表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

73/94

第73話 いつか、レンズの向こう側のあなたに届きますように

 八雲店長からの短いメッセージを、何度も読み返している。

『先生』──それは紛れもなく、あの吉岡先生のことだろう。


 いつも俺の身を案じ、真っ直ぐに気にかけてくれる優しい担任。二年連続で彼女のクラスになれて良かったと、心からそう思っている。

 けれどその先生が、今、()()()を探しているという。

 店長からの警告は静かに、俺の心に暗い影を落とした。


 九条さんに、伝えるべきか……?


 指が画面の上で、行き場を失って彷徨う。ふらふらと。

 けれど、今しがた「頑張ってくるね」と微笑んでドアを出た彼女の姿が脳裏をよぎって、その指は動きを止めた。

 これから彼女は仕事なのだと。

 その出端を挫くような不安の種を植え付けてどうする。よりによってお前が。

 彼女の撮影の邪魔になってはいけない。そうだろ?


「……今は、いい。帰ってきてから話せばいいさ」


 どうせ、俺はここからどこにも行きやしない。

 なら、リスクは無いのと同じだ。

 

 独り言ちて、俺はスマートフォンの画面を伏せた。

 その判断が、後に裏目に出ることなど、この時の俺は欠片も想像していなかった。

 俺は痛む左手で、八雲店長に短く返信を打つ。


 水無月 蒼:「ありがとうございます。頭に置いておきます」


 すぐに既読がついた。

 返ってきたのは、八雲さんらしい、どこか世俗を達観したような追伸で。


 八雲店長:「ただ、悪い人ではないと思う。店で話したが、彼女は彼女なりに、君たちを一生懸命心配していた。……あまり、美人の先生を悩ませるなよ、蒼」


「美人の先生を悩ませるな」で締めるところがまた、いかにもあの店長らしい。

 緊迫した状況でも余裕を失わない大人な振る舞いに、少しだけ毒気を抜かれる。


 置き土産のように。

 君の残した香りが漂う、静かなリビング。

 窓から差し込む朝陽はこんなにも明るいのに、玄関のドアの向こうから、先生による追求が刻一刻と近づいているような──

 そんな錯覚に、俺はただじっと耐えるしかなかった。


 * * *


「仕事は入れないでって言ったはずよ」


 都内の某地下スタジオ。

 足を踏み入れた途端、私は待ち構えていたマネージャーに鋭い声を投げつけた。

 どうしようもないことと、頭ではわかっていても、それを抑えることができなかったの。


 数十分前、家を出る時に蒼くんに向けたあの柔らかな微笑みの欠片も、今の私には残っていない。私の平穏、彼との聖域を無遠慮に侵されたことへの苛立ちが、言葉の端々に刺となって現れる。


「いや、申し訳ない。わかってたんだけど……クライアントが『どうしてもMINAじゃなきゃダメだ』って。社長も首を縦に振らないんだ」

「……学業に専念したい時はそうさせてもらう。それが契約の条件だったはずでしょう?」

「わかってるよ。本当にごめん。俺をあんまり苛めないでくれよ、MINAちゃん」

「知らないわよ」

 

 マネージャーの泣き言を、私は冷たく切り捨てた。

 プロとしての責任感はある。けれど、私が本当に守りたい場所は、モデルとしての華やかな椅子でも、ましてや学校の席でもない。

 ただ、あの部屋で待っている、彼の隣だけ。


 たったそれだけのことが。

 どうにも、思い通りにならない。

「……もういいわ。着替えてくる」


 今日、あの人が褒めてくれたから。

 それだけで、このシアーブラウスは私にとって最高にお気に入りの一枚になる。

 私はそれを、名残惜しさを無理やり振り払うようにして脱いでいく。


 ──次は、もう少し肌を隠す服にしよう。ふふ。

 彼が見せてくれた微かな独占欲。それを思い出し、冷え始めた胸の奥を温め直しながら、私は用意された『冬の鎧』へと袖を通していく。


 スタジオの照明が、パッと切り替わった。

 用意されたのは、カシミヤのマフラーに、厚手のウールコート。冬の都会を模した青白い光が、容赦なく私を『MINA』という偶像へと作り変えていく。


「蒼くん、私……頑張るね」


 鏡の中の自分に、誰にも聞こえない声で囁く。

 スタジオの中央へ向かいながら、私は恋に揺れるもう一人の自分を、心の奥深くへ閉じ込めた。

 今の私は、皆が求める演者、モデルMINAでなければならないから。


 剝き出しの九条 葵を求めてくれる人は、この広い世界のどこにもいない。

 ミナ、イツワリノワタシガダイスキ。

 シゴトバモ、ガッコウモ、アナタサエモ。

 

 ああ、寒い。


 セットの真ん中に立つと、そこだけ気温が数度下がったような錯覚に陥った。それとも、私の心が冷え切っているのか。


 今回の撮影テーマは、冬の街を彩る大型ポスター。

 メインコピーは、『好き……』

 サブコピーは、『だから、綺麗になりたい』

 この短い言葉に宿る、祈るような切なさと、身を焦がすような渇望。それをレンズに叩きつけなければならないのに。


「うーん、MINAちゃん。表情が硬いよ。もっと肩の力を抜いて」


 フラッシュの閃光が視界を白く染めるたび、カメラマンの不満げな声が飛ぶ。


「まだ硬いな。それではただ『寒いだけの子』だ。視線をもっと遠くへ……違うな。綺麗だけど、そこに『熱』がないんだよ」

「……すみません」

「コピーに負けてる。誰かを好きになった時のことを思い出して。その熱を顔に乗せてくれればいい。……難しいか?」


 続くダメ出しに、私はマフラーの中でそっと唇を噛んだ。

 求められているのは、美しいだけの人形じゃない。内側に制御不能な感情を飼いならした「恋する人間」の顔。

 誰かを想う熱。

 脳裏をよぎるのは、あの人しかいないよ。

 今まで生きてきて、それ以外の熱なんて、私は知らない。

 知りたくもない。


「……少しだけ、背中を向けてもいいですか?」

「ああ、いいよ。それで掴めるなら、いくらでも」

 

 私は一度、カメラを、そしてスタッフたちの視線を拒絶するように背を向けた。

 この無機質で冷え切った空間から意識を切り離し、あの狭く、けれど今は世界で一番温かいあの部屋へと、魂ごと飛んでいく。


 ──思いだして、私。

 彼が不自由な手で、私のために一生懸命パフェを作ってくれたあの日の光景を。

 膝の上にのって、その首筋に顔を埋めた。柔らかく抱きしめた腕の中に感じた、確かな温もりを。

 お互いの胸と胸を重ねて、トクトクと刻まれる『鼓動の交換』をした、あの幸福な時間を。


 蒼くん……。


 これまで、ずっと大好きという言葉の裏側に隠して、自分でも触れないようにしてきた、重すぎるほどの感情が漏れ出す。

 今の、誰も見ていない、レンズの裏側の私なら。

 本当の私を、曝け出してもいい。

 

「……大好きよ。水無月 蒼くん。心から……愛してる」


 秘めるような囁きで、その名をなぞる。

 途端に、心臓が爆発したように脈打ち、冷え切っていた白い肌の下を、狂おしいほどの熱い血潮が駆け抜けた。


 初めて口にした、禁断の言葉。

 それは、渇望という名の絶望。


 けれどそれを知ってもなお、魂が、身体が、歓喜に打ち震えてしまう。

 灰色に凍てついていた私の世界に、鮮烈な『赤』が差し込む。望んだ想いが、私の夢が、熱い血潮となって駆け巡る。

 MINAが……葵に侵食されてい……く。

 

 これが、レンズが求める熱でしょう?

 誰にも、世界にさえも見せるはずのなかった、私の剥き出しの──

 愛という名の毒。


「……お待たせしました」


 ゆっくりと振り返り、私はレンズを真っ直ぐに見据えた。

 ──さあ、撮って。


 そして見るが、いいわ。

 これが、世界でたった一人、彼だけが引き出せる私の激情よ。

    ・

    ・

    ・

 降り注ぐフラッシュの閃光。シャッターの連続音。


 ああ、蒼くん、私を助けて。

 冷徹だった『MINA』という仮面までが、内なる『葵』の放つ熱に焼かれ、ぐにゃりと形を失っていく。

 愛という名の業火は、もはや制御不能なほどに。

 魂の臨界点。


 私を『私』という檻に繋ぎ止めていた最後のリミッターが、今、甘美な音を立てて溶け落ちていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ