第91話 多摩川沿いの師弟
「も、もうお終い。外だから、ね?」
腕の中から、熱を帯びた葵さんの声が漏れる。
名残惜しさを指先に残しながら、ゆっくりと腕を解く。灰色のレンズ越しに見る君の整った顔は、いまにも火を噴きそうなほどに赤く染まっていた。
そう。誰よりも綺麗で、完璧な君は。
意外なほど、照れ屋さんだ。
これも──たぶん。俺しか知らない九条 葵の本当の顔。
「わかったよ。名残惜しいけど仕方がない」
彼女は乱れた服装を整えるふりをして、所在なげに視線を泳がせる。
新緑を抜ける心地よい風が、俺たちの間に残った熱を攫っていこうとするけれど。一度高まったこの火照りは、なかなか静まってはくれそうにない。
再び歩き出すこと数歩。
葵さんが、何かに耐えるような、あるいは自分の中の不安を押し殺すような、複雑な表情でポツリとこぼした。
「……ねえ。私、少し心配になってきたのだけど」
「何を?」
「ほら、吉岡先生も言ってたでしょう? 『君の将来が心配だわ』って。……今なら、先生の言っていた意味がよく分かる気がするのだけど」
「ああ、あったね。俺だけきつく叩かれたときのことか」
先生の、あの痛すぎるほどの愛を思い出して苦笑いする俺に、葵さんは、
「違う、そうじゃないのよ」
と、もどかしそうに首を振った。
「そうじゃなくて。蒼くん、あなた……ひょっとしたら、とんでもない『女たらし』の才能があるんじゃないかって」
「はぁ? 俺が? 急に何を言い出すんだか」
また、訳のわからないことを。
意外すぎる指摘に、俺は思わず足を止めそうになる。
けれど彼女は、確信に満ちた──あるいは、自分だけがその甘露を知っているのだという、熱を帯びた瞳で俺を見つめるんだ。
女たらしだなんて、冗談じゃない。
「だって、たまにびっくりするくらいスマートに殺し文句を言うんだもの。さっきの『美人だなあ』だって……あれ、本気で言ってるんでしょう?」
「あのなぁ。それくらい、君の顔を見た奴なら皆、当然のように思うだろ。俺が特別なことを言ったつもりはないよ」
「そういうことじゃないの。……もう」
もどかしそうに膨れる彼女に、俺は少しだけ茶化すように言葉を継いでみる。
「じゃあ、『可愛い』に言い直そうか? それならいいのか?」
「……っ! それも一緒よ。……っていうか、余計に質が悪いわ」
「そうかな。君の傍に居れたら、誰だって自然に口から出ると思うけど」
「そ、そういうストレートなところがダメなの! 私じゃなかったら今ごろ、みんなあなたの腕の中に落ちてるわよ?」
必死に抗議する彼女。
その瞳があまりに真剣で、堪らなく愛おしくて。
灰色のレンズの向こうで狼狽える君を見ていると、俺はついつい苛めたくなってしまうんだ。
これはもう、俺の性みたいなものだと思う。
だから、どうか許してほしい。
「……え? 葵さんは、まだ落ちてなかったの?」
「っ!! ほ、ほら! そういうところよ!!」
「ああ、悲しいなぁ。さっき『俺の』って言ってくれたのになあ」
「ああん、もうっ!」
葵さんは再び、顔から火が出そうなほど真っ赤になり、俺の腹に優しく拳を突き立てる。ポカポカと。
これが、ちっとも痛くない。
あー、この人、本当にあの人気上昇中のモデル『MINA』なんだろうか。
最近、俺の中ではその疑惑が深まるばかりなんだ。実は経歴を詐称している別人なんじゃないか……? 或いは姉妹?
そう疑いたくなるほど、今の彼女は隙だらけ。そして無防備なんだ。
「……お、落ちてるわよ。とっくに」
「え? 何て言った?」
「……っ、もう知らない! 蒼くんのバカ! ふんっ、先に行くから!」
彼女は握っていた俺の袖を離すと、羞恥を振り切るようにして、レストランのある翠の小道へと小走りで行ってしまう。
「ちょっと待って、今のは本当に聞こえなかったんだって!」
慌てて追いかけるが、彼女は振り返らない。
……ったく。あんな風に俯いて小さく呟かれたら、聞こえるわけないだろうに。
揺れるストライプのシャツの裾。
その必死な逃げ足さえも、今の俺にはたまらなく愛らしく見えた。
「でも、私……そういう蒼くん、好きかも……」
風に乗って、また消え入りそうな呟きが届く。
「…………」
まいったな。
それは、ばっちり聞こえてるんだけど。
あの九条 葵が、代官山の片隅で、ただの男子高校生に「好きかも」と敗北宣言を漏らしている。
その事実に、俺の胸の奥は五月なんて目じゃない。夏の盛りの陽光よりも熱い、誇らしい何かで満たされていた。
君も、大概だと思うよ。本当に。
逃げた君を追う。
ああ、なんて楽しいんだろう。
葵さん。知ってるかい?
俺が欲しいのは、この世界で唯一人、君だけなんだ。だから君が心配するような『才能』なんて、俺には必要ないんだよ。
* * *
カラン、と。
乾いたドアベルの音が、連休の、どこか間の抜けた午後の静寂に波紋を広げる。
レンガ造りの外壁を撫でて吹き込む五月の風は、新緑の瑞々しい香りを運ぶ。
空はどこまでも高く、風はこれ以上なく澄んでいる。
世界がこれほどまでに輝いているというのに、私の心には鉛のような影が落ちたまま、ちっとも晴れる兆しを見せない。
「いらっしゃい、吉岡先生」
カウンターの奥から、低く落ち着いた店主の声が届く。
私は、眩しすぎるリバービューが自慢のテラス席を避けるように、あるいは縋れる話し相手を求めるように、カウンターの端の席へと滑り込んだ。
「……先生はやめてちょうだい。今日はただの、一人の女よ。八雲さん」
バッグを隣の椅子に置き、吐き出したため息の重さに自分でも閉口する。
居なくなった水無月くんを捜してこの店に通い詰めるうちに、いつの間にか私自身が、この静かな空間の住人になってしまっていた。
「お疲れのようだね。……今日は少し、深煎りにしようか」
八雲さんは微かに微笑むと、多くを語らずにドリッパーを準備し始めた。
あの子たちを守るため。
退学という名の破滅から遠ざけるため。
それが正義だと信じ、私は教育者として、あの子たちの今に最も残酷な呪いを突きつけてしまった。
『愛し合うな』という、重い鎖を。
「……私、酷い女よね、八雲さん。あの子たちの未来のためなんて、もっともらしい理屈を並べて。その実、一番残酷な言葉で彼らの今を縛り付けているんだから」
独白は、立ち上がる珈琲の湯気に溶けて、形を失っていく。
「『人が人を好きになる。……それは本来、とても素晴らしいことなのよ』あの子たちの前でそんな綺麗事を並べてきた口で、『愛し合うな』だなんて。どの口が言うのかしらね、私は」
自嘲気味に歪めた唇に、八雲さんは穏やかな、けれどどこか峻烈な視線を向けた。
「俺は、そうは思わないな」
「え……?」
意外な言葉に顔を上げると、八雲さんは丁寧にドリップした珈琲を私の前に置き、静かに言葉を続けた。
それは、私の凍てついた心に楔のように打ち込まれる、大人の言葉だった。
「あいつには、親がいない。……それは、あいつの側に立って、泥を被ってでも『大人として正しく導く言葉』を投げてくれる人間が、他にいないということだ」
八雲さんの言葉が、ゆっくりと、けれど確実に私の胸に染み入っていく。
「綺麗事だけで生きていけるほど、この世界は優しくない。あの子たちの今を肯定するのは簡単だ。けれど、誰かがその未来の責任を背負わなきゃならない。君が憎まれ役を買って出たのは、二人を本当の意味で見捨てていない証拠だろう?」
八雲さんは手を休めることなく。
けれどその声には、優しい肯定が宿っていたように思う。
「ええ……。そう、ありたいと思うわ……」
「なら、それでいいのさ。……自分を責めるのはもうおしまいだ。せっかくの美人が台無しだよ」
「……なっ」
不意打ちのような言葉に、顔がカッと熱くなる。
さっきまでの、胸を刺すような自責の念。それが、彼の軽妙な一言で、どこか遠い場所へ追いやられていく。
教育者の仮面が剥がれ、一人の女性として揺さぶられてしまうだなんて。
カップに満ちた、黒い液体の水面のように。
私の頑なな輪郭が、いま、ひどく頼りなく揺れている。
「八雲さん、あなたね……。そういうところ、あの子──水無月くんにうつさないでよ? ただでさえ、最近は女子の間で人気があるみたいで心配なんだから」
ただ、真っ直ぐに。
世界を射抜くあの子の眼差し。その切っ先が、こんな『師匠』に磨かれたものだとしたら、あまりに業が深すぎるわよ。
「はは、……そればっかりはもう、手遅れかもしれないな」
「ど、どういうこと?」
「あー。この前も、九条ちゃんに一人で、一生懸命作ったパフェをプレゼントしていたようだしね……なかなか、様になってた」
「え? ちょっと、やめてよ、もう……」
私は呆れたように溜息をつき、冷めかけた珈琲に口をつけた。
店内に流れる静かなジャズと、漂う焙煎香。
私の心に突き刺さっていた『愛し合うな』という棘は、いつの日か、あの子たちを守る盾へとなりますように。
五月の風が、対岸の緑を揺らす。
多摩川のほとりから、願いを込めて。




