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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第78話 見えない硝子の数センチ

 玄関の扉が、抗いようのない寂寥(せきりょう)を秘めた重い音を立てて閉まった。

 先生の足音が遠ざかるにつれ、この部屋にかつてないほど濃密で、そして刺すように冷たい静寂が戻ってくる。


 九条さんは、玄関で糸が切れた人形のようにぺたんと座り込んでしまった。

 ──愛し合わないで、か。

 先生が置いていったその言葉は、救いという名の透明な鎖となって、今、この部屋の四隅を縛り上げている。


 俺たちは許された。

 けれど同時に、これまでのどんな拒絶よりも強く、呪われたのかもしれない。

 もし一線を越えれば、あの人(先生)の人生が壊れてしまう。

 いつも俺を信じ、応援してくれた……この最悪の状況ですら自らの職を賭してまで守ると言ってくれた、大好きな先生を裏切ることなんて、到底できはしない。

 それに、何よりも大切な君の経歴に、傷を残す訳にはいかない。

 それだけは、絶対に。

 

 けれど、視線の先で。

 玄関に座り込んだままの君が、折れそうなほど細い肩を小刻みに震わせている。その姿を見て、理性は懸命に「離れろ」と命じているのに、身体は逆らうように彼女の傍へと歩み寄ってしまう。

 魂が、不可視の糸で吸い寄せられるように。

 

「……九条さん」


 近くに寄ると、彼女の唇から、零れ落ちるような低い囁きが漏れていた。

 それは小さく、とても小さく耳に届いて。

 あまり聞こえない。


「I decided to give you all the love I have left in my life.(一生分の愛を、残り全てで貴方に捧ぐと決めたのに)」


 密やかで、流暢すぎて聞き取れない異国の言葉。けれど、今にも泣き出しそうなほど悲痛な響き。その意味を正確に捉えることはできなくても。

 彼女が自身の魂を薄く削りながら、祈るように言葉を紡いでいる。

 そう思わせるほどに、それは見ていてとても痛々しいものだった。


「We can't love each other, but I have to protect his future.(愛し合えない。でも、彼の将来は守らないといけない……)」

「But irreplaceable time is being lost.(でも、かけがえの無い時間が失われていく)」

 

 呪文のように繰り返される独白。

 彼女が何をそんなに恐れ、何を思っているのか。その深潭(しんたん)に触れたくて、俺はもう一度その名前を呼んだ。


「九条さん」

 少しだけ、強く。

 

「あ……ごめんなさい」


 ハッとしたように顔を上げた彼女に、俺は不自由な左手を不器用に差し出す。

「床は、冷えるから。ひとまず、中に入ろう」


 彼女は俺の手を見つめ、一瞬躊躇ったあと、その細い指先を俺の掌ではなく、袖へと伸ばした。──その瞬間だった。 

 ギュッ、と。

 驚くほど強い力で、彼女が俺の腕を引き寄せる。

 意図せぬ強い引きに、重心を奪われる。両腕が不自由な俺は、咄嗟に身体を支えることができない。バランスを保つ術がなかった。


「危なっ」

 無様に体勢を崩した俺は、床に座る彼女の正面へと、覆いかぶさるように倒れ込んでしまう。

「ごめん、大丈夫? 膝当たってない? どこも痛くないか?」

「……うん」

「ああ、よかった」

  

 床についた膝が、彼女の綺麗に畳まれた両足を挟むようにして収まる。

 気が付けば、彼女の顔は、わずか十数センチほどの距離にあった。触れ合っていないはずなのに。混じり合う互いの吐息が、驚くほど熱い。

 九条さんの瞳が微かに潤んだまま、俺の瞳の奥をじっと覗いている。


 先生の『愛し合わないで』という声が、耳の奥で再び鳴った気がした。

 けれど、これほどまでに美しい想い人が、この至近距離で、潤んだ瞳と微かに震える唇を晒しているのだ。

 嫌がるそぶりすら見せずに。


 ……正論だけで己を縛り付けられるほど、俺は強い人間じゃなかった。


 九条 葵さん、俺は──君が好きなんだ。

 けれどその言葉は今、この瞬間から、口にしてはいけない最悪の禁句となる。


 一度でも言葉に乗せて晒せば、俺たちはこの部屋ごと、底知れぬ深みへ堕ちてゆくだろう。

 それは終わりの始まり。

 互いを溺れるまで求め、貪りあった果てに待つのは……。

 二人を繋ぎ止めていた社会という細い糸は千切れ、居場所は消える。そして、自らの教員人生を賭してまで信じてくれた、あの人の未来を無惨に踏みにじることにもなる。


 沼の底は、どこまで行っても沼でしかない。

 淀み、(おり)のように積もり、朽ちてゆくだけの場所だ。


 分かっているんだ。

 君を愛する時は、こんな暗がりの沼ではなく、誰もが祝福してくれる光の下でなければいけないことくらい。

 頭では、嫌というほど分かっているんだ。


 それでも、見つめ合う彼女の、熱を孕んで潤んだその唇に触れてみたい。

 感じてみたい。

 そこに触れるのは、この世で唯一、俺にだけ許された最大級の特権なのだと、彼女の態度がそう教えてきてくれたから。

 あの病室で出会ってからの君は、ずっとそうだったから。

 だから今の俺にとって、それは自らの破滅と引き換えてでも手にしたい、禁断のエデンの実へと変わっていた。


 俺は吸い寄せられるように、顔を近づける。

 君は逃げない。拒まない。

 互いに瞳を瞑ることさえ忘れ、ただひたすらに、相手の存在を網膜の奥に焼き付けようと見つめ合う。彼女の吐き出した熱い吐息がそのまま俺の肺に流れ込み、内側から俺を焼き焦がしていく。


  俺の吐息と、彼女の吐息。どちらがどちらのものか判別がつかなくなるほど、二人の『個』が境界を失い、混ざり合っていく。


 かつて臆病で、いつもどこかで逃げ道を探していた俺。

 けれど君はいつだって、逃げ場のないほど真っ直ぐな、真剣すぎる想いをぶつけ続けてくれたよね。誰にも恥じず堂々と。

 その積み重なった純真な熱量こそが。

 誰にも踏み込むことさえ許されなかった、あまりに美しく、あまりに峻厳な──世界の天巓。『九条 葵』という至高の頂きに挑むための、たった一つの、けれど絶対的な自信を俺にくれたから。


 俺は今度こそ、その頂きに手を伸ばすよ。

 もし滑落し、無惨に死んだとて。もう、後悔なんてしない。

 

 交わされる無数の想いが、あと数ミリで重なり合う。

 

 そうして、触れた。

 君に。


 けれど、唇に届いたのは、待ち望んだ熱い感触ではなかった。


 ひんやりとした、けれど驚くほど柔らかな彼女の人差し指。それが、熱を帯びた俺の唇を優しく、けれどこれ以上ないほど冷徹に横切って、その先を塞いでいた。


「今は、まだ……ダメ。愛し、あえないの……」

「……っ」


 九条さんの声は、今にも泣き出しそうなほど震えていた。けれど、俺を見つめる瞳だけは、透明な決意を湛えて澄み渡っている。

 混じり気のない、純粋すぎる俺たちの想いは。

『誓約』という名の、見えない透明な壁に阻まれる。


 止められない愛と、止めざるを得ない愛。

 相反する二つの純真が激突し、火花を散らした時。

 俺たちは一体、どうすればいい。

 なあ、誰か正解を教えてくれよ。

 

 分別の付いた大人から見れば、きっと、滑稽でしかないのだろうな。

 泥濘の中でもがき、互いの存在に縋って、内側から血を吐いてでも。

 それでもなお、一歩でも先へ進みたかった。

 

 触れたかった。

 

 これは、そんな()()で奏でる、泥だらけのセレナーデ。

 笑いたければ、笑えばいい。

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