第88話 嘘と真実
階段を上がり、重厚な革張りのソファが並ぶラウンジへと戻る。
視界の先に、彼女がいる。ただそれだけで、そこが俺の居るべき場所なのだと本能が理解する。
琥珀色の照明が落とされた空間は、階下の賑わいが嘘のように静謐で、仄かに漂う珈琲の香りが、少し早くなっている俺の心拍数を優しくなだめてくれる気がした。
──気がしたのだけど、いざ彼女を目の前にすると、このあまりの静けさがかえって仇となる。
ひそひそと交わす言葉のすべてが、澄んだ空気に溶けて周囲の客に筒抜けになってしまうような気がして。
さっきとは別の、むず痒いような恥ずかしさが込み上げてくる。
あー、後にすべきか? いや、でも。
あの青い栞を熱心に見つめていた彼女の、その喜ぶ顔を一秒でも早く見たいという衝動には勝てそうにないほど、最近の俺は君に夢中だった。
よし。いけ、蒼。迷うな。
小さく息を吐き、己に喝を入れる。
そうして彼女の正面……ではなく、彼女が座る革張りのペアソファのすぐ隣へと腰を下ろした。
「……っ」
不意に隣を占められた彼女が、驚いたように髪を揺らした。
最初に来た時は、無意識に安全な対面を選んでしまった。けれど、彼女が数ある席の中からこのペアソファをわざわざ選んだ理由。その隠された望みは、本当はここにあったんじゃないか……。
独りよがりかもしれないけれど、今は信じてみたかった。
「おかえりなさい、水無月くん……。急に、どうしたの?」
少しの困惑と、それ以上の期待を滲ませて、俺を見つめる葵さんがいる。
「同学の人はいなさそうだから、……いまだけ、いいかな。葵さん」
周囲の視線を警戒しながら、一際声を落として呼びかける。
本を閉じた彼女が、少し不思議そうに、けれど慈しむような瞳で俺を捉えた。
「う、うん……いいよ、蒼くん」
肩が触れそうなほどの距離、ではない。
あえて、触れさせる。俺がそうしたいから、そうする。
そこから伝わってくる彼女の体温と、俺の好きな甘い香りに目眩がしそうになるのを堪え、俺は他人の耳に届かないよう更に声を落として、小さな包みを差し出した。
「これ……。初デートの記念だよ。あと、いつものお礼も兼ねて。ありがとう」
彼女の目が見開かれ、吸い寄せられるようにその包みを受け取った。
白く細い指先が、微かに震えているような。
そうして、信じられないほど丁寧にリボンが解かれ、中からあのステンドグラスの栞が現れたとき。
「──っ、わあ……!!」
静謐すぎるラウンジに、彼女の弾んだ歓喜の声が響き渡る。
「素敵……! 本当に、貰ってもいいの!? 嬉しい、蒼くん、私──」
そこまで言って、彼女はハッと息を呑み、慌てて口元を両手で押さえる。
周囲の客数名が、穏やかな読書の手を止めて、生温かい微笑みをこちらに向けている。
彼女は一瞬で耳の先まで真っ赤に染めると、周囲にぺこぺこと小さく頭を下げた。そのまま俺の耳元に顔を寄せるようにして、消え入りそうな声で囁く。
「……大きな、声、出ちゃった……」
縋るような、潤んだ大きな瞳。
普段は完璧な『高嶺の花』として隙のない彼女が、今は防備を完全に解いている。そのギャップが、俺の心拍を一段と激しく跳ね上がらせるんだ。
「……うん。出ちゃったね」
「ごめんなさい。でも、あまりに嬉しくて……我慢できなかったの」
彼女は再び、手元の青い栞を愛おしそうに見つめている。
ラウンジの光を透かしたその蒼が、彼女の潤んだ瞳の中で、先ほど見たあの神秘的な燐光のように揺らめいている。
その光があまりに綺麗で。
俺は無意識に、磁石に引き寄せられる鉄のように、彼女の顔へと自分の顔を近づけていた。
お互いの吐息が、琥珀色の空気の中で混じり合うほどの距離。
「……っ、な、なに……?」
葵さんは照れたように顔を背ける。その拍子に、さらりと流れた髪の間から、さっきから熱を持ったまま真っ赤に染まっている彼女の小さな耳が覗く。
潤んだ瞳が激しく泳ぎ、震える唇から消え入りそうな声が零れ落ちる。
「……蒼くん、そんな急に……。もしかして、なにか、したいの……?」
なにか、って何だよ。
あまりに直球な、けれど期待と不安が入り混じったようなその問いかけに、俺は一瞬だけ思考が真っ白になってしまう。
至近距離で見つめる彼女の肌は陶器のように滑らかで。そこから立ち上る甘い香りが、俺の理性をじりじりと音を立てて削っていく。
正直に言えば、平常心なんてとっくにどこかへ放り出していた。
したいかしたくないかで言えば、そりゃあ、したいさ。むしろ、今すぐこのまま彼女を抱き寄せてしまいたいという衝動と、必死に戦っている最中なのだから。
けれどな。今はそれ以上に、俺の目を奪って離さないものがあった。
それを、今確かめなければならない。
降って湧いたような、逃れられない強迫観念。
「……あ、いや、違うんだ。そうじゃなくて」
俺は慌てて心臓の鼓動を抑え込み、逃げる彼女の視線を追いかけるようにして、その瞳の奥をじっと覗き込んだ。
綺麗だ、美しい。あまりに澄んでいる。そんな感傷は、後でいい。
恋心による熱狂を、冷徹なまでの探究心が初めて上回る。
──けれど。
そこに望んだ『碧』は、なかった。
至近で見た彼女の瞳は、吸い込まれるような、どこまでも深い漆黒。
光を撥ね退けるようなその意志の強い黒色の中に、さっき見えたはずの神秘的な青き輝きは、欠片も見当たらない。
「さっき、ほら、太宰のところでさ。一瞬だけ、君の瞳が……青く光った気がしたんだ。……でも、気のせいだったみたいだ。ごめん、驚かせて」
そう言って、わずかに身を引くと。
彫像のように白く、凍りついた横顔。その表情から一瞬だけ体温が消えたように見えたのは──これも、俺の気のせいなんだろうな。
存外、頼りにならない俺の目。
彼女は次の瞬間には、ぷいっと顔を背けて唇を尖らせてみせる。
「……おかしな蒼くん。もしかして、私に誰か他の女の子を重ねてる?」
「え、いや、そんなわけ……」
「あーあ。折角、世界で一番幸せな気分だったのに。私の瞳の奥に、別の女の子の影を追われてるのだとしたら、とても悲しいのだけど」
深いため息を吐くと、彼女は手元の青い栞をいじりながら拗ねた様子を見せる。
それはあまりに自然で、愛らしい抗議だった。
けれど。それにほんの少しの違和感を覚えるのは、なぜだろう。
他の女の子を重ねていた? 君はなぜ、そう思うんだ? 自分でも説明できないような、ごく小さな綻びを見つけたような感覚が、澱のように沈んでいく。
だけど、至近距離で覗き込んでも何も見つけられなかったという事実が、俺に『さっきのはただの幻覚だったんだ』という空虚な納得を強いてくる。
だめだ、よそう。
目の前にいるのは、俺の言葉に一喜一憂し、贈ったばかりの栞を愛おしそうに眺める九条 葵なのだから。
俺が、好きな女性がここいる。それでいいじゃないか。
迷わず、彼女の今に集中すればいい。
「違うんだ、本当に。ただ、光の加減でそう見えただけで……。悪い、変なこと言って」
くじょう、あおい……。
それは、とても懐かしい響き。




