第75話 留め置かまじき激情
ああ、昔からそう。
私の悪い予感というものは、どうしてこれほど正確に的を射てしまうのか。
こういう時くらい、大外れして「先生、考えすぎですよ」と誰かに笑い飛ばしてほしいのに。
夜の帳が下りた古いマンションの廊下。
主を失い、静まり返っているはずのその窓から、場違いなほど煌々と光が漏れているのを見た瞬間、私の胸は言い知れぬ不安に掻き乱された。
水無月くんには身寄りがない。
事故で両腕が不自由な今の彼が、この古びた一室で一人きりで暮らすのは、どう考えても無理があった。……けれど、私は心のどこかで、そうであってほしいと願っていたわ。
不器用にもがきながらも、たった一人で孤独に耐えている──
そんな、私が救える範囲の姿であってほしかった。
なぜなら、もう一人の大切な教え子である九条さんと、あの子が二人、誰にも邪魔されない場所で仲睦まじく暮らす──
そんな事態は、我が学院が絶対に許しはしないから。
何より私個人としても、一人の教育者として、未成年の二人にはまだ早すぎると断じざるを得ないもの。そうでしょ?
どちらにしても、ここで逡巡していても始まらないわね。
私は、自らの疑念に決着をつけるべく、唇を嚙みながらチャイムを鳴らした。
無機質な電子音が、扉の向こう側で冷たく鳴る。
ほどなくして、内側から重い金属音とともに扉が開かれた。弾んだ、期待に満ちた……あまりにも甘くて若い、女性の声と共に。
「蒼く──」
私は、この声を知っている。
ああ、なんてこと。
開かれた扉の隙間から現れた彼女の姿に、私は膝が崩れ落ちそうになる。
これが、一番、望まない形での答え合わせだったのに。
あまりに、慈悲がない。
なぜ、よりによって貴女なの。
誰よりも清廉に、凛として。学業も私生活も、その背筋の伸ばし方一つとっても完璧だったこの子は、今年度から私の教え子。
受け持って分かる。学院の誇る才媛は、信じられないほど素直で思慮深い、良い子だった。彼女を疎む教師は、高等部に誰一人としていない。
だからこそ、私は彼女が可愛かった。近頃はモデル業の方でもかなりの人気と聞く九条さんは、意外なほどに欠席が無い。
それを不思議に思った私は、面談で尋ねたことがある。
「仕事も大変でしょうに。前も言ったと思うけれど、モデル活動を特別活動として、公休扱いにしたりレポートを提出したりすることで、単位として認めてあげることもできるのよ。無理をして毎日登校しなくてもいいの」
その時、彼女は「私にとって、何よりもこの場所での日常が大切ですから」と、確かな微笑みで答えてくれたのを、今もはっきりと覚えている。
あの時、私はなんて立派な子だろうと胸を打たれたのよ。
感動すらしたわ。
そんな、誰よりも理性的で自律的だった貴女が、どうして。
あろうことか、水無月くんの洗い古された、よれよれの感触さえ伝わってくるスウェットに身を包み、この世の終わりのような憔悴を顔に貼り付けて立ち尽くしているの。
その痛々しくも倒錯した光景に、教師としての憤りよりも先に、胸を締め付けられるような悲しみがこみ上げた。
一体、この子たちは何を背負い、何を隠しているというのか。
なぜ、これほどまでに追い詰められた瞳をしているの。
「……入れてくれる?」
「……はい、どうぞ」
彼女の声は、先ほどまでの甘さが嘘のように、驚くほど低く冷え切っていた。
促されるまま室内へ足を踏み入れる。
けれど、その瞬間に私の肌を撫でたのは、人が生活している場所特有の温かみではなく、無機質な冷気と重く沈殿した澱みだったのだ。
──何かが、決定的に狂っている。
教師としての、いいえ。
これはもう、一人の大人としての違和感と言っていいわ。
台所は生活の汚れ一つない。濡れてさえいないのだから。テーブルの上も然り。使いかけのコップも、脱ぎ捨てられた衣類も、読みかけの本もない。そこには『今日を生きている人間』の痕跡が、剥げ落ちるように欠落していたの。
ここには、誰も住んでいない。
肌を刺すような冷気と、あまりに静かすぎる空気が、その残酷な事実を私に告げていた。
標本のように、時を止めてしまった部屋で。
その中央、あろうことかずっと探し続けていた彼のスウェットを纏い、抜け殻のように佇む白磁の教え子。
……なんて、痛々しい姿なの。
学院の憧れの的だった貴女が、今は消えてしまいそうなほど小さく、脆く見える。
倒錯した光景に恐怖を覚えるよりも先に、私の胸を締め付けたのは……。一人の大人として、彼女を今すぐ掬い上げてあげなければならないという、悲痛な使命感だった。
今にも折れてしまいそうなほど小刻みに震えている、その細い肩。
何もかもを投げ出して、今すぐにでも彼女を抱きしめてあげたかった。大丈夫よ、と。貴女を責めたりしないから、もう一人で抱え込まないでと、その耳元で囁いてあげたかった。
けれど、私は教師として、溢れ出しそうな愛惜をどうにか理性で押し留め、彼女の瞳をじっと見つめる。
「……九条さん。聞かせてもらえるかしら」
できるだけ優しく、彼女の心を傷つけないように、温かな声を絞り出す。
「この部屋、驚くほど生活感がないわ。台所もテーブルも、コップ一つ使われた形跡がない。……水無月くんは今、ここには住んでいないわね? 彼はどこにいるの? 貴女の家に、いるのかしら」
私の問いかけに、九条さんは一瞬だけ視線を泳がせた。
けれどすぐに、いつもの凛とした、けれどあまりに危うい『優等生の仮面』を貼り付けて答える。
「……知りません。私は、何も」
「嘘をつかなくてもいいのよ、九条さん」
「嘘じゃ、ありません……。私はただ、彼が心配で様子を見に来ただけで……っ」
震える声で食い下がる彼女の、そのあまりの孤独に、私の目尻が熱くなる。
「じゃあ、貴女はどうして、主のいないこの部屋に入れたの? 鍵はどうしたの? それに、私がチャイムを鳴らした時、貴女は誰かと間違えて、あんなに嬉しそうに扉を開けたわよね」
「それは……」
九条さんの言葉が詰まる。
どんな難解な問題にも淀みなく回答を導き出してきた彼女の知性は、今、驚くほど冴えを失っていた。水無月くんのスウェットの中で、彼女の細い指先が所在なげに泳ぎ、視線は力なく床を彷徨っている。
「ねえ、九条さん。お願い、もう嘘はやめて。貴女は本来、こんな不誠実なことを口にするような子じゃないでしょう?」
それは、私の心からの信頼だった。
学院の誇る才媛であり、誰よりも自律的だった彼女なら、最後には「正しさ」を選んでくれるはずだという、教育者としての甘い期待があった。
けれど、その私の無垢な信頼こそが、彼女を救うどころか、剥き出しの逆鱗を撫で切る刃となってしまうだなんて。
誰が想像できるというの。
「──っ、先生に、私の何がわかると言うのですか!」
激しい声が、静まり返った部屋を震わせた。
九条さんは顔を跳ね上げ、私を強く睨みつける。その瞳には、今まで一度も見せたことのないような激情と、鋭利な拒絶の光が混ざり合うように。
「何も、知らないくせに!」
「九条さん……」
「本当は嘘なんてつきたくない! 誰よりも、彼にだけは誠実でありたいのに! それなのに、いつも、いつも……っ!」
喉を掻き切るような叫び。
その直後、彼女は自らの失言に気づいたように、震える手で強く口元を覆った。
溢れ出したのは、彼女がその細い身体で懸命に抱え込んできた、どろりとした執着と悲鳴のような何か。
真実を隠し、嘘を重ね、愛する者を欺き続けている日々だとでも言うの?
その歪んだ生活の中で磨り減り、ささくれ立った彼女の心が、私の「無垢な信頼」という刃に耐えきれず、ついに決壊してしまったかのような叫び。
「……九条さん、貴女、一体何を……抱えている、の?」
わからない。
理解を求め、私が一歩足を踏み出そうとした、その時だった。
「来ないで」
地を這うような低く沈んだ声が、部屋の空気を氷結させていく。
口元を覆っていた手をゆっくりと下ろし、私を見据えるその瞳。先ほどまでの悔恨も涙も、欠片ほども残っていない瞳。
ただ、己のすべてを賭して何かを守ろうとする、狂おしいまでの情念だけが昏く燃え盛っている。
「もし、私と蒼くんを先生が引き離すというなら──」
彼女はゆっくりと、敵を見るような目で私を射抜く。
その瞳に、静かなる業火を宿して。
「私は例え貴女が先生であっても許さない。……絶対に、許さない」
その言葉は、もはや単なる教え子の反抗ではなかった。
自らの安穏を、彼と共に在る『今』を侵そうとする私への、剥き出しの宣戦布告。




