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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第85話 もう、着る服がないじゃない!

 記念すべき、初デートの朝。

 俺は今、人生で最も幸福な『監禁』のただ中にあって、それと同時に、救いようのない手持ち無沙汰の中にいた。


 場所は、どこだと思う?

 そう、彼女の寝室だ。俺は一人、主のいないベッドに横たわり、さっきから数え切れないほど天井のクロスの繋ぎ目をなぞる作業を強いられている。


「蒼くん、絶対に、ぜっったいに寝室から出てこないでね!? いい?」

「わかってるって。……もう何回目だよ、それ」

 

 かれこれ三十分以上、同じやり取りを繰り返している。

 いい加減、天井を見つめるのも飽きてきた。

 そもそも、君は以前「あなたが望むなら、すべて見せてあげる」と艶っぽく囁かなかったか? それなのに、いざ『デートの着替え』という段になると、その過程を見せないように俺を監禁するのはおかしいだろ。

 裸を見せる覚悟はあっても、それを作り上げる途中は見せたくないとは……。

  

 女心というのは、時に数式よりも解きがたく、そして呆れるほどにいじらしい。

 ※ちなみにこれは覚悟の話であって、実際に彼女の裸を拝んだわけじゃない。そこは断固として補足しておく。

 

 壁越しに、バサバサという激しい衣擦れの音と、ハンガーが悲鳴を上げる音が絶え間なく聞こえてくる。

 九条 葵、またをモデル『MINA』。

 最近、いくつかのファッション誌で次世代の注目株として特集され始めたモデル。マネージャーからはもっと仕事を入れるよう催促されてるらしいけど、彼女は頑なにそれを拒んでいるとか。

 そんな、見せるプロでもある彼女が、今、自宅のリビングで一着の服すら決められずに絶叫に近い悲鳴を上げている。

 

「ああ……これも違うわ。さっきの方が良かったかしら。でも、これじゃ少し気合が入りすぎてる気がするし……。もう、着る服が一着もないじゃない!」


 いや、待って。

 クローゼットにあんなに並んでて、ないわけないだろ。

 店が開けるほどあるのに!

 

 喉まで出かかったツッコミを、俺は必死に飲み込む。

 以前一度だけ「君なら何でも似合うよ」と声をかけたら、「そんな適当な言葉で片付けないで」と、かつてないほどガチなトーンで返されてしまったから。


 扉越しに伝わってくる、生々しいまでの着替えの気配。

 脱ぎ捨てられる服、肌を滑る布の音。本来なら生唾を呑み込むようなシチュエーションのはずなのに、おあずけを食らいすぎた俺は、もはや悟りを開いた僧侶のように虚空を見つめていた。

 これが賢者モードというやつか……。


 不意に。あれほど激しかった戦火の音が、ふつりと途絶えた。

 耳が痛くなるほどの沈黙が数秒。やがて、震えるような吐息を伴って、寝室の向こうから声が届く。

 

「……もう、いいわよ。出てきても」


 ようやく出所の許可が下りたらしい。

 俺は身体を起こし、扉を開けてリビングへと踏み出す。

 

「………………」


 息を呑む、という現象。

 それが、自分の意思とは無関係に肺の空気を奪われることなのだと、俺はこの時初めて学んだ。知った。

 そこにいたのは……、立夏の柔らかな陽光を背に受け、凛とした知性を纏った彼女だったから。


 仕立ての良さが一目でわかる、深いネイビージャケット。

 その下からのぞく、清潔感あふれるストライプ柄のシャツブラウスが、彼女の都会的な美貌を鋭利なまでに引き立てている。

 そして、脚のラインを驚くほど長く、優雅に描き出す同色のネイビーパンツが。

 

 見ただけでわかる。モデルとしての圧倒的な説得力を備えながら、どこか「背伸びをした少女」のような初々しい緊張感が、その装いから滲み出していて。

「……どう、かしら。変じゃない?」

 

 その問いに、声も出せない。

 長きに渡る監禁も、天井のクロスの繋ぎ目も。そのすべてが、この一瞬の対価としては安すぎるくらいだと思い知らされる。


「蒼くんのネイビーブルゾンに……こっそり、合わせちゃった」


 なあ、そこにいたのは、九条 葵なのか。

 それとも『MINA』なのか。

 そんな境界線すらわからなくなるほど、完璧に格好良い君が、そこにいた。


 それなのに。

 俺の感動は、その背後に広がる無様な地獄によって、一瞬で乾いた笑いへと塗り替えられるからタチが悪い。

 リビングの床を埋め尽くす、脱ぎ捨てられたドレスやスカート、ブラウスの残骸。高級ブランドのタグが虚しく天井を仰ぎ、まるで巨大な布の怪獣が暴れ回った直後のような凄惨さじゃないか。

 どうすれば、こうなる。教えてくれ。

 

 その戦禍(リビング)の中心で、彼女だけが奇跡のような涼しげな(かお)で佇んでいた。


「……あの、蒼くん? 何か言ってくれないと、私、今すぐこの山に埋もれて消えたくなるんだけど」


「ごめん。あまりに綺麗で驚いた。すごい似合ってるよ。……けど、それ以上に部屋の惨状が面白すぎて言葉が出ない」


「しょうがないじゃない! 蒼くんに似合ってるって思われたくて頑張ったら、こうなってしまったのよ」


 俺は苦笑し、腕まくりをする。

「やれやれ。……まずは、ここを片付けてから行こうか。さすがにこのままじゃ、帰ってきた時に絶句するだろ?」

「……うぅ、はい。……その通りね」


 都会的なネイビーのスーツスタイルを完璧に着こなしたモデル様を横に従え、俺たちの初デートは、山のような服の片付けから始まることになるとは。

 本当に、君は面白いなあ。


「皺になっちゃうわね」


 彼女はそう呟くと、羽織っていたネイビージャケットを脱ぎ、丁寧に畳んでソファの背に掛けた。

 シャツブラウスの裾をふわりと外に出すと、隠れていたデザインが全貌を現す。

 胸元までは、抜けるように清潔な純白。そこから裾へ向かって、流れ落ちるように描かれた紺色のストライプ。

 その直線的で鮮やかなラインが、アウトスタイルによって生まれる柔らかな布の揺れと重なって、彼女のシルエットを驚くほど華やかに。

 そしてどこか鮮やかで、大人な雰囲気へと変えていく。

 

 そんな、ファッション誌のワンシーンから抜け出してきたような姿で、彼女は床に積み上がった服の山へと手を伸ばす。

 スラックスの膝を汚さないよう、スッと腰を落として中腰になった、そんな時だったよ。


「……っ、よいしょ」


 そりゃもう、静かすぎる部屋に。

 およそ彼女には似つかわしくない、生活感の滲み出た例の掛け声が響いたんだ。


「……ぷっ、ははは!」

「えっ!? あ、あぁっ……!」


「もう、勘弁してくれ。面白すぎるだろ、それ」

「お、面白くなんかないからっ!」

  

 堪えきれずに吹き出してしまった。

 洗練された美しいシャツの着こなしで、圧倒的な美を放つモデル様が、あろうことか「よいしょ」である。しかも、つい先日もそれでやり合ったところだ。

 その凄まじいアンバランスさが可笑しくて、まだ完治していない肋骨に響くのも忘れて笑い転げてしまった。い、痛てぇ。


「な、何よ! 重かったのよ! ああ、またやってしまうなんて……癖なのかしら」


 顔を耳の先まで真っ赤に染め、両手で顔を覆って俯いてしまう九条何某(なにがし)さん。

 シャツの裾をアウトにしたことで生まれる「抜け感」も、今はただ、そのシュールな赤面を助長するだけの装置と化していて。

 何の役にも、立っていない。

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