第73話 いつか、レンズの向こう側のあなたに届きますように
八雲店長からの短いメッセージを、何度も読み返している。
『先生』──それは紛れもなく、あの吉岡先生のことだろう。
いつも俺の身を案じ、真っ直ぐに気にかけてくれる優しい担任。二年連続で彼女のクラスになれて良かったと、心からそう思っている。
けれどその先生が、今、俺たちを探しているという。
店長からの警告は静かに、俺の心に暗い影を落とした。
九条さんに、伝えるべきか……?
指が画面の上で、行き場を失って彷徨う。ふらふらと。
けれど、今しがた「頑張ってくるね」と微笑んでドアを出た彼女の姿が脳裏をよぎって、その指は動きを止めた。
これから彼女は仕事なのだと。
その出端を挫くような不安の種を植え付けてどうする。よりによってお前が。
彼女の撮影の邪魔になってはいけない。そうだろ?
「……今は、いい。帰ってきてから話せばいいさ」
どうせ、俺はここからどこにも行きやしない。
なら、リスクは無いのと同じだ。
独り言ちて、俺はスマートフォンの画面を伏せた。
その判断が、後に裏目に出ることなど、この時の俺は欠片も想像していなかった。
俺は痛む左手で、八雲店長に短く返信を打つ。
水無月 蒼:「ありがとうございます。頭に置いておきます」
すぐに既読がついた。
返ってきたのは、八雲さんらしい、どこか世俗を達観したような追伸で。
八雲店長:「ただ、悪い人ではないと思う。店で話したが、彼女は彼女なりに、君たちを一生懸命心配していた。……あまり、美人の先生を悩ませるなよ、蒼」
「美人の先生を悩ませるな」で締めるところがまた、いかにもあの店長らしい。
緊迫した状況でも余裕を失わない大人な振る舞いに、少しだけ毒気を抜かれる。
置き土産のように。
君の残した香りが漂う、静かなリビング。
窓から差し込む朝陽はこんなにも明るいのに、玄関のドアの向こうから、先生による追求が刻一刻と近づいているような──
そんな錯覚に、俺はただじっと耐えるしかなかった。
* * *
「仕事は入れないでって言ったはずよ」
都内の某地下スタジオ。
足を踏み入れた途端、私は待ち構えていたマネージャーに鋭い声を投げつけた。
どうしようもないことと、頭ではわかっていても、それを抑えることができなかったの。
数十分前、家を出る時に蒼くんに向けたあの柔らかな微笑みの欠片も、今の私には残っていない。私の平穏、彼との聖域を無遠慮に侵されたことへの苛立ちが、言葉の端々に刺となって現れる。
「いや、申し訳ない。わかってたんだけど……クライアントが『どうしてもMINAじゃなきゃダメだ』って。社長も首を縦に振らないんだ」
「……学業に専念したい時はそうさせてもらう。それが契約の条件だったはずでしょう?」
「わかってるよ。本当にごめん。俺をあんまり苛めないでくれよ、MINAちゃん」
「知らないわよ」
マネージャーの泣き言を、私は冷たく切り捨てた。
プロとしての責任感はある。けれど、私が本当に守りたい場所は、モデルとしての華やかな椅子でも、ましてや学校の席でもない。
ただ、あの部屋で待っている、彼の隣だけ。
たったそれだけのことが。
どうにも、思い通りにならない。
「……もういいわ。着替えてくる」
今日、あの人が褒めてくれたから。
それだけで、このシアーブラウスは私にとって最高にお気に入りの一枚になる。
私はそれを、名残惜しさを無理やり振り払うようにして脱いでいく。
──次は、もう少し肌を隠す服にしよう。ふふ。
彼が見せてくれた微かな独占欲。それを思い出し、冷え始めた胸の奥を温め直しながら、私は用意された『冬の鎧』へと袖を通していく。
スタジオの照明が、パッと切り替わった。
用意されたのは、カシミヤのマフラーに、厚手のウールコート。冬の都会を模した青白い光が、容赦なく私を『MINA』という偶像へと作り変えていく。
「蒼くん、私……頑張るね」
鏡の中の自分に、誰にも聞こえない声で囁く。
スタジオの中央へ向かいながら、私は恋に揺れるもう一人の自分を、心の奥深くへ閉じ込めた。
今の私は、皆が求める演者、モデルMINAでなければならないから。
剝き出しの九条 葵を求めてくれる人は、この広い世界のどこにもいない。
ミナ、イツワリノワタシガダイスキ。
シゴトバモ、ガッコウモ、アナタサエモ。
ああ、寒い。
セットの真ん中に立つと、そこだけ気温が数度下がったような錯覚に陥った。それとも、私の心が冷え切っているのか。
今回の撮影テーマは、冬の街を彩る大型ポスター。
メインコピーは、『好き……』
サブコピーは、『だから、綺麗になりたい』
この短い言葉に宿る、祈るような切なさと、身を焦がすような渇望。それをレンズに叩きつけなければならないのに。
「うーん、MINAちゃん。表情が硬いよ。もっと肩の力を抜いて」
フラッシュの閃光が視界を白く染めるたび、カメラマンの不満げな声が飛ぶ。
「まだ硬いな。それではただ『寒いだけの子』だ。視線をもっと遠くへ……違うな。綺麗だけど、そこに『熱』がないんだよ」
「……すみません」
「コピーに負けてる。誰かを好きになった時のことを思い出して。その熱を顔に乗せてくれればいい。……難しいか?」
続くダメ出しに、私はマフラーの中でそっと唇を噛んだ。
求められているのは、美しいだけの人形じゃない。内側に制御不能な感情を飼いならした「恋する人間」の顔。
誰かを想う熱。
脳裏をよぎるのは、あの人しかいないよ。
今まで生きてきて、それ以外の熱なんて、私は知らない。
知りたくもない。
「……少しだけ、背中を向けてもいいですか?」
「ああ、いいよ。それで掴めるなら、いくらでも」
私は一度、カメラを、そしてスタッフたちの視線を拒絶するように背を向けた。
この無機質で冷え切った空間から意識を切り離し、あの狭く、けれど今は世界で一番温かいあの部屋へと、魂ごと飛んでいく。
──思いだして、私。
彼が不自由な手で、私のために一生懸命パフェを作ってくれたあの日の光景を。
膝の上にのって、その首筋に顔を埋めた。柔らかく抱きしめた腕の中に感じた、確かな温もりを。
お互いの胸と胸を重ねて、トクトクと刻まれる『鼓動の交換』をした、あの幸福な時間を。
蒼くん……。
これまで、ずっと大好きという言葉の裏側に隠して、自分でも触れないようにしてきた、重すぎるほどの感情が漏れ出す。
今の、誰も見ていない、レンズの裏側の私なら。
本当の私を、曝け出してもいい。
「……大好きよ。水無月 蒼くん。心から……愛してる」
秘めるような囁きで、その名をなぞる。
途端に、心臓が爆発したように脈打ち、冷え切っていた白い肌の下を、狂おしいほどの熱い血潮が駆け抜けた。
初めて口にした、禁断の言葉。
それは、渇望という名の絶望。
けれどそれを知ってもなお、魂が、身体が、歓喜に打ち震えてしまう。
灰色に凍てついていた私の世界に、鮮烈な『赤』が差し込む。望んだ想いが、私の夢が、熱い血潮となって駆け巡る。
MINAが……葵に侵食されてい……く。
これが、レンズが求める熱でしょう?
誰にも、世界にさえも見せるはずのなかった、私の剥き出しの──
愛という名の毒。
「……お待たせしました」
ゆっくりと振り返り、私はレンズを真っ直ぐに見据えた。
──さあ、撮って。
そして見るが、いいわ。
これが、世界でたった一人、彼だけが引き出せる私の激情よ。
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降り注ぐフラッシュの閃光。シャッターの連続音。
ああ、蒼くん、私を助けて。
冷徹だった『MINA』という仮面までが、内なる『葵』の放つ熱に焼かれ、ぐにゃりと形を失っていく。
愛という名の業火は、もはや制御不能なほどに。
魂の臨界点。
私を『私』という檻に繋ぎ止めていた最後のリミッターが、今、甘美な音を立てて溶け落ちていく。




