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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第91話 多摩川沿いの師弟

「も、もうお終い。外だから、ね?」


 腕の中から、熱を帯びた葵さんの声が漏れる。

 名残惜しさを指先に残しながら、ゆっくりと腕を解く。灰色のレンズ越しに見る君の整った顔は、いまにも火を噴きそうなほどに赤く染まっていた。


 そう。誰よりも綺麗で、完璧な君は。

 意外なほど、照れ屋さんだ。

 これも──たぶん。俺しか知らない九条 葵の本当の顔。


「わかったよ。名残惜しいけど仕方がない」

 

 彼女は乱れた服装を整えるふりをして、所在なげに視線を泳がせる。

 新緑を抜ける心地よい風が、俺たちの間に残った熱を攫っていこうとするけれど。一度高まったこの火照りは、なかなか静まってはくれそうにない。


 再び歩き出すこと数歩。

 葵さんが、何かに耐えるような、あるいは自分の中の不安を押し殺すような、複雑な表情でポツリとこぼした。


「……ねえ。私、少し心配になってきたのだけど」


「何を?」


「ほら、吉岡先生も言ってたでしょう? 『君の将来が心配だわ』って。……今なら、先生の言っていた意味がよく分かる気がするのだけど」

「ああ、あったね。俺だけきつく叩かれたときのことか」


 先生の、あの痛すぎるほどの愛を思い出して苦笑いする俺に、葵さんは、

「違う、そうじゃないのよ」

 と、もどかしそうに首を振った。

 

「そうじゃなくて。蒼くん、あなた……ひょっとしたら、とんでもない『女たらし』の才能があるんじゃないかって」


「はぁ? 俺が? 急に何を言い出すんだか」 

 また、訳のわからないことを。


 意外すぎる指摘に、俺は思わず足を止めそうになる。

 けれど彼女は、確信に満ちた──あるいは、自分だけがその甘露を知っているのだという、熱を帯びた瞳で俺を見つめるんだ。

 女たらしだなんて、冗談じゃない。


「だって、たまにびっくりするくらいスマートに殺し文句を言うんだもの。さっきの『美人だなあ』だって……あれ、本気で言ってるんでしょう?」

 

「あのなぁ。それくらい、君の顔を見た奴なら皆、当然のように思うだろ。俺が特別なことを言ったつもりはないよ」

「そういうことじゃないの。……もう」

 もどかしそうに膨れる彼女に、俺は少しだけ茶化すように言葉を継いでみる。


「じゃあ、『可愛い』に言い直そうか? それならいいのか?」

 

「……っ! それも一緒よ。……っていうか、余計に(たち)が悪いわ」

「そうかな。君の傍に居れたら、誰だって自然に口から出ると思うけど」

 

「そ、そういうストレートなところがダメなの! 私じゃなかったら今ごろ、みんなあなたの腕の中に落ちてるわよ?」


 必死に抗議する彼女。

 その瞳があまりに真剣で、堪らなく愛おしくて。

 灰色のレンズの向こうで狼狽える君を見ていると、俺はついつい苛めたくなってしまうんだ。

 これはもう、俺の(さが)みたいなものだと思う。

 だから、どうか許してほしい。


「……え? 葵さんは、まだ落ちてなかったの?」

「っ!! ほ、ほら! そういうところよ!!」

「ああ、悲しいなぁ。さっき『俺の』って言ってくれたのになあ」

「ああん、もうっ!」

  

 葵さんは再び、顔から火が出そうなほど真っ赤になり、俺の腹に優しく拳を突き立てる。ポカポカと。

 これが、ちっとも痛くない。

 あー、この人、本当にあの人気上昇中のモデル『MINA』なんだろうか。

 最近、俺の中ではその疑惑が深まるばかりなんだ。実は経歴を詐称している別人なんじゃないか……? 或いは姉妹?

 そう疑いたくなるほど、今の彼女は隙だらけ。そして無防備なんだ。


「……お、落ちてるわよ。とっくに」


「え? 何て言った?」

「……っ、もう知らない! 蒼くんのバカ! ふんっ、先に行くから!」


 彼女は握っていた俺の袖を離すと、羞恥を振り切るようにして、レストランのある翠の小道へと小走りで行ってしまう。

「ちょっと待って、今のは本当に聞こえなかったんだって!」


 慌てて追いかけるが、彼女は振り返らない。

 ……ったく。あんな風に俯いて小さく呟かれたら、聞こえるわけないだろうに。

 揺れるストライプのシャツの裾。

 その必死な逃げ足さえも、今の俺にはたまらなく愛らしく見えた。

 

「でも、私……そういう蒼くん、好きかも……」

 風に乗って、また消え入りそうな呟きが届く。


「…………」

 まいったな。

 それは、ばっちり聞こえてるんだけど。

 

 あの九条 葵(MINA)が、代官山の片隅で、ただの男子高校生に「好きかも」と敗北宣言を漏らしている。

 その事実に、俺の胸の奥は五月なんて目じゃない。夏の盛りの陽光よりも熱い、誇らしい何かで満たされていた。


 君も、大概だと思うよ。本当に。


 逃げた君を追う。

 ああ、なんて楽しいんだろう。


 葵さん。知ってるかい?

 俺が欲しいのは、この世界で唯一人、君だけなんだ。だから君が心配するような『才能』なんて、俺には必要ないんだよ。

 

 * * *


 カラン、と。

 乾いたドアベルの音が、連休の、どこか間の抜けた午後の静寂に波紋を広げる。

 レンガ造りの外壁を撫でて吹き込む五月の風は、新緑の瑞々しい香りを運ぶ。


 空はどこまでも高く、風はこれ以上なく澄んでいる。

 世界がこれほどまでに輝いているというのに、私の心には鉛のような影が落ちたまま、ちっとも晴れる兆しを見せない。


「いらっしゃい、吉岡先生」


 カウンターの奥から、低く落ち着いた店主の声が届く。

 私は、眩しすぎるリバービューが自慢のテラス席を避けるように、あるいは縋れる話し相手を求めるように、カウンターの端の席へと滑り込んだ。


「……先生はやめてちょうだい。今日はただの、一人の女よ。八雲さん」


 バッグを隣の椅子に置き、吐き出したため息の重さに自分でも閉口する。

 居なくなった水無月くんを捜してこの店に通い詰めるうちに、いつの間にか私自身が、この静かな空間の住人になってしまっていた。


「お疲れのようだね。……今日は少し、深煎りにしようか」

 

 八雲さんは微かに微笑むと、多くを語らずにドリッパーを準備し始めた。

 あの子たちを守るため。

 退学という名の破滅から遠ざけるため。

 それが正義だと信じ、私は教育者として、あの子たちの()に最も残酷な呪いを突きつけてしまった。


『愛し合うな』という、重い鎖を。


「……私、酷い女よね、八雲さん。あの子たちの未来のためなんて、もっともらしい理屈を並べて。その実、一番残酷な言葉で彼らの()を縛り付けているんだから」


 独白は、立ち上がる珈琲の湯気に溶けて、形を失っていく。


「『人が人を好きになる。……それは本来、とても素晴らしいことなのよ』あの子たちの前でそんな綺麗事を並べてきた口で、『愛し合うな』だなんて。どの口が言うのかしらね、私は」


 自嘲気味に歪めた唇に、八雲さんは穏やかな、けれどどこか峻烈な視線を向けた。


「俺は、そうは思わないな」


「え……?」


 意外な言葉に顔を上げると、八雲さんは丁寧にドリップした珈琲を私の前に置き、静かに言葉を続けた。

 それは、私の凍てついた心に楔のように打ち込まれる、大人の言葉だった。


「あいつには、親がいない。……それは、あいつの側に立って、泥を被ってでも『大人として正しく導く言葉』を投げてくれる人間が、他にいないということだ」


 八雲さんの言葉が、ゆっくりと、けれど確実に私の胸に染み入っていく。


「綺麗事だけで生きていけるほど、この世界は優しくない。あの子たちの今を肯定するのは簡単だ。けれど、誰かがその未来の責任を背負わなきゃならない。君が憎まれ役を買って出たのは、二人を本当の意味で見捨てていない証拠だろう?」


 八雲さんは手を休めることなく。

 けれどその声には、優しい肯定が宿っていたように思う。

 

「ええ……。そう、ありたいと思うわ……」

「なら、それでいいのさ。……自分を責めるのはもうおしまいだ。せっかくの美人が台無しだよ」


「……なっ」

 不意打ちのような言葉に、顔がカッと熱くなる。


 さっきまでの、胸を刺すような自責の念。それが、彼の軽妙な一言で、どこか遠い場所へ追いやられていく。

 教育者の仮面が剥がれ、一人の女性として揺さぶられてしまうだなんて。


 カップに満ちた、黒い液体の水面のように。

 私の頑なな輪郭が、いま、ひどく頼りなく揺れている。


「八雲さん、あなたね……。そういうところ、あの子──水無月くんにうつさないでよ? ただでさえ、最近は女子の間で人気があるみたいで心配なんだから」


 ただ、真っ直ぐに。

 世界を射抜くあの子の眼差し。その切っ先が、こんな『師匠』に磨かれたものだとしたら、あまりに業が深すぎるわよ。


「はは、……そればっかりはもう、手遅れかもしれないな」

「ど、どういうこと?」

「あー。この前も、九条ちゃんに一人で、一生懸命作ったパフェをプレゼントしていたようだしね……なかなか、様になってた」


「え? ちょっと、やめてよ、もう……」


 私は呆れたように溜息をつき、冷めかけた珈琲に口をつけた。

 店内に流れる静かなジャズと、漂う焙煎香。

 私の心に突き刺さっていた『愛し合うな』という棘は、いつの日か、あの子たちを守る盾へとなりますように。


 五月の風が、対岸の緑を揺らす。

 多摩川のほとりから、願いを込めて。

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