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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第90話 灰の帳に漏れた、君の所有権

 胸の奥に灯った温かな光を噛みしめながら、息を吐いて切り替える。

 今度は、俺が君の『盾』を選ぶ番だよな。


「俺はこれにするとして……次は、九条さんの番だね」


 気恥ずかしさを隠すように声をかけると、彼女は、

「選んでくれるの?」

 と弾んだ声で頷き、軽やかな足取りでレディースの棚へと向かった。

 その後ろ姿は、隠しきれない喜びがそのまま形になったようで、なんとも可愛らしい。


 ずらりと並んだ多種多様なフレーム。

 九条さんはいくつかのサングラスを手に取ると、慣れた手つきで次々と試着していく。

 大きなキャッツアイ。

 エッジの効いたウェリントンも。

 モデルとして活動する彼女は、どんなに個性的なデザインでも、驚くほど自然にモノにしてしまうから恐れ入る。

 その天性の才能には、改めて感嘆の息が漏れる。


「どうかな、これは少し派手すぎるかしら?」


 彼女が選んだのは、目元を大きく覆うビッグシェイプのサングラスだった。小さな顔がさらに強調され、まるで芸能人がお忍びで街を歩いているような、圧倒的な華がある。正直めちゃくちゃ似合っている。

 似合ってはいるのだが。


「……うん、すごく似合ってる。でも……」

「でも?」

「似合い過ぎてて、逆に目立ちそう。一応変装……なんだろ?」

 俺が苦笑いしながら指摘すると、彼女は「あ……」と声を漏らし、鏡の中の自分を見て小さく舌を出した。


「そうだったわ。……ついつい」

「はは、気持ちはわかるよ。楽しいよな」

 

 九条さんは少しだけ照れたように笑うと、今度はより日常に溶け込むものを探し始めた。俺はそんな彼女の横に立ち、棚の奥にある一本に手を伸ばす。


「俺は、こっちがいいと思う」

 差し出したのは、クラシックな柔らかさを持つ、ラウンドのボストン。


「ほら、これならさっきのより落ち着いてるし。レンズが大きめだから、小さな顔がさらに小さく見えて可愛いと思う。レンズも俺と同じ灰色だしさ」 

「それにするわ!」


「はは、決めるのが早いって。とりあえず掛けてみなよ」

 俺が窘めるのも聞かず、彼女の瞳はもう決まりだと言わんばかりにランランと輝いている。


「ううん、もうそれがいい。あなたが私に選んでくれたんだもの」


 彼女は俺から受け取ったボストンを、ゆっくりと耳にかけた。

 先ほどまでの圧倒的なオーラは影を潜め、代わりに、どこか知的で柔和な美しさが滲みだしてくる。


 灰色のレンズ越しに俺を見つめる、彼女。

 突如として網膜に降り注ぐ、純度の高い幸福。その淑やかな佇まいに、俺はつい本音を零してしまう。


「……改めて。君は本当に、美人だなあ」

「なっ……」


 彼女は恥ずかしさを誤魔化すように視線を泳がせるけれど、その口元は隠しきれない幸福感で緩んでいる。

 お揃いの、灰色の視界。

 鏡の中には、同じトーンのレンズを纏った俺たちが、寄り添うように並んでいて。


 ──その一瞬の光景を。

 このまま世界から切り取って、どこか遠くへ持って帰りたくなる。

 だめだ、だめだ。さすがにおセンチがすぎる。

 

「じゃあ、会計してくるよ」

「え、どうして? そんなのダメよ」


「いいんだよ。これからも二人で街を歩くのに必要だろ。それに、これで君の名前を堂々と外で呼べるなら安いもんだ」

「……ありがとう、一生、大切にするわね」


「はは。一生は大げさだろうに。消耗品なんだからさ」

 俺の現実的なツッコミに、彼女は「もう、そういうことじゃないのよ」と可笑しそうに肩を揺らしていた。


 店を出ると、初夏の陽光がレンズに反射して白く弾けた。

 お揃いの色のサングラスという『仮面』を手に入れたことで、周囲の視線から透明な壁で守られているような、妙な万能感が胸に宿る。


 隣を歩く彼女が不意に足を止め、俺の正面に回り込んだ。

 灰色のレンズ越しに視線が重なる。

 表情が読み取りにくい『仮面』の裏側で。彼女が不敵に、そしてこの上なく愛らしく微笑む気配がした。


「では、改めて。……蒼くん!」

「あ、ああ」

「ん? 聞き違いかな? 『ああ』って何かなー」

 彼女は少し首を傾げ、覗き込むように顔を寄せてくる。

「あれあれー?」

 

「な、なんだよ」

「折角サングラスを買ったのに?」

 ずずいと身を寄せる、君がいる。


「何のために買ったのかなー?」


 目の前に小悪魔がいる。

 レンズの奥で瞳を揺らす、憎たらしいほど綺麗な小悪魔が。


 あれから、彼女の名前を呼んだのは二度や三度どころではない。

 随分と慣れ始めてはいたはずの名。だけど、こうして正面から「さあ呼んで」と待ち構えられてしまうと、話は変わる。


 それはまるで、一生消えない誓いを立てさせられるような、妙な儀式めいた気恥ずかしさを伴っていたから、余計だ。

 俺は視線を誤魔化すようにサングラスの縁を直し、羞恥を強引に飲み込んで、その名前を口に乗せた。


「……あ、葵さん」


 自分でも驚くほど、声が微かに上ずった。すると彼女は、満足げに胸を張り、勝ち誇ったように言い放つ。


「ふふん、そうだぞ。……君の、葵さんだ」


「え? ……俺の?」

 思わず、間抜けな声で聞き返してしまった。

『俺の葵さん』その二文字が持つあまりに重く、甘い響きに。心臓が荒れ狂う。

 

「ああ、そうだぞ」

 

 二度も、明確に告げられた肯定。

 いつもより少し強気で、聞いたことのない挑戦的な口調。これが変装という仮面がもたらす解放感なのだろうか。

 だめだ。このままじゃ、俺の心臓が持たない。

 

 レンズに隠されているのをいいことに、君はやりたい放題だから。

 だったらいっそ、この灰色の結界を俺だって利用してやる。


「俺のなら。どう扱っても、俺の自由だよな?」

「な、何を?」


 彼女が虚を突かれたように瞬きをした隙に、俺は一歩踏み込み、その細い腰を正面から抱き寄せた。


「え、ちょっ……、蒼くん!?」


 腕の中で、彼女の細い身体がびくりと跳ねる。

 ストライプシャツの柔らかな布地越しに、驚きに跳ね上がる鼓動がダイレクトに伝わってきたけど、まだやめてあげない。

 まだ、離してもあげない。これは俺を煽った罰だ。


「どうした? 俺のなんだろ?」


 灰色の帳が、俺に身の程知らずな勇気を与えてくれる。

 レンズ一枚隔てているだけで、外界はまるで映画のセットのように遠のき、俺たちとは無関係な背景へと成り下がるんだな。

 腕の中にある君の熱量だけが、この世界で唯一の、確かな現実。

 

「そ、そうだけど……っ、でも、ここ外よ!? 人が見てるから……っ」

「さっきの不敵なキャラはどこへ行ったんだ?」

「うう……あれは……」

 

 葵さんは俺の胸元に顔を埋めるようにして、消え入りそうな声で抗議する。一生懸命に可愛らしく抗議している。

 灰色のヴェールの裏側で、彼女の首筋までもが林檎のように真っ赤に染まっていくのを見守りながら。


「誰も俺たちには気づかない。サングラスを買ったのは、そのためだろ?」

「──っ、もう……ずるい、わ……」

 

 観念したように、彼女の指先が俺の背中に回される。

 服の布地をぎゅっと掴むその感触こそが、俺を心の底から受け入れてくれた何よりの証拠。


 灰色のレンズが切り取った世界の中で。

 俺はただ、腕の中にあるこの確かな重みを、壊さないように抱きしめ続ける。

 これからも、これから先も。

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