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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第82話 スパイスの熱と、消えない芳香

「いやーん。そんな真っ直ぐで純真そうな目、久しぶりに見たかも」


 彼女はナプキンを握ったまま、くすくすと喉を鳴らして笑った。

 メッシュの隙間から覗く白い肌が、彼女の吐息に合わせて微かに波打つ。その艶やかな雰囲気に、俺は毒気に当てられたように言葉を失う。


「え、いや……」

「水無月くんはどっちがいい? いた方が嬉しい? それとも、いない方が期待できるのかな?」

「なっ……そんなの、答えになってないじゃないですか」


 ……いた方が嬉しい?

 その言葉の意図が、俺にはさっぱり分からない。大人のひねくれた理屈が、理解不能なロジックだった。

 大人への道は、まだまだ遠い。

 

 困惑する俺の鼻先を、彼女は顎に添えていた指先を滑らせて、軽く突いた。

 至近距離で放たれる、体温の混ざった甘く重厚な香水の匂い。それがサルサの刺激的なスパイシーさと溶け合って、俺の脳をじわじわと痺れさせていく。


「うふ。でも実際、なんとでもなることだもん」

「……なんとでもなる、って。それって、要するにモテるってことですか?」

「そりゃあ、ね」

 彼女は否定せず、茶目っ気たっぷりにウィンクしてみせた。

 そして、黒のメッシュニット越しに透ける自分の曲線をなぞるように、わざとらしくポーズを決めてみせる。

 魅力的に、蠱惑的に。

 青少年の理性を焼き切るほど、暴力的に。

 

「お姉さん、この顔と体でしょ? そりゃもう、いくらでも言い寄ってくるわけよ。ね、健太くん」

「は、はい。もう、最高すぎますっ!」

 

 健太が、感極まったような顔で答えた。

 瞳が完全にハート型に固定されているアイツを見れば、酒々井さんの言葉が傲慢でも何でもない、ただの事実なのだと思い知らされる。

 病棟で数多のおじさん達を虜にしていた魔性は伊達じゃない。 

 若者の熱気に満ちたこの渋谷のど真ん中でさえ、彼女が纏う空気は異質なほど鮮やかで艶やかだった。

 

「うふ、ありがとう。……でも、水無月くんみたいな純粋そうで可愛い子にそんな風に聞かれちゃうと、お姉さんも考え直しちゃおうかな? なんて思ったりして」

 

 酒々井さんは楽しそうに喉を鳴らしながら、俺の肩にポンと手を置き、そのまましなだれかかるように体重を預けてきた。

 ニット越しに伝わる、抗いようのない柔らかな熱量。

 俺は必死に理性を繋ぎ止めながら、苦笑い混じりに彼女を制した。

 

 葵さん、俺、頑張ったよな。

 ……今晩、仕事から戻った彼女に、胸を張ってそう言えるくらいには。


「またそうやって揶揄う。ダメですよ酒々井さん。あと、残念ながら俺には好きな人がいるので、その手には乗りません。入院中のおじさん達とは違いますから」

 

 自分でも驚くほど、淀みなく言い切ることができた。

 俺の心の中にはもう、あの凛とした漆黒の一輪花が深く根を張り、大輪の花を咲かせている。

 ──それ以外の花なんて、もう、いらない。

 目の前にある甘美な誘惑も、鼻腔をくすぐる濃厚な香りも。

 彼女が残していったあの切ない温もりに比べれば、すべてはどこか遠い世界の出来事でしかなかった。

 

「ええー、残念すぎるんだけどー」

「はいはい……だから、その手には乗りませんって」

 

 大袈裟に肩を落として見せる酒々井さんに対し、俺は軽く手を振ってあしらう。

 でも、彼女の瞳はちっとも残念そうじゃない。むしろ「面白いものを見つけた」と言わんばかりの光を宿している。

 次の瞬間、彼女は「えいっ」とさらに俺の腕に、自分の身体をグリグリと押し付けてきた。


「ちょ、酒々井さん!? 近い、近いですよ」

「いいじゃない。振られたお姉さんを慰めると思って。ほら」

 密着した状態で逃げ場を奪われ、『酒々井さんの匂い』が暴力的なまでの濃度で俺の鼻腔とシャツに塗りつけられていく。


「それにしても言うわねぇ。『おじさん達とは違う』、か。なんだか逆に、燃えてきちゃいそうよ? キミ本当に高校生?」

「ちょ、ちょっと……っ!」

 耳元で囁かれる吐息の熱さに、たじたじな声を絞り出すのが精一杯。


 そんな俺たちの様子を、置いてけぼりにされた焦燥か、それとも親友を助けようとした義憤からか。

 ついに、正面の男がガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。

 

「は、はい! あのっ!」

「お、健太くん、どうぞ?」

 酒々井さんは俺に密着したまま、健太へ視線を投げた。健太はテーブルを張らんばかりの勢いで身を乗り出し、告げる。


「俺、立候補したいです! 俺なら蒼みたいに振りません! 全力で酒々井さんを見ます! 努力します!」

「お、また物凄く真っ直ぐなのが来たわね〜」


 酒々井さんは面白そうに目を細めると、健太をじっと見つめ……そして、残酷なまでに艶やかな笑みを浮かべた。


「んー、でも、健太くんはまだ無理かなぁ」

「ええっ、どうしてですか!?」

「だって、さっきから私の目を見ないで、胸ばっかり見てるんだもん」


「…………っ!!」


 健太が、文字通り石化した。

 図星だったのだろう。顔がみるみるうちに茹でダコのように真っ赤になり、ガタガタと震えながら椅子に沈み込んでいく。


「あ、いや、それは……その、あまりにも魅力的で……」

「うふふ、正直でよろしい。そこは好感持てるわよ? でもね、女の子はちゃんと目を見て喋ってほしいものなの。……彼みたいにね」


 酒々井さんはそう言って、俺の耳元にふっと吐息を吹きかけるように囁く。

 逃げ場のない密着。腕に伝わる柔らかな感触。

 健太への優しくも容赦のない、愛ある公開処刑を横で見せつけられながら、俺の理性は、いよいよ限界の淵へと追い詰められていた。


「私を好きなんじゃなくて、たぶん私の体が好きなだけ。そう思わせたら、男として損よ。キミは、それを今日一つ覚えた。それでいいじゃない。頑張んなさい、健太くん」

 最後はカラリと笑って、彼女は健太の肩をポンと叩く。

 その手のひらの温かさは、厳しくも温かい、まさに大人の手のそれだった。

 

 その後、俺たちは数軒のスポーツ用品店を巡ることになる。

 健太がさっきのボルダリングにすっかり感化され、本格的に興味を持ち始めたからだ。

 酒々井さんとお近づきになりたいという下心も、多分にありそうだけど……。

 何事もキッカケなんて往々にしてそんなもんだろう。俺はそんな健太を、どこか微笑ましい気持ちで眺めていた。


「俺、マジで始めてみようかな」

 と、健太は鼻息を荒くしている。

「健太くん、本気? いいね、応援しちゃう。初心者はまずシューズ選びが一番大事よ」

「酒々井さん、詳しいんですか!?」

「こう見えて毎週通ってるからね。ほら、このメーカーのは日本人の足に合いやすいのよ。履いてみて?」


 酒々井さんは、健太のボルダリングへの興味を茶化すことなく、親身になってアドバイスを送っていた。時折、健太の慣れない手つきを笑いながらサポートしたり、二人でウェアのカラーリングについて盛り上がっている。


 ……よかった。酒々井さん、ちゃんと健太の相手をしてくれてる。

 俺一人に集中していた熱気が健太の方へ分散されたことに、俺は心の底からホッと胸を撫で下ろす。

 健太も憧れのお姉さんと楽しそうに会話できて、これ以上ないほど幸せそうだ。

 これなら、普通の『休日のお買い物』として穏やかに終われるはず。


 ──そう、油断した矢先のことだった。


「水無月くん、このウェアとか似合いそうじゃない?」

「そうですかね」

「ちょっと合わせてみようか。……あ、じっとしててね」


 健太が試着室に入っている隙を突くように、彼女がこちらへ歩み寄る。

 ウェアを俺の体に当てる際、彼女の指先がわざとなのか偶然なのか、俺の胸をじわりと掠めていく。

「ちょっと肩幅、きついかな……? 失礼〜」

 

 彼女は俺の背後に回ると、サイズを確かめる名目で、俺の肩を両手で包み込むようにグッと引き寄せた。

 背中に伝わる、ニット越しの確かな弾力と熱量。

 耳元で、彼女の吐息が混じったあの重厚な香水の匂いが、濃密に、そして暴力的なまでに俺を包囲する。


 囁き声と共に、俺の肩をなぞるように滑り落ちる彼女の指先。

 それは先ほど健太に見せていた「面倒見の良いお姉さん」とは明らかに違う、確信犯的な、俺一人に向けられた甘い『毒』。

 ……くっ、やっぱりこの人、油断できない!


 ようやく建物の外へ出たとき、街はすっかりオレンジ色の夕景に染まっていた。

 ショッピングバッグを提げた健太の、スキップでもしそうな浮かれた足取り。それとは対照的に、俺の足元は泥沼に足を取られたかのようにどこまでも重い。


 別れ際、酒々井さんが俺にだけ向けた「またね」という唇の動きと、意味深な含みを持たせたウィンク。

 それがこれから先の平穏をかき乱す、甘くて棘のある招待状のように思えてならなかった。


  * * *


 酒々井さんと別れ、夕暮れ時の街を健太と二人で歩く。

 祭りの後のような静けさの中で、健太がポツリと口を開いた。


「……俺、つい見ちゃうんだよな」

 それは、今日一番の真面目なトーン。

 酒々井さんに「目を見て喋って」と諭されたことが、彼なりに相当こたえたのだろう。

 

「気持ちはわかる。でも、女性ってのは俺たちが思っている以上に、視線の意図に敏感らしいぞ。酒々井さんみたいな人なら、なおさらな」

「今日から気をつけるわ。サンキューな蒼。おかげで目が覚めた。じゃあな!」


 健太は少しだけ大人になったような、吹っ切れた笑顔を見せて改札へと消えていった。

 友を送り出し、一人残された俺は、肺の奥に溜まった澱を吐き出すように深く、重いため息をつく。


「……さて」

 

 自嘲気味に自分の肩越しに鼻を近づけてみる。

 夕方の冷たい風に晒され、街を歩き回ったはずなのに。

 メキシカンの刺激的なスパイスの残り香と、酒々井さんのあの『甘く重厚な大人の香り』は、まるで自分の領土を主張するように、しつこく俺のシャツに居座り続けている。

 

 それどころか、彼女にグリグリと身体を押し付けられた時の熱さえ、いまだに肌に張り付いているような気がして。


「……これ、どうしようか」

 この匂いを纏ったまま、俺は彼女の家のドアを開けなければならない。

 

 どうかまだ、帰っていませんように。

 君と暮らしてから初めて願う、君の不在。

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