第79話 誓約が呼び覚まし想い、君の名は「葵」
想いの拒絶。
世にこれほど残酷で、心を引き裂くものがあろうか。
想う人に、その熱情を物理的に遮られる。本来ならば、それは魂が削り取られるほどの痛みを伴う絶望であるはずだ。
『なぜ応えてくれないのか』という、身勝手な怒りさえ芽生えるものかもしれない。
けれど、その唇を塞ぐ白い指先から、彼女の微かな諦念が伝わってくるから。
一本の指が、彼女自身の渇望を押し殺すための痛みであることに気づかないほど、俺は馬鹿じゃなかった。
だからその冷えた拒絶が、俺の心を傷つけることはない。
むしろ、愛おしささえ込み上げてくる。
「いつだって、君は正しい。そうだよな、ここは我慢するべきだ。先生の覚悟も、君の想いも、全てを裏切るわけにはいかない」
ゆっくりと顔を離し、自嘲を込めて息を吐き出す。
好きな女性に口づけを拒まれるという、無様極まりない光景なはずなのに。不思議と、惨めさはなかった。
突き放された寂寥感よりも、彼女が俺たちの未来を守ろうとしてくれたことへの感謝が、昂ぶった血を静かに宥めてくれたからだろう。
「蒼くん……」
「なあ、一つだけ君にお願いがあるんだ」
「うん、言ってみて」
叶わぬ余韻のまま、わずかな距離で向き合い。
俺は言葉を紡ぐ。
「我慢するよ。これ以上先へ進むことも、君へ届けたい言葉だって飲み込むさ。でも一つだけ、欲しいものがある」
「うん」
「九条さんという呼び方は、教室にいるクラスメイトであり、敬うべき他人への呼称だよな。この家にいる間だけでいい。……君を、下の名前で呼びたいんだ」
彼女は、弾かれたように目を見開いた。
潤んだ瞳が、驚きに大きく揺れる。
「だめ、かな?」
「ううん。……いい、よ。……いいよ、蒼くん。ううっ……」
堪えきれなくなったように、彼女の目から大粒の涙が溢れ出した。
それは見えない檻への絶望ではなくて、名前という、最もパーソナルで大切な領域を許し合えたことへの、切実な喜びの滴なのか。
「あ、葵さん、泣かないで」
これ以上先へ進むことは、許されない。
けれど、高鳴る鼓動を共有することまで禁じられてはいないはず。先生だって言っていたよな。『人が人を好きになることは本来とても良いことよ』と。
俺は、折れそうなほど細い彼女の身体を、布越しに精一杯、力強く抱きしめた。
君の顎が俺の肩に乗る。
肌と肌を触れ合わせることは、もうできない。
直接、重なり合うことも叶わない。
だからこそ、俺たちは衣服という頼りない境界線を挟んで、お互いの存在を確認するように力を込めた。
彼女の指先が俺の背中に回り、シャツをギュッと掴む。
その感触は、どんな饒舌な告白よりも分かりやすい、鮮やかな肯定の印。
その夜。
俺たちは、突如として始まったこの歪で甘い同居生活の中で、初めて何も語らず、どこも触れ合わせず眠りについた。
ただ、互いの呼吸と、名前を呼んだ余韻だけを抱いて。
「葵さん」
暗闇の中で、その名をそっと紡いでみる。
今まで何度も、心の中でだけ呼んでいた特別な響き。
「蒼くん」
すぐ近くで、鈴を転がしたような声が俺の名を呼ぶ。
それだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。心地よい、窒息にも似た感触。
俺は、確かめるようにもう一度、その名を呼んだ。
「……葵さん」
「はい。……蒼くん」
これはもう会話ではない。
お互いがここにいることを。この檻の中だけは、互いの魂が線で繋がっていることを、一文字ずつ確認し合っているような、静かなる儀式。
「葵さん、おやすみ」
「蒼……くん、おやすみなさい」
慈悲という名の鎖に縛られた俺たち。
何かを失った気がするけれど。
その代わりに、俺たちはたった一つ、何よりも確かな「絆」を勝ち取ることができたのかもしれない。
進めないと知って初めて、どれほど深みへ踏み込んでいたかを知る。
手に入れてはいけない。そう禁じられた途端、どうしようもなく欲してしまうなんて。
……まるで、分別のない子供じゃないか。
我ながら、救いようのない、度し難い阿呆だと思う。
窓の外では、冷たい夜風が吹き荒れている。
けれど、この愚かな檻の中だけは、驚くほど静かで、温かい。
失ってはいけない、ただ一つの温もりが、ここにあるから。
*
カーテンの隙間から差し込む白い光が、まだ見慣れない天井を淡く照らしている。
昨夜の嵐のような出来事を経て、俺たちはこの甘くて切ない暮らしを、どうにか続けることを許された。
朝の気怠さを引きずったままリビングへ向かうと、そこには既に朝の用意を終えた彼女が立っていて。
キッチンから漂う香ばしい匂いが、ここが紛れもない俺たちの生活の場であることを、強く実感させてくれる。
「おはよう……葵、さん」
昨夜、身を削るような思いで呼び合ったその名前。
朝の光の中で再び口にすると、夜の熱情とはまた違う、くすぐったいような微熱が胸の奥に灯る。
「蒼くん、おはよう。よく、眠れた?」
「どうなんだろうね。よく、わからないや」
「ふふ、私も。一緒ね」
彼女は手を止め、綻ぶように微笑んだ。
向かい合って食卓につき、野菜を中心とした、モデルである彼女らしい健康的な朝食を頂く。昨夜の重苦しい『誓約』は、今のこの穏やかな空気の中では、どこか遠い異国の出来事のようにさえ感じられた。
あれは、常に俺たちを縛り付ける鎖ではないのかもしれない。
ただ、気持ちが高ぶって、あと数センチの距離を埋めたくなったその時にだけ、鋭く冷たい感触を持って俺たちを引き戻す『境界線』なのか。
そして、その線が引かれている限り、俺はまだ葵さんを「自分のものだ」と胸を張って宣言することはできない。
そのもどかしさが、朝のコーヒーの苦味と一緒に喉の奥へと沈んでいった。
「今日も、仕事かい?」
「ええ。午前の撮影が終わったら、そのまま次のスタジオ。……でもね、明日はお休み貰えそうなの」
「本当に? じゃあさ、もし葵さんが疲れていなければ、どこかへ出かけないか?」
「えっ」
「あー、こんな手でよければ、だけど」
俺の提案と少しの自虐に、彼女は少しだけ意外そうに目を見開いたあと、朝日を一杯に受けた花のように明るく笑った。
毎日これだけを見ていたい。
そう願わずにはいられないほど、眩しい笑顔がそこにある。
「嬉しい。うん、行きましょう。二人で」
弾むような声。
けれど、ふとした沈黙の折に、彼女が少しだけ首を傾げて俺を覗き込んでくる。
「ねえ、蒼くん。一つだけ、訊いてもいい?」
「ああ、いいよ」
「どうして……葵さんなの?」
昨夜、あんなに近くで、下の名で呼ぶ許しを得たのに。
その後に続く「さん」という二文字が、今の彼女には、ほんの少しだけもどかしく感じられたのかもしれない。
「それは、俺なりのけじめだからだよ」
「けじめ?」
フォークを置き、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめる。
「俺はまだ、君に何も伝えていないだろ。……中途半端な奴なんだ。本当の意味で、俺の想いが君に届いて、君の許しを貰えたその時に、『さん』を外そうと思ってる」
自らの職を賭してまで俺たちを守ると決めた先生への義理。そして何より、二人の将来の為に自制すると誓ってくれた彼女への、今の俺にできる最大限の誠実さだと思ったから。
でも、本当はまだある。
もっと泥臭くて、情けない理由が。
勇気をもって少し、吐き出してみようか。
今のこの、君の笑顔と穏やかな光の力を借りて。
「それに。……君は知らないだろうけどさ」
やっぱり照れ臭くなって、視線をサラダの端へと逃がす。
「あー、その。九条 葵は、ずっと俺の憧れだったんだ」
「……」
「学校一の才媛で、誰よりも綺麗で。だからいつも、こっそり見てた。そんな人を急に呼び捨てにするなんて……流石に、まだ無理だよ」
「そんな、憧れだなんて」
「本当のことさ、隠してもしょうがない」
俺の言葉に、彼女は呆気に取られたように絶句した。
やがて、その白い頬が、朝日よりも鮮やかな朱色に染まっていく。
「……私もずっと、見ていたのよ」
「え、誰を?」
「誰をって、……もう」
『肝心なところで』そう言いたげに、彼女は少しだけ唇を尖らせる。
学校での凛とした彼女からは想像もつかない、年相応に可愛らしいその表情。
「あなたを、よ。蒼くん」
「君が? 悪いけど、それは嘘だよ。学校じゃ、全然視線なんて合わなかったじゃないか。俺は目で追ってた自覚があるけど、君と目が合った記憶なんて、そうは……」
「だって……見つからないようにしてたもの」
今度は彼女が照れ隠しにカップを両手で包み、少しだけ身を縮めた。
「気づかれないように、誰にも見つからないように。……ずっと、あなただけを追いかけてたのよ」
告白のようなその言葉が、朝の柔らかな空気の中に溶けていく。
俺が彼女を天頂と仰ぎ見ていたその時、彼女もまた、その高い場所から、地上のどこかにいるはずの俺を必死に探していたのか?
「ホントに? ……全然、気づかなかった」
「ふふ、そうでしょうね」
これまで一度も重なり合うことのなかった二つの視線が、今、この狭い食卓の上でようやく一つに結ばれた。




