第81話 極彩色の壁と、望まざる「モテ期」
「あれ、もしかしてキミ……水無月くん? 嘘、本当に偶然!」
喧騒のなかで、鈴を転がすような澄んだ大人の声音が響く。
振り返ったその人は、病棟でもおじさんたちのアイドルとして君臨していたあの華やかさを、都会的でタイトなスポーツウェア姿でさらに鮮やかに塗り替えた、鮮烈すぎたあの女性だった。
「酒々井さん!? ……え、こんなところでボルダリングですか?」
「ダイエットの一環で始めたら、すっかりハマっちゃって。……それにしても、渋谷のど真ん中で再会だなんて。これって、もしかして運命かな?」
悪戯っぽく囁く、病棟のおじさんたちのアイドル様。
あまりに無邪気で、それでいて確信犯的な『運命』という言葉選びに、俺の心臓は変な跳ね方をする。
叶うのなら。俺の『運命』という言葉は、ただ一人の──あの、黒髪の美しい女性のために取っておきたい。
そんな甘美な言葉遊び、俺には必要ない。
少なくとも今は、本気でそう思っている。
……けれど、同時にこうも思う訳だ。
渋谷のど真ん中で、これほど美しく、芳醇な大人の色気を纏った年上の女性に「運命」なんて囁かれて。
渋谷の屋上公園、突き抜けるような青空。
ここ最近の俺は、どうにもおかしい。
これが人生最高のモテ期というやつだろうか。それくらいに、何もかもがうまくいきすぎている。
世界の彩りが、鮮やかすぎる。
こういう時こそ、気を引き締めるべきだ、と。
「骨折の具合はどう? 先生の言いつけ守って、ちゃんと安静にしてたかな?」
「安静かどうかはわからないですけど、無理はしてませんよ」
俺が苦笑いして、三角巾の右手と固定された左手の指を見せると、彼女は柔らかく目を細めた。
「ちょっとお姉さんに、見せてみ?」
「ど、どうぞ」
酒々井さんは何の躊躇いもなく、するりと俺のパーソナルスペースを鮮やかに侵略してくる。八雲店長もそうだけど、大人の余裕というやつは、どうしてこうも自然に距離を消し去るのだろう。
彼女の細い指先が、俺の手の包帯にそっと触れる。
「うん、順調そうね。包帯もちゃんと巻けてるし。お利口さん」
「……お利口さんって。子供じゃないんですから」
思わず苦笑混じりの反論が漏れる。
けど、覗き込むように顔をさらに近づけられ、ふわりと漂ってきた高価そうな香水の匂いに、言葉の続きが喉に張り付いた。
どこか重厚な芳香。都会の夜を凝縮したような香りに包まれ、俺の思考は一瞬で真っ白に染まりかける。
「ちょ、蒼、おい! 俺にも紹介してくれよ! 頼むから……死ぬ、羨ましすぎて死ぬ!」
隣で健太が、今にも泣き出しそうな表情で地団駄を踏む。
「すまん、あまりに自然すぎて忘れてたわ」
「ひでえ、この状況で親友を忘れるとかお前、鬼かよ」
「冗談だろ」
「……紹介するよ。同級生の小園 健太です。健太、こちらは入院中にお世話になった、総合病院の看護師さんで酒々井さんだ」
「健太くんね。よろしくね、酒々井です」
「あ……あの、小園 健太といいます。よろしくお願いしまっす」
「元気ね。……あぁ、運動したらお腹空いちゃった。もしよかったらこれから軽くどう? お姉さんがご馳走してあげる」
健太の返事は、言うまでもなく「イエス」一択だ。
これはもう、聞くまでもない。彼の目は明確にそう告げていたから。
「じゃあ、パークセンターで着替えてくるから、ちょっと待っててくれる?」
酒々井さんが更衣室へ消えると同時に、健太がすごい剣幕で詰めてくる。
「蒼、お前! あんな、あんな最高なお姉さんとどこで知り合ったんだよ!」
「だから、入院中の看護師さんだって言っただろ」
「あんなの反則だろ! 『運命』だぞ? 『お姉さんに見せてみ?』だぞ!? ちくしょう。いつの間に病院ってのは、天国みたいな場所になってたんだ。もっとお見舞いに行くべきだった!」
健太の絶叫に近い興奮が、屋上公園の青空にどこまでも広がっていく。
彼はそのまま、恨みがましい視線を俺にぶつけてきた。
「なあ蒼……九条さんといい、高階さんといい。で、今回の酒々井さんてか? 最近のお前マジでおかしいぞ」
「そんなこと、俺に言われても、な」
思わず、乾いた苦笑が漏れた。
他の男たちから見れば、今の俺はとてつもなく羨ましい奴なんだろうな。
でも、その実情は。誰にも言えない秘密と、出口のない、息の詰まるような恋慕の連続なんだぞ。
吐き出せない辛さは、誰にもわかるまい。
「なあ、酒々井さん彼氏いるのかな? ああでも、看護師さんだろ? 俺たち学生なんか相手にしてくれないよな……」
さっきまでの勢いはどこへやら、健太は急に現実的な壁にぶち当たったように肩を落とし始めた。
「知るかよ。気になるなら、本人に聞いてみたらどうだ?」
「人ごとだと思って! そうだ、お前が聞いてくれよ。あんなに仲良さそうなんだからさ。な、いいだろ?」
「なんで俺が。嫌だよ、自分で聞けよ」
「頼む蒼、一生のお願いだ。この通り!」
お前の一生は、何回あるんだよ……。
呆れながらも、俺は酒々井さんの去っていった扉を、どこか緊張を孕んだ心地で眺めていた。
健太の必死すぎる視線をどうにか受け流していると、更衣室から着替えた酒々井さんが戻ってくる。
彼女が纏っていたのは黒のメッシュニット。
ざっくりとした網目の隙間から、インナー越しに彼女の艶やかな体のラインが透けて見える。特に、その抜群の膨らみは、メッシュが作る陰影によっていっそう立体感を増し、見る者の視線を強制的に惹きつける圧倒的な存在感を放っていた。
これは、目に毒だ……。
思わず、心の中でそう毒づく。
歩くたびに漂う、甘く重厚な大人の香りが、周囲の熱気を一変させる。
正面に回った健太の目が、完全にハート型に固定されているのがわかった。ああ、駄目だ。コイツ、完全に魅了されてやがる。
「お待たせ。同じ建物の中に、美味しいメキシカンがあるんだけど、どう?」
「美味しそうですね」
「ぼ、僕はお姉さんがいるなら、どこでもいいっす!」
「あらあら」
店内に入ると、ピリッとしたサルサの酸味とスパイスの刺激的な香りが鼻をつき、胃袋を容赦なく煽って来る。
そこに肉が焼ける脂の香ばしさが混じり合う。
店内は連休を楽しむ若者たちの熱気で満ちていた。
……タコスか。
実を言えば、お昼はもう済ませていた。
家を出る前に葵さんが用意してくれた、ミックスサンド。一口ずつ、彼女の気遣いを噛みしめるように味わった。
あれは本当に美味しかった。
文句なしに最高だったけれど、一口サイズに上品に整えられたそれは、育ち盛りの男子高校生の胃袋を完全に満たすには、少しばかり優しすぎたのかもしれない。
彼女への想いとは裏腹に。
スパイスの香りに暴力的なまでに胃の腑を揺さぶられ、脳が勝手に判断を下す。
これは別腹だ。余裕で収まる、と。
「隣、失礼しまーす」
酒々井さんが俺の隣に滑り込んできた。
メッシュ越しだからこそ生々しく伝わる、豊潤すぎる『二つの丘』の輪郭が、俺の左腕のすぐそばに迫る。
……これは見ないようにしないとな。
たとえ君の目がここになくても。こんな無様な視線を投げたら、今の俺を信じてくれている葵さんが、悲しむような気がしたから。
逆に、正面に座った健太の目は、もはや隠そうともせず釘付け。
……おい健太、もう少し遠慮しろ。
たぶん、それ。酒々井さんにバレバレだぞ。
「……あ」
案の定、食事が始まると俺の化けの皮はすぐに剥がれ落ちた。
右手はギプス。左手は添え木の三本指。
崩れやすいタコスを攻略するのは、なかなかに骨が折れる。いや、比喩じゃなく本当に折れているんだけどな。
……なんてな。
無理にかじりついたものの、溢れ出した真っ赤なサルサソースが唇の端を汚し、あろうことかシャツの白い襟元に鮮やかな染みを作ってしまう。
「あちゃ、タコスなら行けると思ったけど、逆に食べにくかったかぁ。お姉さんのチョイスミスだわ。ごめんね」
「いえ、何を食べたところでコレですから……。酒々井さんのせいじゃありません。それに、味は最高です」
「良かったぁ。あ、そのまま……じっとしててくれる?」
酒々井さんが、ごく自然な動作で俺の顔を覗き込む。
彼女は紙ナプキンを手に取ると、俺の顎先をそっと指先で持ち上げた。上目遣いの彼女と、至近距離で視線が絡み合う。
酒々井さんは俺の唇の汚れを、丁寧に、慈しむように拭い去っていく。
「酒々井さん、自分で……自分でやりますから……!」
「いいの、いいの。任せなさいって。……はい、お洋服の方もトントン、ね」
彼女の指先が、首筋に近い襟元を軽やかに叩く。
鼻を突く濃厚な香水の匂いと、ニット越しに伝わる二つの丘の柔らかな圧迫。それらが嵐のように俺の感覚をかき乱し、理性という防波堤をじわじわと削っていく。
正面では健太が ただただ恨みがましい表情でこちらを睨みつけていた。
……わかったよ。聞けばいいんだろ。聞けば。
俺は健太の無言の圧力に屈し、熱を持った喉をそのまま震わせてみる。
「あ、あの……酒々井さん」
「なーに? まだどこか、お姉さんに綺麗にして欲しいところある?」
「いえ、そうじゃなくて……。酒々井さんって、その……彼氏、いるんですか?」
意を決して放った一言に、健太がびくっと肩を跳ねさせた。
酒々井さんは俺の襟元を拭っていた手を止めると、獲物を見つけた猫のように、面白がるように目を細めた。
その瞳が一瞬だけ艶やかに輝いたのは、どうしてだろうか。




