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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第84話 布漉しの静謐な夢

「食事中にごめん。……あ、先に食べておいてくれていいから」

 俺はそれだけ言うと、一人バスルームへと急いだ。

 

 酒々井さんは何も悪くない。彼女は、彼女なりの親愛を示してくれただけだ。

 そんな彼女を悪者に仕立てて、自分の罪悪感を薄めようとするのは筋違いだろ。悪いのは、その厚意を真っ向から受け止めてしまった、俺なのだから。

 ただ、それでも。

 俺は一刻も早く、肌に張り付いた他人の熱を、シャツに染み付いたあの重厚な香りを、すべて跡形もなく洗い流したかった。

 

 脱衣所で、不自由な手をもどかしく、裏返すようにしてシャツを脱ぐ。

 

「え、蒼くん? 今からシャワー浴びるの?」

「ああ、手伝いはいい。今回は一人でやらせて欲しい」

「でも、その怪我では無理よ……」

「いいんだ。本当にいいから」

 

 案じるように扉の向こうで声をかける彼女を、俺は頑なに拒んだ。

 左手は固定され、右手は更に自由が利かない。自分一人で満足に洗うことなど出来やしないのは、自分が一番分かっている。

 ……情けない。クソみたいな奴だ。

 結局、最後は彼女の助けを借りなければならないのだとしても。それでも、今のこの『香り』を纏ったままで、彼女にやらせるわけにはいかなかった。

 

 これは、何も風呂に限った話ではないよな。

 彼女の手を借りるのであれば、せめて、外の女性の形跡を消し去ってからにすべきだろうが。

 それこそが、最低限の思いやりではないか。

 

 熱いシャワーを浴び、不器用な手つきで泡立てる。

 排水溝へと流れていく不純な『色』を見つめながら、俺はリビングで一人、静かに悲しみを堪えていた彼女の言葉を反芻していた。

 

 ──君を下の名前で呼びたい。

 そう願った日。

 君がどれほどの想いを持って、それを受け入れてくれたのか。あの学院の貴公子ですら無残に散った。未だかつて、誰も踏み込むことを許されない聖域(葵の名)

 そんな隔絶な許しを、得たというのに。

 もう、次の日には悲しませている。

 別の女の匂いを纏って。

 

 シャワーの熱気でさえ、鼻腔に残るあの甘い匂いを完全には消し去ってくれない気がして、俺は何度も、何度も、痛む指先を無視して自分の肌を強く擦った。

 

 湯を止め、濡れたままの身体で脱衣所へ出る。ひんやりとした外気に触れ、肌が粟立ったその時だった。

 扉のすぐ向こう側に、抗いようのない彼女の気配を感じて、心臓が跳ねる。

 

「蒼くん? 入っていい?」

「えっ、ちょ、待って……!」


 焦りが指先に伝わり、さらにもどかしさが加速する。

 不自由な両手を駆使し、下着をどうにか引っ張り上げた、その直後だった。

 スルスル、と静かな音を立てて引き戸が開く。


「……あ」

 

 そこには、大きなバスタオルを翼のように広げた彼女が立っていて。全身から水滴を滴らせ、下着一枚で立ち尽くす俺を。

 床にポタポタと落ちる水の音と、熱気で白く曇りゆく鏡。その曖昧な白濁の中を、彼女は躊躇いなく進んでくる。

 そして、俺のすべてを受け入れるように、柔らかなタオルで優しく包み込んでくれた。


「そんなに慌てなくても……。ほら、じっとしててね」


 視界が白く遮られる。

 彼女の指先がタオル越しに髪を優しく、慈しむように揉みほぐしていく。

 

「自分でやるから……」

「ううん、ダメ。私がしたいの、してあげたいの」

 

 遮られた視界の中で、彼女の声だけが鮮明に響く。

 厚手のタオルの層を通したその声は、いつもより低く、耳元に直接、熱を持って染み込んできた。

 髪を拭き終えると、彼女はそのままタオルで上からくるむようにして、ぎゅっと抱きしめてくる。

 

 真っ白なタオルの繭。

 そこに閉じ込められた俺の、冷え始めていた肌に、タオル越しの彼女の体温がじわじわと伝播して温かい。

 

「蒼くんは、やっぱり優しいままね」

「そんなことはない。今日は……君をたくさん傷つけた」


「ううん。悲しみを置き去りにしないで、振り返ってくれるあなたは素敵よ」


 彼女の熱を帯びた吐息が、逃げ場のないタオルの隙間からうなじに触れる。

「だから、お礼。あげるね」


「お礼……?」


 思わず聞き返した俺の言葉を飲み込むように、彼女がさらに力を込め、繭の中にいる俺を強く抱き寄せた。

 その時だった。

 

 ──ふにっ、と。

 タオルの柔らかな毛足越しに。

 俺の唇のあたりへ、とても温かな、吸い付くような何かが触れた。


「……っ」


 心臓が、耳障りなほどに暴れ始める。

 うるさいな、少し黙れよ。

 

 今の感触は、今の温もりは、一体何だったのか。


 けれど、厚手のタオルの弾力があまりに容赦が無くて。

 それが彼女の愛を込めた唇だったのか、それとも抱きしめる力が強まった拍子に、彼女の頬が偶然押し付けられただけなのか。

 その正体は熱を帯びた夜の空気の中に、溶けるように曖昧なまま。


「……これで、もう大丈夫ね」

「あ、ありがとう……」

 

「ふふ、どういたしまして」

  

 囁きと共に、俺を縛っていた白い繭がゆっくりと解かれる。

 タオルの外に出た俺を待っていたのは、湯気でぼやけた視界と、どこまでも澄んだ瞳で俺を見つめる、彼女の穏やかな微笑みだけ。他は何もない。


 たぶん、あれは唇だったのだと思う。

 目は口ほどに、物をいう。

 彼女のその潤んだ瞳が、俺の唇に残る微かな残熱の正体に、夢を見させてくれるから。今はただ、素直に夢を見続けよう。

 そう、思った。


「さあ、行きましょう? タコス、軽く温め直しておくわね」


 彼女は最初から何もなかったかのように俺の手を引き、リビングへと促す。

 石鹸の匂いしかしない自分を取り戻した俺は、ようやく彼女の待つ食卓へと、真っ当な足取りで戻ることができた。

 

 テーブルの上には、再び彩り豊かな彼女手作りのタコスが並んでいる。

 さっきまでの、空虚で中身のない饒舌はもう必要ない。後は、彼女が心を込めて用意してくれた一皿を、今度は真正面から受け止めるだけ。


「改めて……いただきます」

「ふふ。どうぞ、召し上がれ」


 向かい合わせに座った彼女が、満足げに目を細めて促してくれる。

 一口、頂く。


「…………」


 はは、素直に……美味いじゃないか。

 なんだか、無性に泣けてくる。

 さっきまでの俺は、自責の念という名の汚泥にどっぷりと嵌まり、この温かな味すら感じられなくなっていたのか。

 

 昼間に渋谷で食べた、あのスパイシーで刺激的な味とはまた違う。シャキシャキとした新鮮な野菜の甘みと、じっくり煮込まれた挽肉の深いコク。

 何より、そこには「俺の喜ぶ顔が見たい」と願った彼女の、献身的なまでの愛情が溶け込んでいて。

 こんなもの、美味いに決まっているじゃないか。


「どう? お口に合うかしら」

「君の作るものは、いつだって美味しいよ。……当然、このタコスもね。本当に美味しい」

「よかった……」

 真っ直ぐに伝えると、彼女は少しだけ頬を染め、満足そうに、そして本当に安心したように目を細めた。

 その表情を見れば、彼女がキッチンでどれほどの想いを込めてこれを準備していたか一目瞭然じゃないか。


「葵さん」

「なあに、蒼くん」

 箸を休め、不思議そうに俺を見つめる漆黒の瞳。

「……ありがとう。健太との何気ない話まで、ずっと覚えててくれて」


 俺が改めて感謝を伝えると、彼女は少しだけ驚いたように瞬きをし、それから少しだけ俯いて。

 そうして次に上がった彼女の顔には、今日一番の、そして俺が知る中で最も柔らかな微笑みが浮かんでいたよ。

 

「ううん。……改めて、おかえりなさい。蒼くん」


 バスタオル越しに贈られたあの『熱』がある限り、俺は何度だってこの場所へ、彼女の色に染まりに戻ってくるだろう。

 禊を終えた夜の空気は、どこまでも澄み渡っている。

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