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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第86話 背表紙の迷宮で見つけた、彼女の素顔

 ようやく珍事(?)の片付けを終えた俺たちは、いま玄関にいる。

 どうやら、ここでも最後の一択が彼女を悩ませているらしいぞ。彼女の指が、鋭いヒールのパンプスと、控えめなローヒールの間を行ったり来たりしている。

 ま、まさか玄関でも悩み始めるつもりか……?

 

「蒼くん? その……背の高い女は嫌いだったり、する?」


 恐る恐る尋ねてくる九条何某(なにがし)さん。

 学校では高嶺の花として君臨し、常に凛としたオーラを纏っている完全無欠な彼女が、まさかそんなことで悩んでいるなんて意外だった。

 揺れる葛藤に、俺は小さく笑って答える。

 

「特に考えたことないけど、履きたい靴を履いてくれていいよ。格好いい君は、俺も見ていたいから」


「Just... cool?(恰好いい、だけ……?)」

 彼女の唇から吐息のような囁きが零れた。

 いつもの悲痛な響きとは違う、どこか物足りなさを孕んだ異国の言葉。


「Cute, should I say that again?(可愛いに、言い直そうか?)」

「……っ!? な、なんで……っ」


 耳まで真っ赤にして驚く彼女に、俺は少しだけ意地悪に笑ってみせる。


「いや、そんなに驚かなくても。いくら流暢でもさ、『Just... cool?』くらいなら俺にだってわかるって」

「それは、そうね……。ああっ、もう、恥ずかしい……!」


 無意識の独白を聞かれていた。それも、よりによって一番聞かれたくないであろう俺に。

 完璧な美貌を誇る彼女が、今はただ、身を焼くような羞恥に翻弄されている。

 俺は、その張り詰めた恥ずかしさを少しでも解いてあげたくて、かつてのお遊びを口にしてみる。

 気づいてくれれば、いいけど。

「聖諒学院生をなめてもらっては困りますよ。九条 葵様」


 いつぞやのバイト先での、あの気取ったロールプレイ。

 あえて恭しくフルネームを呼んでみると、彼女は一瞬きょとんとした後、あの至福の時間を思い出したかのように、ふわりと表情を和らげた。


「……まあ。水無月さん、ごめんなさい?」


「あはは」

「ふふふ」

 

 可笑しさがこみ上げ、どちらからともなく笑い声が漏れる。

 玄関に響く二人の笑い声が、初デートの少しの緊張を、春の雪のように優しく溶かしてくれた。

 結局、彼女が選んだのはローヒールの黒いパンプスだった。


「……今日は、こっちにするわ。あなたと同じ目線で歩きたい気分だから」

 少しだけ恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐに俺を見つめて放たれた、彼女の小さな決意。

 その想いが胸にじんわりと広がって、俺は素直な言葉を口にした。

「それは、嬉しいね」

 

 カツン、と軽やかな音が玄関に鳴る。

 ネイビーの大人びた装いに、あえて裾を出したストライプシャツの抜け感が鮮やかで眩く映える。そこにローヒールの格好良さが加わっては、今の彼女は、俺の知る中で一番美しく、とても大人びて見えた。


 駅のホームへ降り立つ前、ふと駅構内の姿見がわりに使われている大きなガラス窓に、俺たちの姿が映る。


「……」

 意外と、悪くないのではないか。


 圧倒的なオーラを放つ九条何某さんの隣で。そのネイビーに呼応するように紺のブルゾンを纏い、黒のパンツで足元を引き締めた自分の姿。

 二人のネイビーが重なり、混ざり合う。

 最初からそうあるべきだったパズルのピースが、カチリと音を立てて嵌まったような。そんな()の美しさがそこにはあって。

 俺は密かに胸を熱くした。

 

 俺と君は、案外、似合っている。


 電車を乗り継ぎ、降り立った代官山の街並み。

 洗練され、どこかゆったりと時が流れるこの街の空気は、今日の彼女の装いによく似合っていた。


「そういえば、水無月くん。代官山に来るのは初めてだったかしら」

「ああ、そうかも。九条さんはよく来るの?」

「ええ。……ちょっと、大好きな本屋さんがあって。今日はどうしても、水無月くんと一緒に来たかったの」

「いいね。君が好きなところは、俺も知りたい」

「も、もう……。さらっと、そういうこと言うんだから……」

 

 彼女は耳まで真っ赤に染めると、照れ隠しのように俺の少し前を歩き始める。

 肩にかけたジャケットを揺らし、歩くたびに腰元のストライプを軽やかに遊ばせる彼女。あえてアウトにしたシャツの裾が、彼女が動くたびにふわりと広がり、横を歩く俺の視線を何度も奪う。

 

 だけど、それに目を奪われているのは俺だけではない。

 すれ違う男性たちが、例外なく吸い込まれたように視線を止める。

 コーヒーを片手に歩いていたビジネスマンが、彼女とすれ違った瞬間に二度見し、そのまま歩みを止めて呆然と見送る。向こうから歩いてきた男性が、彼女の圧倒的な存在感に気圧されたように、無意識に道を譲る。


「……一般人じゃ、ないだろ」

「すごい綺麗……服の着こなしが素人じゃないよな」


 背後から漏れ聞こえる小さな感嘆の声。それは代官山の街が、彼女という存在を発見していく音だった。


「……そういえば、以前の君はよく一人で本を読んでいたよな。病室でも、いつも手放さなかったし」

 ふと思い出したことを口にすると、彼女は驚いたように瞬きをして、それから少しだけ照れくさそうに視線を泳がせた。


「……見てて、くれたの?」

「ああ。あの頃はそれが、群れるのを嫌って、物語の中に閉じこもっているように見えて。……なんていうか、すごく印象的だったんだ」


「……あの頃はね、本の中が一番安全で楽だったの。でも、今は違うわ」


 今は、隣を歩くあなたと語りたい。あまねく全てを、傍で分かち合いたい。

 言葉にせずとも、彼女の照れた瞳がそう語っている。俺のブルゾンの袖を掴むその指先の強さが、何より雄弁な告白のように感じられる。


 そんな俺たちの前に、緑豊かな敷地を抜けた先、ガラス張りのモダンな建築群が姿を現した。

 代官山 T-SITE。

 都会の喧騒を忘れさせる落ち着いた木の温もりと、幾千もの背表紙が放つ静謐な気配。書というもののためだけに構築されたその空間は、本好きにとっての聖域だ。

 

 自動ドアが開き、紙とインク、そして微かなコーヒーの香りが混じり合った知的な空気が俺たちの側を通り抜けていく。

「……素敵ね。やっぱり、ここに来ると心が躍るわ」


 九条さんは、まるで初めて異世界に足を踏み入れた少女のような、清らかな表情で溜息を漏らす。

 壁一面を埋め尽くす巨大な本棚。

 その間を縫うように、彼女は軽やかな足取りで進んでいく。

 モデル『MINA』としてのオーラを纏いながら、中身は好奇心に溢れた等身大の女の子。そのアンバランスな姿を追っているうちに、俺の中にひとつの好奇心が芽生えた。


「そういえば、九条さんはどんな本が好きなの? よく読んでいたのは知っていたけど、肝心のジャンルまでは聞いたことがなかったな」


 俺が問いかけると、彼女は一冊の文庫本に伸ばしかけた指を止め、少しだけ恥ずかしそうに肩をすくめた。

 

「……少し古い、文豪の作品が好きなの。太宰とか、芥川とか。……そういう、救いようのない人間の熱みたいなものを、独りでなぞるのが好きだったのよ」


「へえ文豪か。……確かに、君が静かにそれを開いている姿は、すごく絵になりそうだ」


「……笑わない?」


 彼女が不意に足を止め、不安げにこちらを振り返る。

 その瞳は、代官山の街で見せていた女神のそれではなく、自分の隠した宝物を誰かに見せる時のような、ひどく無防備な輝きを湛えていた。


「ああ、笑わないよ。むしろ、君らしいと思う」

「ありがとう。……でも、あの、そっちじゃなくて。その……」


 彼女は何かを言い淀むように、ネイビーのパンツの端をきゅっと掴んだ。シャツの裾が彼女の指の動きに合わせて揺れ、柔らかなストライプの柄が波を打つ。


「……あと、たまに。恋愛物が読みたく、なるの……」

 消え入りそうな、けれど確かな熱を持った独白。

 知的な文豪の世界に浸る一方で、彼女はひっそりと、紙の上の恋物語に胸をときめかせていただなんて。

「へ、変かしら。こんな、子供みたいなこと」


 俺の顔色を伺う彼女、なんと愛らしいことか。

 その不安を拭い去るように、俺はわざと軽く肩をすくめてみせた。

「変なわけないだろ。……俺なんて、たまに無性に漫画が読みたくなるんだから。だからといって、君は俺を笑うのか?」

「いいえ、そんなこと……」


「なら、そういうことだよ。文豪だろうが漫画だろうが、恋愛物だって。読みたい物を読めばいいのさ。……君がどんなページに心を動かしているのか、知りたいぐらいだね」

 

 ……そう言った直後、自分の発言を脳内で反芻して、俺は頬をかいた。

 これじゃあ俺、まるで普段から漫画しか読まないやつみたいじゃないか……。

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