第89話 萬葉の栞、葵(あふひ)の約束
他の女性の影を、君に見た。
そう思わせてしまったのだとしたら、どちらにしろ俺は平謝りするしかない。
あれはたしかに、幻のように朧ではあったけれど。
見たことに変わりはないのだから。
なら、今は目の前で拗ねたように唇を尖らせている彼女に、精一杯の誠実さを向けるべきだろう。
君はしばらくの間、少し大げさに不満を露わにしていたけれど。やがて俺の必死な様子に根負けしたように、くすりと小さく吹き出してくれたから。
その柔らかな吐息を聞いて。
俺はようやく胸を撫で下ろすことができたんだ。
「ふふっ……もういいわよ。少しだけ、そんな気がしただけだから。……そうだ。これ、蒼くんに受け取ってほしいのだけど」
彼女はそう言って、先ほどまで文庫本に挟まっていた、あの奥ゆかしい和紙の栞をそっと取り出す。
「もっと大切な……二人の色の栞ができたから。ほら、蒼と葵……共に『アオ』を連想させると思わない?」
その言葉に、俺の脳裏にはいつかの、表参道で二人で見上げたあのビルの景色が鮮やかに蘇った。
「ああ、あのビルを見上げた時もそういう話をしたよな。なんだか、また少し『くすぐったい』気がしてきたよ。はは」
「ふふ、そうね。あの時、水無月くんも同じことを思ってるんだって知って、とても嬉しかったのよ」
あの日、黒縁の伊達メガネの奥で可愛らしく目を細めていた時と同じ、混じりけのない微笑み。
彼女は手元にある青の栞に視線を落とし、慈しむように言葉を続ける。
「だから……それでね。私が今まで使っていたもので申し訳ないのだけど。これ、とても気に入っていたから。もし蒼くんが使ってくれるなら、嬉しいな、なんて」
少しだけ照れたように微笑みながら差し出された、生成り色の和紙の栞。
受け取ろうと手を伸ばした際、指先がわずかに俺の掌に触れる。
初夏の柔らかな空気とは裏腹に、驚くほど熱を持っているその指先の温度に気づいて──俺は無意識に、その細い手を緩く握りしめていた。
「あ……」
葵さんが小さく声を漏らし、動きを止める。
琥珀色の光に照らされた瞳が驚きに揺れ、耳元から頬、そして首筋までが、夕焼けを写したように一気に赤く染まっていく。
握った手から伝わってくる、彼女の激しい拍動。
「本を読むときに、大切に使わせてもらうよ。ありがとう、葵さん」
「ふふ、本当? ……良かった」
彼女は少しだけ力を込めて、俺の指を数本、そっと握り返してくれた。
ストライプのシャツが、彼女の幸せそうな溜息に合わせてふわりと揺れる。
それから、名残惜しさを分かち合うようにして受け取った古風な栞。俺は初めて、そこに記された和歌の調べを知ることになる。
「梨、棗……何て読むんだ、これ」
「梨棗黍に粟嗣ぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く、万葉集の歌よ」
「へえ、君の名前が一文字入ってるんだね」
「ええ、そうなの。葵は、逢う日との掛詞なのよ」
「そうか。なら、なおさら大切にしないとな」
「絶対によ? もし失くしたりしたら……そうね、たとえ蒼くんであっても、私……許さないかも」
冗談めかして言った彼女の指先が、俺のブルゾンの袖を強く握りしめる。
そのわずかな力のこもり方に、彼女がこの名前の入った栞を俺に託した本当の重みが、静かに伝わってくる。
葵花咲く、か。
流石に万葉集の歌の一つひとつまでは詳しくない。
けれど、その古めかしい文字の羅列の中に、彼女の名前である『葵』が刻まれている。ただそれだけで、この紙片がひどく尊いものに思えた。
……きっと俺は、いつかこの歌の本当の意味を調べるんだろうな。
「せっかくの初デートだからさ、本屋だけで終わるのは勿体ないし、他にも色々見ていかないか」
「ええ、賛成。……私ももう少し、水無月くんと、色々と見て回りたいと思っていたところよ」
琥珀色の静寂を後にして外へ出ると、テラスの向こうには五月の鮮やかな新緑が広がっていた。先ほどまで握り合っていた手のひらに、まだ彼女の温もりが残っているような気がして。
俺はそれを逃さないように、そっと指先を丸めた。
皮肉なものだ。
高まりかけた情愛が、吉岡先生との約束を鮮明に呼び覚ます。
「……学校はしょうがないとして、外でも不用意に名前で呼ぶのは、やっぱりまずいのかな」
想い合う仲での同棲が露見すれば、即退学。
『今はまだ愛し合わないで』
それは、俺たちの居場所を守るために先生が絞り出した、苦肉の防波堤。
感謝の中に紛れ込ませた、俺なりの不満と危惧。
それを聞いた彼女はふと足を止めると、あえて挑戦的な笑みを浮かべ、俺の腕に自分の腕を力強く絡めてきた。
「それを考えだしたら、私、もう腕も組めないじゃない……。そんなの嫌よ。なんの楽しみもないわ」
「……楽しみって」
「なによ、変?」
彼女は俺の二の腕をぎゅっと抱き寄せ、上目遣いに覗き込んできた。
あえて裾を出したシャツが、密着した俺たちの間でくしゃりと音を立てる。その柔らかな感触に、俺の理性がまた少し削り取られていく。
「変じゃないけど。……先生に釘を刺されたばかりだろ。しかも、自分の首を賭けてまでああ言ってくれたんだ」
「わかってるわよ。私も約束したもの……でも、あ、ちょっと待って」
彼女の視線の先には、アイウェアが並ぶセレクトショップがあった。
ショーウィンドウが初夏の陽光を跳ね返し、スタイリッシュなサングラスたちがギャラリーの展示品のように並んでいる。
「……いいこと、思いついたわ」
「いいこと?」
「そう。外で名前を呼べないのも、腕を組むのが怖くなるのも。全部、私たちだと気づかれるのがいけないのでしょう? だったら」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、俺の腕を引いて店内に足を踏み入れる。
こういう時の、迷いのない行動力はピカイチだ。
「これでお互いに変装しちゃえば、いいじゃない。誰にも文句は言わせないわ」
店内は、外界の喧騒を遮断したような静かさ。
九条さんは慣れた手つきで、少し大きめのフレームをいくつか手に取ると、吟味するように俺の顔に近づける。
「水無月くん、これなんてどう? 少し大人っぽくて、あなたのクールな雰囲気にとても似合いそうよ」
「え、俺ってクールなの?」
「なによ今更。そんなことも自覚してなかったの?」
彼女は心底意外そうに目を丸くすると、こらえきれないといった様子で可笑しそうに肩を揺らした。
「はあ……自覚がないって、時々怖いわね。いいから、ほら、掛けてみて」
彼女に促されるまま、俺は一本のサングラスを鼻に乗せる。
視界がふっと落ち着いたトーンに落ち、外の世界との間に薄い壁ができたような、不思議な安心感に包まれた。
「……どうかな」
俺が正面を向くと、九条さんは一瞬だけ、息を呑むように動きを止めた。
「……っ、かっこいいわ。やっぱり、思っていた通りね」
モデルとして数え切れないほどの美形を見てきたはずの彼女が。
嫌というほど整った顔を見慣れているはずの君が。
間近で、俺という存在に見惚れている? その熱っぽい視線が、レンズ越しでも痛いほどに伝わってくるけど、そんなことありうるのだろうか。
それほどのものか?
鏡に映る、見慣れないこの自分が。
「かっこいいって、はは、それは大げさだよ」
「あら、本当よ。高階さん以外、学校のみんなは本当に見る目がないんだから。……ずっとそう思ってたのは、内緒にしておいてね。ふふ」
もう、何も言えなくなる。
想い人に全てを肯定される。
これほどまでに満たされる瞬間が、他にあるだろうか。
「……ねえ、それ、すごく似合ってるわよ」
彼女は誇らしげに胸を張り、くすくすと楽しそうに笑った。
俺の良さを知っているのは、あのランチグループの高階さんと、そして自分だけ。そう言いたげな彼女の瞳は五月の陽光よりも眩しく輝いている。
やっと見つけた、僕だけの恒星。
父さん、母さん。
俺はもう、大丈夫だ。
~あとがき~
葵が語った『葵』の掛詞。実はこれ、第1話のあるシーンと対になっています。もしお時間があれば、ぜひあの日の授業を読み返してみてください。
彼女の『献身』の本当の意味が、少しだけ違って見えるかもしれません。




