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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第76話 運命の歯車に刻まれし刻印 ー№7ー

 それは、自らの安らぎを、彼と共に在る『大切な今』を侵そうとする侵略者()への、剥き出しの敵意。

 苛烈なる、宣戦布告以外の何物でもなかった。

 もう、私の知っている『九条 葵』ではない。理解を絶した業火に身を焼き、地獄すら厭わない覚悟を決めた、一人の女の貌だけがそこにある。


 私は、その抜身の刃のような気配に、息を呑んで立ちすくむ。

 教壇に立って数年、これほどまでの純粋な拒絶の刃を向けられたのは、後にも先にもこれが初めてのこと。

 

 直後。激昂の余韻をかき消すように、空恐ろしいほどの沈黙が部屋を満たす。

 音が、消える。

 ……本当に何も聞こえない、底知れない虚無が私を覆う。

 光さえも凍りつくような、零の気配。


 ドクン、ドクンと、自分の心臓の拍動だけが耳元で煩く鳴り。

 それなのに、眼前に立つ少女からは、呼吸の音さえ聞こえてこない。

 大人であるはずの私が。導くべき立場であるはずの私が。一回りも年若く、折れそうなほど細い彼女の放つ気配に圧し潰され、一歩も動けずにいた。

 

 喉が、肺が、見えない氷の手に強く締め付けられているような錯覚。

 何かを言い返さなければならないのに、紡ごうとした言葉は彼女の冷気に触れた瞬間、形を成す前に消散していく。


 ──こんな世界にいる貴女に、何を言っても安っぽい気がした。


 教育者としての正論も、大人としての慰めも。その矜持さえもが。

 今の彼女には、塵ほどの価値もない。そうよね。私の持っている正しさなんて、この暗い海淵の底では何の役にも立たない。

 

 それでも。私は、鉛のように重い足を、あえて一歩前へ踏み出したわ。

 鬼気迫る様子で私を射殺そうとする九条さんの、その瞳の奥──完璧な仮面がひび割れたその隙間に、私は見てしまったから。

 今にも千切れそうなほど細く引き絞られた、孤独な魂の震えを。

 

 喉の奥で、私の意志が私の名を呼んだ。

 ──踏み込め、七海。迷わずに進むのよ。


 彼女の深淵はその先にこそ、ある。

 直感が、私の背中を突き動かす。


 この子は、いま救わなければならない。

 ここで私が目を逸らし、この部屋を去ってしまったら、彼女は二度と戻ってこれない場所へ堕ちてしまう。砕け散ってしまう。そんな予感がある。

 もう、一刻の猶予も残されていないのだ。


 私は感謝する。嗚呼、今日この子を見つけることが出来てよかったのだと。思いは確信へと変わる。

 凍てついた心臓の奥に、昏い熱が灯ってゆく。

 

「来ないで、いや……っ」


 拒絶の声は、今にも消え入りそうなほど震えていた。

 私はその震えを、もう逃がさない。

 決めたわ。貴女を、刺し違えてでも救い出す。染まった昏い灯で貴女を照らす。


 氷のような気配を臆せず突き抜けた先で、私はその細い身体を、包み込むようにそっと抱きしめてあげた。そうしてあげたかった。

 サイズの合わないスウェット越しに伝わってくる彼女の体温は、驚くほど冷たい。

 モデルとして世間を魅了する『九条 葵』は、私の腕の中で、壊れかけの硝子細工のように頼りなく強張っていた。


「……ごめんね。何も気づいてあげられなくて」

「……」

「ごめんね。偽物の先生で」


 腕の中で、九条さんの身体がびくりと跳ねる。

 耳元で、私は一人の不器用な女として、偽らざる本音を吐き出していく。


「大人って、いつも傍観するばかりよね。安全で正しい場所から見ているだけで、偉そうに理屈を並べるだけ。本当に暗い場所にいる子の手は、誰も握ろうとしない。汚れ仕事は面倒だって、心の中で線を引いてね」


「せ、先生……?」


 掠れた声が漏れる。

 私を突き放そうとしていた彼女の指先が、迷うように私の背中の布地を掴んだ。教師としての正論でもなく、学院のルールでもない。

 ただ、己の偽物さを認め、彼女の孤独を自分の非として受け止めた私の言葉に、彼女の強固な城壁がやっと……音を立てて崩れ落ちていく。


「先生、は……私たちを、断罪しに来たのでは、ないのですか……?」

「いいえ、最初はそうだったのよ。でも、今は違う」

「今は違う?」

「ええ、私は、二人を守りたくなった。……世間からも、学校からも。そして、自分を追い詰めすぎている貴女自身からも」

 

 抱きしめる力を、少しだけ強める。

 よれよれのスウェットに染み付いた、それは水無月くんの残り香なんでしょうね。それに縋ることでしか正気を保てなかった彼女の絶望が、私の胸に重く、冷たく伝わってくる。

 

「ずるい……。攻撃してこない相手を、私は攻撃することができません……」

 九条さんは私の肩に顎を預けたまま、絞り出すような声で呟いた。

 その言葉は、彼女がこれまでどれほど冷徹に世界を遮断し、一人武装し続けてきたかの裏返しのような言葉。

 そんな風にしか聞こえなかった。

 

「九条さん……全部、教えてくれる? ただし、その内容が余りにも陳腐だった場合は、やっぱり叱らせてもらうわよ?」

 

 あえて、少しだけ意地悪な教師の口調を混ぜて言った。

 万が一にも、それが「好きだからずっと一緒に居たい」という程度の、若さゆえの浅はかな理由なら、大人として、教師として、全力で二人を叱らなければならない。

 それが、この子たちの未来を預かる私の責務なのだから。

 ありえないとわかってはいても、ね。


 けれど、返ってきたのは、言葉を失うほどに静かな拒絶だった。

 残された、最後の防壁が私の前に(そび)える。

 

「先生、ごめんなさい。やはり無理です」

 

「……どうして?」

 

「たぶんもう、そんなに長くないから。彼に本当のことが知られて……私が捨てられる日が、必ず来る。どうかそれまでの間、静かに見守ってもらえませんか?」

 

 その言葉は、私の胸を鋭く抉った。

 理由はわからない。けれど、決定的な破滅の予感が彼女にはあるのだろう。

 この子がこれほどまでに心血を注ぎ、魂を削ってまで守ろうとしている日常が、たった一つの『真実』によって崩壊すると。

 彼女自身が、誰よりも確信しているというの?

 そしてそれは、もう遠くない未来だと言う。


「捨てられるなんて、そんなこと。水無月くんに限って──」


「いいえ。彼は、優しいからこそ、私を絶対に許せない。だから、それまででいいんです。この、名前のない蜜月が終わるまでは、どうか……」


 彼女はゆっくりと私の腕から離れると、何処か遠くを見つめるような瞳で薄く微笑んだ。ひび割れた仮面の隙間から覗くのは、救いを求める少女ではなく、自らの破滅をただ静かに受け入れた『愛の亡霊』のような。

 あまりにも純粋で、狂おしいまでの覚悟だった。

 

「……九条さん、貴女は一体何を抱えているの? 先生に……私に話して。私は心の底から貴女たちの力になりたい。本当よ」

「……先生」


 彼女は、私の瞳を真っ直ぐに見据える。


「話せば、先生はもう、ただの傍観者ではいられなくなりますよ? 私を心の底から軽蔑し、憐れみ、そして聞かなければよかったと……後悔することになる」


「それは──、聞かなければわからないわ」


「そう、ですか」


「誰にも、彼に絶対に明かさないと、約束してくれますか?」


「ええ、誓うわ」


「わかり、ました……」

 

 彼女は、絞り出すように吐いた。

 そして、ゆっくりと私から体を離すと、何処か吹っ切れたような手つきで、自らへと指先を這わせたわ。


「──っ、九条、さん……?」

 私が制止する間もなかった。彼女が、自らの存在を定義していた何かを、乱暴に拭い去ったとき。

 目の前の少女の印象が、音を立てて塗り替えられていく。


 それから彼女は、絞り出すように紡ぐ。

 その薄い唇から語られていく彼女の過去は、私の想像を、倫理を、そして救済の限界を遥かに超えていたことを知る。


「なっ……、そんな、ことって……」


 膝の震えが止まらない。

 そんなことが、あっていいの? これは、たかだか十数年しか生きていない子に負わせていい傷じゃない。

 そして何よりも悲しいのが、誰にも悪意がない。

 だからこそ、慈悲がない。


「だから、私は……こう、あると決めたのです」

「でも、それは……! 彼だってきっと混乱……」


 言いかけた言葉を、彼女は静かな首振りで遮った。

 慰めは不要。そう語る瞳だった。ああ、たぶん。この呪いを解けるのは世界でただ一人しかいないのだ。

   

 目の前が暗転し、肺の空気がすべて抜き取られたような感覚。目の前に立つこの美しい少女は、今まで……こんな、地獄のような『冬』を一人で歩いてきたというの?

 貴女は、そこまでして。

 これほどまで無惨に自分を偽り、塗り潰して、今日まで私の前に立っていただなんて。


「先生。私は、あなたには嫌われたくなかったのに……残念です」


 少女の、己全てを賭した覚悟を知ったとき。

 私、吉岡 七海の教職者としての人生で、最初で最後の依怙贔屓がいま始まる。

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