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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第77話 巡礼の道、禁断の扉、血の誓約

 私は、震える手で熱を帯びた目元を覆い、肺の奥に沈殿していた澱をすべて吐き出すように、深くて、長い息を吐いた。

 次に目を開けたとき。

 私は「規律を守る教師」であることを、自ら捨てた。


 私、吉岡 七海の人生で、最初で最後の依怙贔屓(えこひいき)がいま始まろうとしている。


「……九条さん」


 掠れた声を懸命に整え、彼女を真っ直ぐに見据える。

「じゃあ、水無月くんはやっぱり、貴女の家にいるのね?」


 その問いは、もはや詰問ではない。

 二人を暴くための刃ではなく、目の前の少女が背負う重すぎる地獄へ、共に肩を貸すための最初の介入。


「はい……」

 九条さんの声が微かに、逃げ場を失った震えを伴って響く。


「案内してくれる? あの子にも、言っておきたいことがあるから」


 彼女の身体が、明らかに強張る。

 その瞳に、縋るような光と、すべてを拒絶するような影が交錯した。私はそれを遮るように、穏やかに、けれど断固とした揺るぎない大人の響きで告げる。

 彼女が今、何よりも欲しがっている言葉を。


「わかっているわ。貴女が守りたいその『秘密』は、先生、絶対に誰にも言わないから。……約束する。あと、二人を無理に引き離したりもしない。それでいい?」

 

 彼女は堪えていた呼気を吐き出すように、深く、深く一度だけ頷いた。


 夜の静寂が支配する二子玉川の街を、私たちは並んで歩く。

 たった五分の距離。けれどその一歩一歩は、教職という舗装された大通りを外れ、教え子たちの『泥沼』へと足を踏み入れる、長く重い巡礼のような道のりだった。


 辿り着いたマンションは、水無月くんの古びた家とは比べ物にならないほど上品で、洗練されていて──

(お、大人の私より、ずっと良いところに住んでるじゃない……)

 そんな場違いな感想で動悸を誤魔化しながら、彼女の背を追う。九条さんは震える手でカードキーをかざし、その禁断の扉を開けた。

 いよいよか。

 ふう、さすがに緊張するわね。

 

「……ただいま、水無月くん」


 扉の向こう、幽霊でも見たかのように目を見開いた水無月くんがいた。

「九条さん、遅かったから心配し──って、よ、吉岡先生!?」


 驚きのあまり、彼の手から参考書が滑り落ちそうになる。

 無理もないわ。

 こんな夜遅くに、担任が教え子のマンションの玄関に立っているなんて。ホラー以外の何物でもないわよね。

 

「ごめんなさい」

 消え入りそうな九条さんの謝罪。

 それだけで、彼はすべてを悟ったのだろう。狼狽を押し殺し、彼は私を真っ直ぐに見据えてきた。

 守りたい何かがある者の、強い眼差しで。

 ……九条さんも、この子も。今日は私の知らない貌ばかり見せてくれる。

 

「落ち着いて。……少し話をしましょうか」


 促すように室内へと足を踏み入れる。

 リビングには広げられたノート。キッチンの水切りには、ペアの食器が仲良さげに並んでいる。

 ……そして、リビングの手前にある扉。その先に何があるか。

 寝室の様子なんて、流石に今の私には劇物が過ぎるわよ。

 

 ここには、間違いなく二人の日常が息づいていた。

 世界から切り離された二人だけの温かな時間が、確かにここを家にしている。


「二人とも、座って。よく聞きなさい」


 あえて教壇に立つ時と同じ、峻厳な教師の声を意識する。

 戸惑い、身を固くする二人を交互に見て、まずは静かに口を開く。

 

「驚かせてごめんなさい。説明しておくけれど、先生、水無月くんが心配で毎日あなたの家を訪ねていたの。両手を怪我したまま、放っておけるわけないでしょう?」

 

 水無月くんがハッとして顔を上げた。

 

「そこで今日、たまたま家の郵便物を取りに来た九条さんと鉢合わせしたのよ。彼女、最後まで先生を追い返そうと頑張っていたわ。でもね、君の家の鍵を持っているのは、どう見ても不自然でしょ? そうやって無理やり聞き出したの。……だから、彼女を責めないであげて」


「わかりました。でも、吉岡先生。そもそも彼女は何も悪くない……悪いのは、好意に甘え続けた僕だ」


 拙い言葉で彼女を庇おうとする彼を、私はあえて峻烈な視線で突き放す。


「謝罪はいいわ。事情は彼女から聞いたから。それに、それが本題じゃないのよ」


 私は二人を交互に見据え、一音一音を楔のように打ち込む。

 ここからの言葉には、厳しさも必要だから。

 

「二人とも、私の大切な生徒であることに変わりはない。けれど、現実は残酷よ。良家の子女が集うこの学院において、男女の不純異性交遊には厳罰が処されるの。ましてや学生の身で同棲など、発覚すれば退学は免れない」


「それは、学院が最も忌み嫌う醜聞(スキャンダル)だわ」


 部屋の温度が数度下がったような、重苦しい沈黙。

 水無月くんの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。


「でもね。……その不自由な両手で、一人で生きていけなんて先生も言わない。誰かを想い、支えたいと願う心そのものは、とても尊いものだと信じているから」


 私は一度言葉を切る。

 そして二人を包み込むように。柔らかく、けれど力強く微笑んでみせた。

 この子たちに、教えたい。

 この広い世界で、貴方たちは決して一人きりではないのだと。


「だから……やるなら、最後まで徹底的に隠し通しなさい。先生を共犯者にするからには、中途半端な覚悟は許さないわよ?」


 意外な言葉に、水無月くんが顔を跳ね上げている。

 そりゃそうよね。まさか担任が、真っ先に自分たちの味方をするなんて、夢にも思わないでしょう。


「条件は二つ。一つ、学生としての本分を違えないこと。そして、怪我が完治したら元通りの生活に戻ること。……これを守れるなら」


 私は一息つき、さらに深淵へと踏み込む。

 ここからが、この誓約の『核』。三人の人生が掛かっている。

 

「先生ね、びっくりするほど力が無いの。何せ、まだこの年齢でしょう? 組織のしがらみの中では、私の言葉なんて木の葉のように軽いのよ」


「だから、いざという時に学院を黙らせる『武器』を頂戴。それさえあれば、私が二人の同居を『療養のための特例』として認めたことにできる。二人を守ることが出来る唯一の方法よ」


「武器とは、何ですか?」

 掠れる彼の声に、私は一際厳しい視線を投げかける。


「好き合うのはいい。でも、まだ『愛し合わないで』」

「……っ」

「……子供じゃないんだから、意味はわかるわね?」

「その、つもりです」

 

「一線を越えれば、私にはもう庇いきれない。貴方たちは退学。そして、それを認めた私も管理責任を問われ、職を失うことになる。そんなところかしら」

 

 辞職という言葉の重みに、部屋がしんと静まり返える。

 これは、単なる許可ではないから。

 彼らが過ちを犯せば、認めた私も共に破滅する。文字通り、私は自らの人生をチップにして、この歪な聖域の扉を閉ざし、守ることを決めたのだ。


「……先生」


 水無月くんの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 彼がどれほど彼女を想っているか、その深さまでは私にはわからない。けれど、私の投げ出した安寧という犠牲の重さを、彼はその賢明な瞳で、正しく受け止めてくれたのだと思う。

 二人の未来を守るための、私の不退転の決意。

 それだけで、私の賭けは半分報われたような気がした。


 一方で、九条さんは祈るように胸元で組み、震える唇で私の名を探していた。


 その瞳に宿ったのは、彼とは似て非なる光。

 彼女が何よりも安堵したのは、自らの将来でも安全でもない。

 ──大人の介入によって、水無月 蒼の『学歴』と『未来』が保証されたこと。

 ただその一点において、彼女の魂は救済されたのだろう。

 真実を知った今なら、痛いほど理解できる。


 けれど、その安堵のすぐ背後で。

 彼女の瞳に、静かな諦念が影を落としていくのを私は見た。

 誰の視線も届かない闇の中で、ただ一人堕ちていくはずだった蜜月。彼女の絶望的な愛を、私の倫理という名の鎖で繋ぎ止めてしまったから。


 「返事は? ちゃんと聞かせて頂戴」


 私は優しい微笑みを浮かべたまま、最後通牒を突きつける。

 水無月 蒼を守るために、私の用意した檻に入る覚悟はあるか。

 そう問いかける私の視線を、九条さんは逃げることなく真っ向から受け止める。


 「……はい、先生」


 震える声を、鋼のような意志で押し殺す。

 愛する者のために自由(愛欲)を捨て、檻に収まることを決めた「囚われの王女」のような気高さ宿る声で。


「僕も、約束します。先生を、これ以上困らせるような真似はしないと。そして、彼女の人生に影が差すことがないように。誓います」


 水無月くんは、真っ直ぐな瞳で私に誓った。

 この子は、どこまでも誠実だ。

 自分がどれほど愛され、その愛がどれほど歪んだ献身の上に成り立っているかも知らず、ただ正しい未来に向かって歩き出そうとしている。


 そんな彼の無垢な誓いを、九条さんはどんな想いで聞いているのだろう。


「約束、します。……水無月くんの未来を閉ざすようなことだけは、決して……しないと」


 その言葉には、水無月くんには決して理解できない、私と彼女の間だけで共有された凄惨な含みが宿っていた。

 私が出来るのは、ここまで。

 彼女を本当の意味で救えるのは、水無月くん。君だけなのよ。


 言えないもどかしさが、もう、辛い。

あとがき

数話続いた、吉岡先生が葵の深淵に触れるエピソード群を最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。

しばらくの間、物語は少しだけ肩の力を抜いて、蒼と葵、そして周りの面々が織りなす甘くて、どこか可笑しな日常へと戻ります。

二人の間に流れる、穏やかで(時には甘すぎる)ひとときを、どうか彼らと共に楽しんでいただければ幸いです。

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