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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第72話 ダブルミーニング「警告」

「ふむ。吉岡先生。まだ一年とちょっとの付き合いですがね。私は蒼を──いえ、水無月くんを気に入ってるんです。今どき珍しいほどに真面目で、真っ直ぐで……そして、ひどく危うい」


「ええ……。それは、私も同じ気持ちです」


 八雲さんは小さく頷くと、棚から一客のカップを取り出した。

 ミルが豆を挽く。ゴリゴリと低く規則的な音が店内に響き始める。その無機質な音さえも、今の私には己の動揺を嘲笑うカウントダウンのように聞こえて、胸が締め付けられる。

 どうにも、落ち着けないでいた。

 

「聞かせてください。貴女は今、自宅にいない蒼を見つけ出して、どうしたい。彼を救いたいのですか? それとも、大人のルールで断罪するために探しているのですか?」


「そ、それは……っ」


 八雲さんはお湯を注ぎ始めた。

 細く、長く、一点の淀みもないお湯の筋。ドーム状に膨らむ粉から、芳醇な、けれどどこか冷淡な香りが立ち上る。

 私を試すような匂いが、じわり広がっていく。

 

「先生の答え方ひとつで、私は貴女の敵にもなるし、味方にもなる。……さあ、どうです。先生の想いは、どこにある」

 

「……これは、守秘義務にも関わることなので……。でも、私が言えるのは、あの子たちを守ってあげたいんです。それだけは、本当」


「ほう、守る? 何から」


「ええ。……私のクラスには、長い黒髪がそれは美しい少女がいます。その子と、彼が……今、密室で二人きりで過ごしているんじゃないかと。もしそうだとしたら、今の状況はあまりにも危険すぎる。私は、それが心配で……」


 私の震える声が、コーヒーの落ちる規則的な音に混ざる。

 八雲さんはサーバーからカップへ、静かに漆黒の液体を注ぎ入れた。

 その視線は私の顔を通り抜け、カウンターに置かれたままの不格好なレジ袋、そして指関節が白くなるほど袋を握りしめている私の指先へと注がれる。


「……九条ちゃんのこと、ですか」


 湯気とともに放たれたその名は、驚くほど低く、確信に満ちていた。

 彼が差し出したコーヒーカップから、熱い蒸気が私の顔をなでる。けれど、私の心は少しも温まらない。

 冷えていくばかり。


「やっぱり知っているのね、八雲さん。……誤解しないで。私は別に、古臭い道徳を振りかざして二人を責め立てに来たわけじゃないわ。高校生の男女が惹かれ合い、付き合う。そんなことは、今の時代普通でしょ。誰にも止める権利なんてない」

 

「ええ、そうですね。それは野暮な話だ」

 私は、一口もつけていないコーヒーの黒い水面を見つめ、一気に言葉を継いだ。


「でも、もし、よしんば二人が同棲状態にあり、大人のような関係なのだとしたら。話は別よ。そんな『不純異性交遊』、学院は……聖諒というブランドに群がる大人たちは、絶対に二人を許さない」


 カウンターを握る指先に、さらに力が入る。


「単なる恋人ごっこならいい。けれど、密室で肌を重ねるような真似をしているなら……それはもう、あの子たちの未来を根底から破壊する毒になるの。だから、私は探しているのよ。手遅れになる前に、私が止めてあげなきゃいけないから」


 八雲さんは何も言わず、ただ静かに私を見つめている。

 その凪いだ瞳に、私の『正義』がどう映っているのか。今の私には推し量る余裕もなかった。


「……八雲さん。あの子、今どこにいるの?」


 * * *


 眩い朝陽が、カーテンの隙間から零れ落ちている。

 いつもなら制服の擦れる音が聞こえるはずの時間。けれど今日、俺の視界に飛び込んできたのは、息を呑むほどに完成された九条 葵の姿だった。



 その身に纏うは、夜を薄く引き延ばしたような漆黒のシアーブラウス。

 繊細なメッシュ越しに透けて見える肩のラインや腕の肌が、柔らかな光を浴びて、陶器のように白く浮き立っている。

 たっぷりと膨らんだパフスリーブも、凄く印象的なんだ。

 彼女が動くたびに、空気を孕んだ黒いヴェールがふわりと揺れて、幻想的な輪郭を描き出すから。

 対照的にきっちりと閉められた襟元が、彼女の持つ淑やかさを際立たせ、えも言われぬ気高ささえ感じさせる。

 

 インナーの黒と、透ける肌の二重奏。

 学校で見せる制服姿が日常の完成形なら、今の彼女は、俺の手の届かない高嶺に咲く『一輪の奇跡』のようだ。


「……、変かな?」


 俺の沈黙をどう受け取ったのか、彼女は少し不安げに、ブラウスの袖をそっといじりながら首をかしげる。

 その仕草だけで、先ほどまでの『奇跡の花』のような空気は霧散し、いつもの、俺だけの九条さんが顔を覗かせた。


「……今日から、せっかくのお休みなのに。本当にごめんなさい」


 玄関で靴を履き終えた彼女が、申し訳なさそうに眉を下げて俺を振り返る。

 その瞳には、仕事に向かう決意と、俺を置いていくことへの未練が、複雑なマーブル模様のように混ざり合っていた。


「仕事なら、しょうがないさ。気にしないで」

「……うん。今日は、そんなに遅くならないとは思うの。終わったら、すぐに帰ってくるから」

「あ、そうだ、九条さん」

「うん、どうしたの?」


「──すごく、よく似合ってるよ。まるで同い年じゃないみたいに、大人っぽくて。ずっと見ていたくなる」

「本当?  ……ありがとう」


 少しだけ照れたように微笑む彼女に、俺は柄にもなく、胸の奥に燻っていた本音を付け加えてしまう。


「ただ、できたら……あまり他の人に、その肌を見せないでほしいかな」


 思わず漏れた、独占という名の欲が恥ずかしい。

 けれどそれを聞いた途端、彼女の瞳が大きく揺れた。

 あっという間に、彼女は迷いなく距離を詰めると、俺の胸に飛び込んでくる。


「……っ、九条さん?」


 シアーブラウスの柔らかな質感が俺の体に触れる。

 不自由な俺の腕の代わりに、彼女が俺の腰に深く腕を回し、ぎゅっと力を込めて抱きしめてきた。

 薄い生地越しに伝わってくる、彼女の鼓動と熱が心地いい。

 

 不自由なりに、せめて彼女の想いに応えたくて。俺は重いギプスに包まれた右腕を持ち上げ、指先を固定された左手をそっと彼女の背に添えた。

 不格好な抱擁だったけれど、いいんだ。

 回した腕が彼女の背に触れた時、君はさらに深く顔を埋めてくるから、どんどん離れがたくなる。

 

「そんなこと言われたら、お仕事行きたくなくなっちゃう……。でも、頑張るね」

「ああ。俺も、行くなって言ってしまいそうになるよ」


 名残惜しそうに、けれど満たされたような声。

 彼女はゆっくりと体を離すと、最後に思い出したように人差し指を立てて、少しだけ真剣な表情を浮かべた。


「蒼くん、覚えてる?」


 離れ際、彼女は俺の胸元に顔を寄せたまま、囁くような低い声で言った。

 その視線が向けられたのは、リビングの一角。普段は何気なく服を選んだり、荷物を置いたりする、あのウォークインクローゼットの奥だ。

 

「──お願い。あの棚だけは、絶対に開けないでね」


 半開きになったクローゼットの隙間。

 そこから覗く薄暗がりの奥に、その棚は潜んでいる。

 朝陽に満ちたリビングとは隔絶された、そこだけが別の時を刻んでいるような、不自然な沈黙を湛えた棚。


「……わかってるよ。開けない」

「約束よ?」

「開けると、君と暮らせなくなるんだろ?」

「そうよ」

「じゃあ、開けないさ」


 彼女は満足そうに、けれどどこか祈るような微かな微笑みを浮かべた。

 

「行ってらっしゃい。仕事、頑張って」

「うん、行ってきます。蒼くん」


 最後に一度だけ、愛おしそうにこちらを振り返り、彼女はドアの外へと消えた。

 パタン、と重厚な音が寂しく鳴り、ロックがかかる。


 急に広くなったように感じるリビング。

 彼女の残り香と、窓から差し込む穏やかな朝陽。

 俺は、半開きになったクローゼットの暗がりをじっと見つめ、彼女との約束を胸に刻み直した。


 その、直後だった。


 ローテーブルの上に置かれたスマートフォンが、無機質な振動音を上げた。

 ブブッ、というその震えは、静まり返った部屋の中で驚くほど不吉に響く。


「なんだ?」

 何か忘れものでもしたかな?

 不自由な左手で画面を点けると、そこに表示されていたのは、意外な人物からの通知だった。


 八雲店長:「蒼、気を付けろ。先生がお前たちを探している」

~あとがき~

 第72話、お読みいただきありがとうございます。作者の神崎 水花です。


 本作では、読者様の没入感を支えるためにリアリティラインを大切にしています。良家の子女が集う名門校だからこそ、その裏側に潜む厳しさや規律の重さを、物語のスパイスとして感じていただければ幸いです。


 ここまでの物語を「楽しかった!」「続きが気になる!」「九条さん可愛い!」と少しでも思っていただけましたら、ぜひ下の「☆☆☆☆☆」を「★★★★★」に変えて、本作を応援していただけると執筆の励みになります。

 ブックマークや感想も、どうぞお気軽に。それでは、次話でお会いしましょう。

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