第80話 予期せぬ再会
「それじゃあ、行ってくるわね。蒼くん」
「気を付けて、仕事、頑張りすぎないように。すぐ無理するから」
「うん、気をつける」
送り出しの言葉を告げると、彼女は扉に手をかけたまま、少しだけ首を傾げてこちらを振り返った。
「名前で呼んでくれないの?」
「い、いってらっしゃい、葵さん……っ」
不意打ちのおねだりが、強すぎるよ。
精一杯絞り出した声は、自分でも情けないくらいに上ずっていた。
「ふふ、ありがとう。いってきます」
満足そうに柔らかく微笑むと、彼女の指先が俺の頬に軽く触れる。
ほんの一瞬。吸い付くような指先の感触が、そこから先へ進むことを自ら律するように、名残惜しげに離れていった。
パタン、と扉が閉まり、君が外の世界へと切り離される。
途端に訪れるのは、彼女の不在を強調するような、広すぎる静寂だった。
……さてと。
ゲームで時間を潰す気分でもなければ、溜まった家事に追われることもない。
彼女が完璧に整えてくれた、とても穏やかで、けれどどこか物足りない一人の日常がここにある。
「勉強でも、するか」
誰に聞かせるでもない独り言をこぼし、俺はリビングのテーブルに向かう。
彼女の淡い残り香が漂うこの場所が、今は俺の主戦場。
不自由な左手を駆使して、分厚い参考書を広げる。
どうせ立つなら、いつか対等に。あるいは彼女を追い越すほどの結果を出して、胸を張って隣に立ちたいじゃないか。
彼女の手前、格好はつけてみたものの──『さん』という敬称が、俺の現在地を冷酷に物語っていた。
ペンを握り、数式とこれでもかと格闘する。
紙をめくる音とペン先が走る音だけが、静かな部屋に刻まれていく。
そうして随分と時間が、過ぎたころ。
ふとした思考の合間に。
張り詰めた集中力がふっと緩む、その移ろいの隙間に、
「……葵」
居ないはずの彼女の名前を、唇に乗せてみた。
まだ耳慣れないし、当然、口にも馴染まない。されど抗いようもなく甘美な響きを持つ名前。
たった三文字の音が、静まり返ったリビングに恥じらうように溶けていく。
誰も見ていない。
誰も聞いていない。知るものはいない。
なのに、心臓が跳ね、顔が熱くなるのはどうしてだろう。
羞恥を振り払うように、俺は再び参考書に視線を落とした。
会えない時間は、彼女に追いつくための研鑽の時間にすればいい。そう思えば、この孤独な精励の時さえもが、いつか訪れる二人の未来へと繋がる心地よいものに思えてくる。
──なら、俺はもっと頑張れる。
ポコン。
俺の決意を、間の抜けた音で邪魔するように。
机の上に置いた、彼女と同じ色のスマホが震えた。
健太:「蒼、暇か?」
蒼:「勉強中だけど、暇といえば暇だな」
健太:「おまwww GW中に勉強するとか九条さんかよww」
思わず苦笑が漏れる。健太にしてみれば、連休中に机に向かうなんて正気の沙汰ではないのだろう。
だがな、健太。お前の話し相手は今、皮肉にもその「九条さんww」の家で、彼女の残り香に包まれながら勉強しているだなんて、夢にも思わないだろうな。
蒼:「連休前、九条さんはモデルの仕事って言ってなかったか?」
健太:「ああ、そういえば言ってたな。ってそれは今はどうでもよくて。暇なら渋谷で会わねえ? 連休中一人だと暇だろ?」
「一人だと暇だろ」という言葉が、胸を少しだけチクリと刺した。
確かに、彼女のいないこの部屋は広すぎて、あまりに静かで味気ない。
日がな一日、数式と睨めっこをするのもさすがに気が滅入る。俺は一度、大きく伸びをしてから、指を動かした。
蒼:「分かった。何時にする?」
健太:「今から昼飯がてら渋谷来ねえ?」
昼飯か……。
俺は視線をキッチンへと向けた。
そこには、彼女が出かける前に用意してくれた皿が、丁寧にラップをかけられて置かれている。
不自由な腕でも食べやすいようにカットされた、ハーフサイズのミックスサンド。
具材がこぼれないよう工夫されたそれは、彼女の細やかな慈愛の塊。
これがあるのに、外で食べる選択肢なんて、悪いが俺にはない。
蒼:「いや、昼飯はもう用意されてるんだ」
健太:「は? 飯が用意って、誰が」
……しまった。
蒼:「誰がって、そりゃお前……オーダーイーツに決まってるだろ」
健太:「ああ、なるほどな。もう頼んじまったのか。じゃあ13時半にハチ公前でどう?」
蒼:「OK、了解」
ふう、と深く息を吐き出してスマホを置く。
危ないところだった。彼女が淹れておいてくれたコーヒーを一口。喉の渇きと一緒に、冷や汗を流し込んだ。
*
連休の熱気に浮かされた渋谷の街は、暴力的なまでの密度で膨れ上がっていた。
普段なら気にならない程度の接触も、三角巾で腕を吊っている今の俺には、いつ激痛の引き金を引くかわからない凶器の奔流に見える。
「おーい! 蒼! こっちこっち!」
ハチ公前の騒音を突き抜け、健太の元気な声が耳に届く。
パーソナルスペースを確保するだけで体力を削られるこの人混みの中で、彼の裏表のない笑顔は、唯一見知った安全圏のようで少しだけホッとする。
「すまん、連休を舐めてたわ。めちゃくちゃ人が多いな」
「オーバーツーリズムってやつか? 外国人も随分と増えたからなあ。で、どこ行くんだ」
「パークの方にいかね? ちょっと見たいもんがあるんだよな」
どちらにしろ、この人溜まりの中に立ち止まっているわけにもいかない。
喧騒を縫うように抜け出し、俺たちは渋谷の新たな象徴、MIYASHITA PARKの屋上へと逃げ込んだ。
突き抜けるような青空と、人工芝の緑。
そこにサンドコートで遊ぶ若者たちの熱気が合わさり、地上とはまた違う、どこか作り物めいた無機で開放的な空間が広がっていた。
「うおっ、蒼! 見ろよボルダリング。これこれ、一度やってみたかったんだよな」
健太が指さした先には、都会の真ん中にそびえ立つ巨大なクライミングウォールがあって。うねったコンクリートの壁に、原色の青や赤、黄色といった色とりどりのホールドが、まるでキャンバスに散らされた絵の具みたいに鮮やか。
重力に逆らって取り付く人々。不自由な今の俺には縁のない競技だけど、健太は獲物を見つけた子供のように瞳を輝かせている。
こういう新しいスポーツを前にした時の喜びよう。運動神経抜群な、実に彼らしい反応だと思う。
「あ、おい健太。そんなに凝視すると、やってる人の邪魔に……」
「いや、壁じゃなくてあのお姉さんだよ! 見ろよ、あのスタイル。めちゃくちゃ良くねえ?」
「……お前も好きだな、本当に」
「胸もめちゃくちゃデカいしよ。マジで、レベル高すぎだろ」
「なあ、前から気になってたんだけどさ、健太。お前、顔と胸とならどっちを重視するんだ?」
あまりに低俗で、あまりに平和な、男子高校生の会話。
健太は「なんだよ、それ」と笑いながらも、真剣な顔で考察を始めた。
「そうだな……学校で例えるなら。先生は美人で大人の魅力があるけど、胸が控えめなのが惜しいぜ。九条さんは全てが完璧なんだけど、胸は普通より少し上程度だろ。高階さんに至っては──」
「おい、健太」
俺は、自分でも驚くほど低い声で言葉を遮った。
「なんだよ、蒼」
「……九条さんの評価は、いい。聞きたくない」
心臓の奥が冷たく、鋭く波立つ。
以前の俺なら、「バカ言ってろ」と適当に笑い飛ばしていただろう。
でも今は、例え親友であっても。彼女の身体を勝手にパーツ分けして、値踏みされるような話は気分が悪い。
耐え難い不快感がある。
「……っ。へいへい、悪かったよ。急にマジなトーン出すなよ。にしても蒼、最近は俺よりよっぽど九条さんにお熱だよな。前はもっと冷めてたじゃんか」
健太は一瞬たじろぎつつも、面白そうにニヤニヤしながら俺の肩を小突いた。
「今は、席が隣なんだ。……嫌でも目に入るし、情も移るだろ」
「まあ、いいや。じゃあ言い直すわ。あのお姉さんか、長谷川さんくらいあれば最高だな。俺の理想はそこに尽きる!」
「ようするにお前は、デカけりゃいいのか?」
「愚問だろ。男のロマンを否定するなよ」
「お前……結構、最低だな」
「馬鹿言え、聞いたお前が悪い」
そんな最低な会話を交わしながら、俺は健太の視線の先を追った。
ウォールのそばで、こちらに背を向けて立っている一人の女性の姿を。
スポーティーでタイトな服装は、その肢体を包み隠すどころか、むしろその肉感を扇情的に強調しているようでさえある。
薄手の生地が吸い付くように背中のラインをなぞり、そこから急激なカーブを描いて、豊潤な丸みを帯びた腰回りへと繋がっている。
健康的な肉体美、という言葉だけでは足りない。
しなやかな筋肉の上に、柔らかな女性特有の質感が絶妙なバランスで乗っている感じか。動きに合わせてタイトなパンツが張って、浮きたつ曲線には、同年代の女子には決して出せない大人の毒気が孕んでいて。
「……あんなのそうそう拝めるもんじゃねえぞ」
健太の鼻息が荒くなるのもわかる。
やがて、横に回った彼女の身体が、微かにこちらを向く。
何かに考え込むように、少しだけ首を傾げるあの独特の癖。逆光に縁取られた圧倒的サイズ感……。
俺は確かに……知っているぞ。




