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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第87話 青い瞳の少女

 彼女の「文豪」という高尚な趣味からの、恋愛物という落差をフォローしようとするあまり、自分の読書レベルを少々低く提示しすぎたかもしれない。

 代官山の洒落た本屋で、ネイビーのブルゾンを格好つけて着こなしておきながら、中身は週刊少年誌クン……。

 いや、許されるのか、これ?


 うーん、まいったな。

 自嘲気味な後悔が押し寄せてくるけど、彼女がこれだけ嬉しそうにしているのだから、まあ良しとするしかない。

 ふと、先ほどまで彼女の細い指先が躊躇うように触れていた、一冊の文庫本に目が留まった。

 時代を経てなお、その背表紙は静かな存在感を放っている。


「確か……『私のこの胸の炎は、あなたが点火したのだから、あなたが消して行って下さい』……だったかな」

 太宰 治、『斜陽』。

 静かなる書棚の間に、その独白をそっと連ねてみる。


「……っ、どうして……それを?」


 本を探していた九条さんの動きが、凍りついたように止まった。

 ゆっくりと振り返る彼女の表情は、信じられないものを見たと言いたげな驚愕に染まっている。

 棚の隙間から差し込む午後の強い日差しが、見開かれた彼女の瞳を、透き通るように照らし出した。

 その時だ。


 吸い込まれるような、いつもの黒い瞳。

 けれど、強烈な逆光に透かされたその奥底に、本来そこにはあるはずのない深みのある碧い色彩が、燐光のように揺らめいた気がして、俺は思わず己の目を擦った。

 ……今のは、見間違いか?


 一瞬焼き付いたあの『碧』がトリガーとなったのか。

 何だかとても懐かしい響きが、脳裏を猛烈な勢いで掠めていく。

 それは、遠い遠い昔の、夕陽の匂いではなかったか。


『そうくん。ずっといっしょに、いようね』


 陽光を透かして、蜂蜜色の髪が一層眩く煌めく。

 こちらを振り返った、混じりけのない蒼い瞳をした幼い少女。夕暮れの土手か、あるいはどこかの公園か。場所も時すらも定かではない一瞬の幻影は、あまりにも朧げで、美しくて……。すぐに現実の靄の中へと消えてしまった。


 ……誰だ、今の女の子は。

 激しい既視感の後に残ったのは、心臓を鷲掴みにされたような得も言われぬ苦しみと、耐えがたいほどの痛み。

 ぐっ……、くそっ。


「……水無月くん? どうしたの、急に黙り込んで……」


 彼女の心配そうな声で、俺はようやく代官山の静謐な本屋へと引き戻された。

 目の前にいるのは、黒い髪に、黒い瞳の九条 葵。


 ──くじょう……あおい?


 その名を脳内でなぞってみる。

 けれど、さっきの「そうくん」と呼んだ少女の残像に、この「九条 葵」という存在がどうしても重ならない。

 駄目だ、思い出せない。

 必死に指先を伸ばそうとしたその瞬間に、あの少女はもう、遠い霞の向こうへと消えてしまった。


「君じゃない、のか……? 誰なんだ、あの子は」

「え?……」

 無意識に漏れ出た独白。彼女が困惑したように小首を傾げるのを見て、俺は慌てて思考の淵から這い上がる。

 

「……いや、なんでもない。少し、光が眩しかっただけさ。……それに太宰は普通読むだろ」

 俺は痛む胸を隠すように、わざと明るい調子で言う。

 けれど、さっき暗唱した太宰の言葉が、皮肉にも今の俺自身に深く突き刺さっていることに気づく。


『私のこの胸の炎は、あなたが点火したのですから──』

 

 俺が点けたはずの火が……。実はもっとずっと昔に、既に灯されていたのではないか。君の胸に。

 そんな根拠のない予感に背中を押されるように、俺は彼女から目を逸らさず、本棚の迷宮をさらに奥へと進んだ。


『斜陽』の主人公が抱えた、身を焦がすような恋の熱。

 それは、周囲からは『高嶺の花』として完成された個を求められながら、その内側で誰よりも一途で激しい熱量を隠し持っている彼女に、あまりにも相応しい言葉だったから。

 なんてのは、俺の考えすぎだろうか。

 

「……意地悪ね。本当に」


 ようやく唇から溢れたのは、抗議というよりも、秘密を暴かれた少女のような甘い溜息だったよ。

「週刊少年誌クン」を装って油断させたところで、彼女の愛読書の核心を、その内面に迫るように突いてみせる。

 我ながら、なかなか悪くないお返しができたのではないだろうか。


 赤らんだ頬を隠すように再び棚に向き直った彼女の背中を見つめながら、俺は心の中で、その胸の炎の行く末に思いを馳せていた。

 そして同時に、こうも思う。

 ──あれは君じゃない、はずなのに。

 どうして俺の心は、彼女の瞳の中に、あの日の少女と同じ『色』を見てしまうのだろう。


 感情の波を鎮めるように本棚の迷宮を抜け、俺たちは同じ敷地内にある文房具コーナーへと足を向けた。

 そこは、書店の静謐さとはまた違う、万年筆のインクや上質な革の香りが漂う、工芸品店のような趣のある一角だった。

 これはこれで、見ていてとても楽しい。

 ガジェットや、小物の類って妙に心を惹かれないか?

 ずらりと並んだ機能美の塊を眺めているだけで、特に用がなくてもつい足を止めてしまう。


 そんな俺の横で、ある一角に彼女の足が止まった。

 視線の先には、窓からの光を透かして宝石のように輝く、ステンドグラス製の栞が並んでいた。


「……綺麗ね」


 彼女がそっと指先を這わせたのは、目が覚めるほどに鮮やかな、深い青色の栞だった。

 渋い銀のフレームで幾何学的に仕切られた、ステンドグラスの小さなパネル。

 中央やや上へ月を抱きながら、一つひとつの区画が、深い紺から透き通るような青へと、一段ずつはっきりとした階調を描きながら夜空を形作っている。


 それは、先ほど彼女の黒い瞳の奥に一瞬だけ見た、あの神秘的な燐光の色にあまりにも似ていた。


「君に似合いそう。吸い込まれそうな、いい青だ」

「そうかしら。……ふふ、水無月くんと同じ(あお)ね」


「え、あ、いや……」

 これ以上の不意打ちがあろうか。

 自分の名前と同じ色と言って、そんなに慈しむような瞳で見つめないでほしい。俺は急激に顔が熱くなるのを感じ、誤魔化すように不自然な角度で視線を逸らす。


「……と、ところで。九条さんは、今はどんな栞を使ってるのかな?」


「今は? そうね……これかしら」

 彼女は少しだけ照れくさそうに、読んでいた文庫本のページを捲る。

 そこに挟まっていたのは、厚手の和紙に古風な筆文字で和歌が書かれた、簡素な栞だった。


「へえ、和歌。随分とお洒落だね」

「そう? ありがとう。実は、とても気に入ってるの」


 彼女はそう言って栞を本に戻すと、満足げに微笑んだ。

 一通り文具を眺め終えた俺たちは、少し歩き疲れたこともあって、そのまま店内のラウンジで休憩することにする。

 

 一階の賑わいを背に階段を上がると、そこには琥珀色の照明に照らされた、重厚な革張りのソファが並ぶ別世界が広がっていて。代官山の喧騒から切り離されたこの空間に、少しだけ初デートの緊張が戻ってくる。


「ふぅ……。ここ、すごく落ち着くでしょう」

 九条さんはシャツを整えながら、深く腰を下ろした。


「そうだね。……あ、飲み物でも頼もうか」

 注文を終えると、店員が静かに去っていく。

 コーヒーが運ばれてくるまでの、わずかな空白。俺は行動を開始する。


「ごめん。ちょっと見たい本を思い出した。すぐに戻るから、ここで待っててくれるかな」

「私も行くわ」

 間髪入れずに返ってきた言葉に、俺は内心で冷や汗をかく。ここを突破しないことには作戦が始まらない。

「もう注文しちゃったからさ。コーヒー、受け取っておいて」

「……わかった、お留守番してるわね」


 少しだけ名残惜しそうに、でも俺を困らせないように。

「すぐ戻る」

「ええ、待ってる」

 

 彼女の穏やかな微笑みに背中を押され、俺は平静を装って席を立つ。

 ラウンジを抜け、足早に先ほどまでいた一階の文具コーナーへと急いだ。

 あった、これだ。


 レジへと向かう道すがら、俺は脳内で預金残高に想いを馳せる。

 バイトで貯めた小遣いは、まだまだ余裕があったはず。


 ……好きな女性に物を贈るというのに、親の遺した金を使うなんて、みっともないもんな。自分で稼いだ金でこそ、だろ。


「これ、贈り物用に包装をお願いします」

 差し出したのは、彼女が最後まで見つめていた、あの青いステンドグラスの栞。


 包装を待つ間、俺は無意識に自分の両手に視線を落とした。

 両手の自由を奪われた俺が、いまこうして不自由なく過ごせているのは、間違いなく彼女がいてくれたからだ。

 

 不慮の事故で両親を亡くし、昨年祖父までもを失ったあの日。

 世界のすべてがモノクロに塗り潰された俺の日常に、色鮮やかな風を呼び込んでくれたのも彼女だった。

 ……死んでいた俺の心に、もう一度だけ色彩を与えてくれた人。


 君が「綺麗だ」と零したその色を、俺の名前だと言って微笑んだその「(BLUE)」を、彼女の手の平にもう一度、戻したかったから。

 だから、君に贈るよ。


「お待たせいたしました。こちら、プレゼント用でございます」

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