校時間が。
彼女の柔らかな体温を近くに感じられるひとときが、親友の壊滅的な学力のために犠牲になろうとしているだと!?
まあ、でもしょうがないか。
カチカチに固めた頭をかきながら、「今日からよろしくな!」とはしゃぐ親友の顔を見るとさ。
それはそれで嬉しくもある。
彼女への恋心と同じくらい、大事にすべきものなんだろうな。
俺が、俺のままでいるために。




