第74話 アリアドネの糸
最寄り駅に降り立つ。
春の終わりの冷たい風が、内なる炎に焼き尽くされた私の肌を、無遠慮に、けれど慈しむように撫でてくれた。
スタジオで浴びたあの熱狂も、マネージャーの賛美も、耳を打ったカメラマンの賞賛さえも。今はもう遠い星の出来事のように現実味がない。
──今の私は、きっと歪んだ顔をしている。
鏡を覗く必要なんてなかった。
モデル『MINA』という強固な檻は、内側から溢れ出した激情によってドロドロに溶け落ちてしまったのだから。今の私を辛うじてこの世界に繋ぎ止めているのは、彼の傍に居続けるために必死に繕ってきた、『偽りの黒い翼』だけ。
このままじゃ、彼の前には帰れない。
これは自惚れじゃない。他愛のない戯言でもない。
異性と付き合ったことがない私ですら、わかるほどに──近頃の蒼くんが私に向ける瞳は、熱い。
彼は、今の私を好いてくれている。痛いくらいに、その真っ直ぐな想いを感じている。
だからこそ、今の私は彼が怖い。
彼の想いが、好意が、私への『熱』が強くなればなるほどに、その熱さは私が必死に広げているこの不浄な黒い羽根を無慈悲に焼き焦がしてしまうから。
……剥き出しになった私にとって。
この羽根は、醜い私を隠すための最後の覆い。
嘘で塗り固めたこの翼まで焼き失ってしまったら、私は、二度と彼の隣に飛んでいくことさえできなくなる。
「それだけは、嫌。……まだ、駄目」
祈るように呟いた言葉は、誰にも届かず虚空に消える。
まだ、このままでいたい。
完璧な『九条 葵』として、彼の熱に焦がされながら、甘い嘘の檻に閉じ込められていたい。
水無月 蒼くん。
あなたは、私の人生で最初で、最後の最愛だから。
私はふらふらと、彼と一緒に住む家とは違う方向へ歩き出した。
向かった先は、事故の前まで彼が一人で暮らしていた、あの古びたマンション。
駅の喧騒が遠のき、寂寥を孕んだ静寂が支配する住宅街。
主を失い、時間が止まったような郵便受け。私は震える指で、カバンの奥から合鍵を取り出した。
「……無事カエル、ね」
あなたの元へ必ず帰るから。そんな希望と願望が詰まった、緑のキミ。
まさにチャーム。
指先でなぞった可愛いカエルさんに誓う。自嘲気味に漏れた乾いた笑みは、静まり返った廊下に寂しく吸い込まれた。
重い金属製の扉を押し開ければ、そこには狂おしいほどに求めていた水無月 蒼くんの欠片が、澱みのように溜まっている。
彼がいない、空っぽの部屋。
なのに、今の私にはここが、世界で唯一の、息を継げる避難所に思えたの。
私は吸い寄せられるように、彼のベッドへと向かう。
ベッドサイドには、私がこの前おいたままの、洗い古したスウェットの寝巻があって。それを抱きしめ、大きすぎる胸に顔を埋めると、彼の体温がそこにあるような錯覚に陥って心が安らいだ。
「蒼くんの傍にいたいなら……私は、被り続けなきゃいけないのに……」
シーツの冷たさが、今の私には心地いい。
砕け散ったペルソナ。ドロドロに溶け落ちた仮面。その破片を一つ一つ拾い集め、もう一度『九条 葵』という形を繋ぎ合わせるために。
私は彼の残香に縋り、深い闇の中へと、ゆっくりと瞼を閉じるの。
思い出の中の彼なら、私を苦しめないから。
あと何回、私はこの砕けた仮面を直し続ければいいのだろう。
思考が、溶ける。
意識の糸がぷつりと途切れて──その安らかな闇は瞬きの間の出来事のようでいて、けれど確かに数刻の時を、私から奪い去っていた。
………………。
…………。
……はっとして、目を覚ます。
窓の外はすでに宵闇に沈み、部屋の中は輪郭を失うほどに暗くなっていた。
「いけない……」
あれだけ早く帰りたかったのに。
私は彼の残り香が燻るベッドで、泥のように眠りこけてしまっていたみたい。普段の私ならあり得ない失態。けれど、無理もないのかもしれない。
女には女の、私には私の。誰にも見せられない、喉元を焼くような秘密がある。
私の夜はいつも遅く、朝は誰よりも早い。
睡眠時間なんて、とうの昔に削ぎ落としてしまったわ。その積もり積もった負債が、彼の匂いに包まれた安堵感によって、一気に取り立てに来たのだろう。
私はベッドから起き上がると、パンパンと両頬を軽く叩いてみる。
熱は引いていた。
ドロドロに溶け出していた激情も、今は冷えて固まり、どうにか元の形へと繕うことができたと思う。
パチン、とスイッチを入れて明かりを灯す。
眩しさに目を細めながら、私は窓を大きく開け放った。
流れ込んでくる夜風が、部屋に充満していた『甘い澱み』をさらっていき、代わりに冷たく現実的な空気を運び込んでくる。
「……よし」
換気を終えると、私は手早く部屋の片付けに移る。
彼がいつ戻ってきてもいいように。あるいは、もう戻らないとしても、部屋が荒んでしまわないように。
……だめね。
またそうやって、ありもしない未来に期待している。
そして最後に、郵便受けに溜まっていたチラシや封筒を回収するの。念のため、これらは鞄に入れて持ち帰ろう。
あとで蒼くんに確認してもらわないといけないものね。
そうして、完璧な『九条 葵』の仮面を被り直し、部屋を出ようとした──その時だった。
ピンポーン。
静寂を切り裂いて、電子音が無機質に鳴り響く。
──え? 心臓が、早鐘を打った。
こんな時間に、誰?
いや、決まっている。ここは『彼の家』だもの。
帰りの遅い私を心配して、探しに来てくれたのかも……。
私の思考は、願望という浅ましい引力に引かれて、あっさりと破綻した。
冷静な私なら、彼が鍵を持っていることや、わざわざチャイムを鳴らす不自然さに気づけたはずなのに。
今の私には、『彼が迎えに来てくれた』という甘い可能性しか見えていなかった。
ひび割れた仮面から、どうしても漏れだしてしまうあなたへの熱が。
私を間違わせるの。
完璧なはずの私を、ただの、愚かな少女へと変えてしまう。
「はーい。今開けるわ」
あろうことか、私は弾む心を抑えきれず、ドアノブに手を掛けたの。
ガチャリ、と重い金属音と共に扉を開き──大好きな人の名前を呼ぼうとして。
「蒼く──」
その言葉は、喉の奥で凍りついた。
目の前に立っていたのは、愛しい彼ではない。
濃紺のスーツを身に纏い、驚きと、そして隠しようのない悲哀の色を瞳に湛えた一人の女性。
この女性を私は、知っている……。
「……よ、吉岡……先生?」
「九条さん? やっぱり……」
夜の冷気が、開け放たれたドアから一気に流れ込む。
やっぱり、この世界は容赦がない。




