第83話 二つのタコス
大丈夫だ。
自分に言い聞かせるように、閉ざされたドアの前で深く息を吐き出す。
午後からも撮影が入っていると言っていた彼女のことだ。どれだけ早くても帰宅は陽が完全に落ちてからのはず。
実際、ここ数日の彼女はそうだった。
今ならまだ、時間は十分にある。
すぐにシャワーを浴びて、この酒々井さんの香りが染み付いたシャツを洗濯機の奥底に放り込み、証拠を消し去ってしまえばいい。
逸る手でカードキーをかざし、重い玄関の扉を押し開けた。
ガチャ、と。
暗闇を予想していた俺の目に飛び込んできたのは、リビングから漏れ出す、温かくて柔らかな光だった。
本来ならば、それは一番待ち望んでいたはずの、安らぎの光。
「……っ!?」
心臓が嫌な跳ね方をする。
挨拶を口にする余裕すらなかった。呆然と立ち尽くす俺の耳に、聞き慣れた、けれど今は最も聞きたくないはずの軽やかな足音が届く。
「蒼くん? お帰りなさい」
パタパタと小気味よいスリッパの音を響かせて、彼女がやってくる。
撮影現場にいるはずの君は、すでにエプロン姿。少しだけ髪を後ろにまとめた、完璧なまでの迎える側の装いだった。
しかも、その表情は見たことがないほど眩い、満面の笑みで。
「た、ただいま、葵さん」
「今日はお出かけだったの? ふふ、撮影が予定よりずっと早く終わったから。蒼くんの帰りに間に合って嬉しいわ」
彼女は本当に嬉しそうに、何の疑いもなく俺を迎え入れてくれる。
その純粋な光に当てられ、俺は金縛りにあったように動けなくなってしまう。
夕闇の風にあれだけ晒したのに。
刺激的なサルサの残り香と、あの甘く重厚な香水が、しつこいほどに居座っているというのに。
……いや、待て。
そこで俺は思い直す。
なぜ俺は、こんなにビクビクしているんだ?
確かにこのシャツには、君以外の女性の形跡がついているかもしれない。けれど俺は、彼女の誘惑を真っ向から断り、好きな人がいるとはっきり口にしたじゃないか。
やましいことなんて、何一つない。
俺は彼女に、そして自分自身に胸を張れる選択をしてきた。
だったら、堂々としていようじゃないか。
「それは良かった。……明かりがついてたから、正直びっくりしたけど。お疲れ様、葵さん」
「ふふ、驚かせちゃったかしら。さあ、立ってないで入って? 今、ちょうど夕食の準備をしていたところなの」
俺は努めて自然な笑みを浮かべ、彼女の元へ一歩踏み出した。
一点の曇りもない自負を盾にして、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。
──だけど。
二人の距離が、あともう少しで触れ合うほどに縮まったその刹那。
眩いばかりだった彼女の笑みが、音もなく消えた。
消えた、というよりは。
温度を持たない『精巧な仮面』に差し替えられた、と言うべきか。
モデルとしてカメラの前に立つ彼女が見せる、感情を完璧に排した「無」の表情。
「…………」
彼女の鼻先が、微かに、けれど鋭く空気をなぞるように動く。
その直後、葵さんはスッと一歩、俺から距離を取った。物理的な歩幅以上の、絶望的なまでの隔絶をそこに添えて。
キッチンの家庭的な匂いは、もう俺の鼻には届かない。
「今日は随分と、お出かけを満喫されたみたいね」
声のトーンが、一段階下がったのは間違いない。
なのに、彼女は怒りもしない。問い詰めることもしない。ただ、僅かに翳を纏いながらも、いつもの『九条 葵』としてそこに在ろうとしている。
けれど、その言葉遣いは完璧なまでに丁寧で、氷のように冷たかった。
「あ、ああ。……ちょっと健太と渋谷で会ってたら、そこで偶然、酒々井さんに会って。覚えてる? ほら、入院していた時の看護師さん」
「大丈夫。わざわざ説明してくれなくとも、私は大丈夫ですから」
彼女は微笑んだまま静かに、冷たさで俺の言葉を遮った。
「……葵さん」
「ごめんなさい。でもあなたは、自分の思うように過ごしてくれればいいの。それが私の望みだから」
その響きは、突き放しているようには聞こえなかった。むしろ、彼女は本心から俺の自由を尊重しようとしているようにも取れた。
束縛されない虚しさが胸に宿る。彼女は嫉妬とは無縁の女性なのか、それとも、別の何かが──
どちらにせよ、そのどこまでも透明な潔さが、今はどんな罵倒よりも鋭く俺の胸を刺したのは間違いない。
それから、更に少しの時間が過ぎて。
彼女はそれ以上何も語らず、ただ黙々とキッチンで食事の用意を進めていた。
俺はリビングのソファに座り、自分の身体から漂う『外の女』の残り香と、キッチンから漂い始めた温かい家庭の匂いが混ざり合うのを、逃げ場のない心地で感じている。どうにも居心地が悪い。
混ざり合うはずのない異なる世界。
それが、俺というフィルターを通して最悪の形で衝突していた。
「蒼くん。食事にしましょう」
呼ばれて席に着く。
そうして、目の前に出された料理を見て、俺は言葉を失ったよ。
それは、色彩豊かな野菜と愛情がこれでもかと詰め込まれた、彼女お手製のタコスだったから。
「タコス……?」
「ええ。蒼くん、以前休み時間に、小園くんとタコスが美味しいって話をしてたでしょう? だから、朝から色々準備しておいたの」
ふと、彼女の視線が止まった。
向いた先は俺の顔ではなく、シャツの襟元。そこには、酒々井さんがナプキンで拭ききれなかった、あのパークでの『証拠』。小さなサルサソースの汚れが何点か、呪いのようにしつこく残っていて。
「もし、もう食べていたのだとしたら、ごめんなさい。……同じもの、美味しくないわよね」
大切な人に非難ではなく、消え入りそうな謝罪をさせてしまう。
傷つけてしまうだなんて。
その罪悪感に耐えきれず、俺は必死に声を上げた。
続く沈黙が怖くて、この空虚な空気を埋めるために、昼間の話を笑い話として差し出すという最低の逃避を選んでしまう。
そして、罪を重ねる。
「あ、そうだ。今日、健太のやつが酒々井さんにえらい懐いちゃってさ。あいつ、告白じみたことまで言ったんだけど、どうなったと思う?」
「……さあ、想像もつかないわね」
彼女は、ソースで汚れた自分の指先を見つめたまま、力なく答えた。
「あいつさ、『胸ばかり見ているからダメ。話す時はちゃんと目を見てくれないと』って酒々井さんに一蹴されて、それはもう見事に玉砕したんだ。本当、あいつらしくて笑っちゃうよな」
「ふふ、小園くんらしいわね」
「だろ?」
己の乾いた笑い声だけが、広いリビングに虚しく響いている。
一体何を話しているんだ、お前は。
いつかの些細な、俺と健太の会話を覚えていて、一生懸命に準備してくれた彼女を前にして。お前は別の女の名前を出すのか、ええ?
その人と過ごした時間のディテールを語って、何を証明したいんだ。
馬鹿も休み休みにしろ。
言葉を重ねれば重ねるほど、目の前の女性の瞳に落ちる影が、濃くなっていくというのに。
「あー違うな。こんな食事は嫌だ。俺が君に言うべきは、こんなどうでもいいことじゃない。最初から間違えていた」
「蒼くん?」
俺は食べるのをやめ、彼女の瞳を真っ直ぐに見据える。
間違いっぱなしでは、いられない。
「酒々井さんはさ、本当に人懐っこい人だから。距離感が近すぎるところはある。……でも、俺は言うべきことはちゃんと言った。大切にしたい人がいるから、やめてくれと」
俺は一度呼吸を整え、心の奥底にある言葉を掬い上げる。
「落ち着かない極彩色より、俺は君と居るこの白と黒がいい」
その言葉に、彼女の細い肩が微かに震えた気がした。
視線を伏せたまま、絞り出すような声が、夜の静寂に溶け出していく。
「私こそ……ごめんなさい。でも、信じて欲しい。蒼くんを縛りたくないのは本心。……ただね」
彼女の瞳に、堪えきれない光が揺らいでいく。
「下の名前で呼んでいい? そう聞いてくれた、次の日に……。違う女性の匂いを纏って帰ってきたのが、ただ、悲しかった。それだけなの」




