第78話 見えない硝子の数センチ
玄関の扉が、抗いようのない寂寥を秘めた重い音を立てて閉まった。
先生の足音が遠ざかるにつれ、この部屋にかつてないほど濃密で、そして刺すように冷たい静寂が戻ってくる。
九条さんは、玄関で糸が切れた人形のようにぺたんと座り込んでしまった。
──愛し合わないで、か。
先生が置いていったその言葉は、救いという名の透明な鎖となって、今、この部屋の四隅を縛り上げている。
俺たちは許された。
けれど同時に、これまでのどんな拒絶よりも強く、呪われたのかもしれない。
もし一線を越えれば、あの人の人生が壊れてしまう。
いつも俺を信じ、応援してくれた……この最悪の状況ですら自らの職を賭してまで守ると言ってくれた、大好きな先生を裏切ることなんて、到底できはしない。
それに、何よりも大切な君の経歴に、傷を残す訳にはいかない。
それだけは、絶対に。
けれど、視線の先で。
玄関に座り込んだままの君が、折れそうなほど細い肩を小刻みに震わせている。その姿を見て、理性は懸命に「離れろ」と命じているのに、身体は逆らうように彼女の傍へと歩み寄ってしまう。
魂が、不可視の糸で吸い寄せられるように。
「……九条さん」
近くに寄ると、彼女の唇から、零れ落ちるような低い囁きが漏れていた。
それは小さく、とても小さく耳に届いて。
あまり聞こえない。
「I decided to give you all the love I have left in my life.(一生分の愛を、残り全てで貴方に捧ぐと決めたのに)」
密やかで、流暢すぎて聞き取れない異国の言葉。けれど、今にも泣き出しそうなほど悲痛な響き。その意味を正確に捉えることはできなくても。
彼女が自身の魂を薄く削りながら、祈るように言葉を紡いでいる。
そう思わせるほどに、それは見ていてとても痛々しいものだった。
「We can't love each other, but I have to protect his future.(愛し合えない。でも、彼の将来は守らないといけない……)」
「But irreplaceable time is being lost.(でも、かけがえの無い時間が失われていく)」
呪文のように繰り返される独白。
彼女が何をそんなに恐れ、何を思っているのか。その深潭に触れたくて、俺はもう一度その名前を呼んだ。
「九条さん」
少しだけ、強く。
「あ……ごめんなさい」
ハッとしたように顔を上げた彼女に、俺は不自由な左手を不器用に差し出す。
「床は、冷えるから。ひとまず、中に入ろう」
彼女は俺の手を見つめ、一瞬躊躇ったあと、その細い指先を俺の掌ではなく、袖へと伸ばした。──その瞬間だった。
ギュッ、と。
驚くほど強い力で、彼女が俺の腕を引き寄せる。
意図せぬ強い引きに、重心を奪われる。両腕が不自由な俺は、咄嗟に身体を支えることができない。バランスを保つ術がなかった。
「危なっ」
無様に体勢を崩した俺は、床に座る彼女の正面へと、覆いかぶさるように倒れ込んでしまう。
「ごめん、大丈夫? 膝当たってない? どこも痛くないか?」
「……うん」
「ああ、よかった」
床についた膝が、彼女の綺麗に畳まれた両足を挟むようにして収まる。
気が付けば、彼女の顔は、わずか十数センチほどの距離にあった。触れ合っていないはずなのに。混じり合う互いの吐息が、驚くほど熱い。
九条さんの瞳が微かに潤んだまま、俺の瞳の奥をじっと覗いている。
先生の『愛し合わないで』という声が、耳の奥で再び鳴った気がした。
けれど、これほどまでに美しい想い人が、この至近距離で、潤んだ瞳と微かに震える唇を晒しているのだ。
嫌がるそぶりすら見せずに。
……正論だけで己を縛り付けられるほど、俺は強い人間じゃなかった。
九条 葵さん、俺は──君が好きなんだ。
けれどその言葉は今、この瞬間から、口にしてはいけない最悪の禁句となる。
一度でも言葉に乗せて晒せば、俺たちはこの部屋ごと、底知れぬ深みへ堕ちてゆくだろう。
それは終わりの始まり。
互いを溺れるまで求め、貪りあった果てに待つのは……。
二人を繋ぎ止めていた社会という細い糸は千切れ、居場所は消える。そして、自らの教員人生を賭してまで信じてくれた、あの人の未来を無惨に踏みにじることにもなる。
沼の底は、どこまで行っても沼でしかない。
淀み、澱のように積もり、朽ちてゆくだけの場所だ。
分かっているんだ。
君を愛する時は、こんな暗がりの沼ではなく、誰もが祝福してくれる光の下でなければいけないことくらい。
頭では、嫌というほど分かっているんだ。
それでも、見つめ合う彼女の、熱を孕んで潤んだその唇に触れてみたい。
感じてみたい。
そこに触れるのは、この世で唯一、俺にだけ許された最大級の特権なのだと、彼女の態度がそう教えてきてくれたから。
あの病室で出会ってからの君は、ずっとそうだったから。
だから今の俺にとって、それは自らの破滅と引き換えてでも手にしたい、禁断のエデンの実へと変わっていた。
俺は吸い寄せられるように、顔を近づける。
君は逃げない。拒まない。
互いに瞳を瞑ることさえ忘れ、ただひたすらに、相手の存在を網膜の奥に焼き付けようと見つめ合う。彼女の吐き出した熱い吐息がそのまま俺の肺に流れ込み、内側から俺を焼き焦がしていく。
俺の吐息と、彼女の吐息。どちらがどちらのものか判別がつかなくなるほど、二人の『個』が境界を失い、混ざり合っていく。
かつて臆病で、いつもどこかで逃げ道を探していた俺。
けれど君はいつだって、逃げ場のないほど真っ直ぐな、真剣すぎる想いをぶつけ続けてくれたよね。誰にも恥じず堂々と。
その積み重なった純真な熱量こそが。
誰にも踏み込むことさえ許されなかった、あまりに美しく、あまりに峻厳な──世界の天巓。『九条 葵』という至高の頂きに挑むための、たった一つの、けれど絶対的な自信を俺にくれたから。
俺は今度こそ、その頂きに手を伸ばすよ。
もし滑落し、無惨に死んだとて。もう、後悔なんてしない。
交わされる無数の想いが、あと数ミリで重なり合う。
そうして、触れた。
君に。
けれど、唇に届いたのは、待ち望んだ熱い感触ではなかった。
ひんやりとした、けれど驚くほど柔らかな彼女の人差し指。それが、熱を帯びた俺の唇を優しく、けれどこれ以上ないほど冷徹に横切って、その先を塞いでいた。
「今は、まだ……ダメ。愛し、あえないの……」
「……っ」
九条さんの声は、今にも泣き出しそうなほど震えていた。けれど、俺を見つめる瞳だけは、透明な決意を湛えて澄み渡っている。
混じり気のない、純粋すぎる俺たちの想いは。
『誓約』という名の、見えない透明な壁に阻まれる。
止められない愛と、止めざるを得ない愛。
相反する二つの純真が激突し、火花を散らした時。
俺たちは一体、どうすればいい。
なあ、誰か正解を教えてくれよ。
分別の付いた大人から見れば、きっと、滑稽でしかないのだろうな。
泥濘の中でもがき、互いの存在に縋って、内側から血を吐いてでも。
それでもなお、一歩でも先へ進みたかった。
触れたかった。
これは、そんな俺と君で奏でる、泥だらけのセレナーデ。
笑いたければ、笑えばいい。




