第71話 吉岡 七海の憂鬱
返事はない。
あの子のことだから、私に対して居留守を使うなんてことはあり得ない。
……まさか、バイトに行っているとか?
いいえ、あの不自由な両腕で満足に働ける場所なんて、どこにもないはず。どうする、もう少しここで待つべき?
「……待って。あまりの痛みに、奥で伏せっているんじゃないわよね?」
あるいは、まともに食事も摂れずに倒れているとか……! 悪い想像がどろりと胸を支配し始め、私は縋るような思いで、ドアにある古い郵便受けに手をかけた。
とても古いタイプのドアだからこそ可能な、戯言。
覗き込めば、中の様子が多少なり掴めるかもしれない。
生活の気配だけでも確認できれば。そう思って、いい歳をした大人が、なりふり構わずその隙間を覗き見る。
けれど、隙間に差し込んだ指先に触れたのは、期待していた『温度』とは真逆の、冷たく乾いた紙の束だった。
「……え?」
覗き込むまでもなかった。
取り出し口からはみ出さんばかりに詰まったチラシ、そして何通かの封書。
それは、この部屋の主がここ数日──下手をすればここ何日も扉を開けていないという事実を無言で告げていたから。
「帰って……ないの?」
胸の鼓動が、嫌な早さで打ち鳴らされる。
学校には来ている。怪我を抱えながらも、あの子は毎日ちゃんと出席している。なのに、自分の家には帰っていない?
ありえないわ。身寄りもなく……いいえ、たった一人のお祖母さんは施設に入っていると聞いている。
頼れる大人が誰もいないはずのあの子が、この状態で外泊なんて、そんな。
……まさか、どこか別の場所で、誰かの世話になっているとでも?
その時、脳裏に一人の友人の顔が浮かんだ。
高校時代からの付き合いで、今でもたまに朝まで飲み明かす気心の知れた友人。水無月くんが入院していた病院の看護師として勤める、酒々井 真理の姿が。
夜の居酒屋でグラスを傾けながら交わしたやり取りが、鮮明な色彩を伴って蘇る。
『七の教え子ちゃんでしょ? 任せて、こまめに様子見とくから。……その代わり、今晩の飲み代は七海持ちね!』
『ありがとう真理、助かるわ。何か足りない物があったらすぐに連絡して』
そんな表面上の報告じゃない。もっと、何かこう……胸に棘が刺さったような言葉があったはずよ。
私は震える手でバッグからスマートフォンを取り出した。
暗い廊下で、液晶の白々しい光が私の網膜を刺す。メッセージアプリを開き、真理とのトーク画面で『水無月』と検索をかけた。
激しくスクロールされる画面が、少し前のログで止まる。
見つけた。
気心の知れた親友だからこそ、もらえた報告。
真理:「そういえば七、例の子。黒髪の長い、すっごい美人の子が毎日お見舞いに来てるわよ。しかも面会時間ギリギリまで。若いっていいわよね~、羨ましいくらい献身的な彼女さんって感じ! ご馳走様!」
画面に並ぶ文字が、鋭い針となって私の目に突き刺さる。
あの日、「仲の良い女友達が出来るのはいいことよ」と、冗談半分に返事したはずのこの一文が、今頃になって猛烈な熱を帯び、私の思考を焼き尽くし始めた。
「黒髪の、献身的な……彼女」
病院で九条さんと出くわした時の情景が、否応なく思い出される。
あの時の私は、彼女を『友達思いの優しい子』だと信じて疑わなかった。彼をはねた車に同乗していたと聞いていたから、その罪悪感ゆえの献身なのだと……そう、勝手に都合よく思い込んでいたのだわ。
「そこまでの、仲だったの……?」
そんなはずはない、と理性が激しく警鐘を鳴らす。
九条さんは、学園を代表するような才媛よ。頭脳も礼節も、そして私たち大人の女性ですら溜息をつくような美貌も、すべてを兼ね備えた非の打ち所のない少女。
けれど。
もし、もし万が一……あの子が今、九条さんと一緒にいるのだとしたら。
大人たちの目が届かない密室で、怪我を負って無防備な少年と、多感な少女が二人きり、甘く、濃密な時を過ごしているのだとしたら。
それが責任感などという綺麗な言葉では片付けられない、未成熟な愛ゆえの暴走だとしたら。
「露見した瞬間、全てが終わるわ。二人の未来も、何もかも」
思わず漏れた呟きが、夜の廊下でひんやりと凍りついた。
由緒ある名門私立、星諒学院高等部。
伝統を重んじる我が校は、男女の不純な交遊に対して、異常なまでに保守的で厳しい。ましてや、外泊を伴う同棲状態なんてもってのほか。
学業を本分とする生徒同士が、肌を重ねるような事態はあってはならない。存在してはならない禁忌なの。
許されない。決して。
発覚すれば、軽く済んでも無期限の停学。最悪は退学処分すら免れない。
なぜなら、星諒の保護者会はそういう不始末に対して、病的なまでに潔癖でうるさい連中の集まりだから。
そして、そういう人たちに限って学校への寄付金も多いのよ。
「安心して我が子を預けられない」
──そんな身勝手で容赦ない正義感から振るわれる『大ナタ』は、一度振り下ろされれば、芽吹き始めた二人の人生を根こそぎ叩き斬ってしまう。
たとえ非の打ち所がない才媛であり、後ろにあの『九条家』の威光を持つ彼女であっても、無傷ではいられないはずよ。
集団心理とはそれほど恐ろしいの。
一度でも醜聞の泥と尾鰭がつけば、完璧だった彼女の居場所は、徐々に、けれど確実に消えて無くなる。
そして。
守るべき後ろ盾も、帰るべき家族もいない水無月くんなら、もっと酷いことになるのでしょうね。彼は、この社会から完全に放逐されてしまうわ。
あの子の方が、学校にとっては切りやすいだろうから……。
反論してくる身内も、圧力をかけてくる権力も持たない少年。
組織がそのメンツを守るために、真っ先に生贄として捧げるのは、いつだって彼のような『持たざる者』よ。
「二人とも、あんなに子なのに……。どうして、そんな危ない橋を渡るの」
最悪の結末を予感し、冷たい汗が背中を伝っていく。
「幸い、まだ誰も気づいていない。そう、気づいてないわ」
自分に言い聞かせるように、暗闇の中で深く頷く。
もしそうなら、あの子たちを助けてあげれるのは、担任である私だけ。私があの子たちを守らずして、一体誰が盾になれるというの?
『大ナタ』が振り下ろされる前に、私が。
私は夜の静寂の中で静かに、けれど情熱的に、二人を救うための救済のシナリオを練り始めた。
でも、まだそうと決まった訳じゃない。
心のどこかで、そう淡く期待する自分もいる。
宥めるように深く吐息をつくと、重い足取りで駅の方へと引き返した。手に提げた惣菜の袋は、あの子の胃袋に届くことなく、ただ私の指に重く食い込んでいる。
捨ててしまうには忍びない。
けれど、今はこれを自分の夕食にする気にもなれないでいた。
私はその、行き場を失った善意を抱えたまま、吸い寄せられるように多摩川沿いのカフェ『Nine Flow』へと向かった。
かつて彼がバイトの身元保証人を求めてきて以来、何度か訪れたことのある場所。
夜の帳が下りた堤防沿いに、その店はひっそりと、けれど確かな拒絶と受容を孕んだ明かりを灯している。
カウベルが静かに鳴り、一歩足を踏み入れる。
芳醇なコーヒーの香りと共に、カウンターの奥でグラスを磨く男の姿が目に飛び込んできた。
「いらっしゃいませ。……おや、これは吉岡先生。お久しぶりですね」
店長の八雲さんは、落ち着いた声音で私を迎え入れてくれる。
身元保証人の件で挨拶に来てから、何度かのやり取りを経て築かれた、程よい距離感の知己。
いつもなら心地よいはずの静謐さが、今の私の毛羽立った神経を逆撫でする。
「夜分に失礼します、八雲さん。……水無月くんは、当然お休みですよね?」
努めて冷静を装ったはずなのに、私の声は自分でも驚くほど鋭く店内に響いてしまった。
視線は無意識に、あの子を探してしまう。
八雲さんは磨いていたグラスを置くと、すべてを見透かしたような穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ、もちろん。あの怪我ですから、完治するまでは休むよう伝えてあります。……何か、彼に急用でも?」
「ええ、少し。……いえ、教師として看過できない事態なんです」
私の問いに、八雲さんはふっと目を細めただけだった。
カウンターに置かれた私の手元。
そこには、スーパーの袋が不格好に提げられたまま。放っておけない教え子のために買い込み、そして届ける場所を見失った、冷め切った親切の残骸。
「……先生、少し落ち着いてください。立ち話もなんです、何かお飲み物を?」
「ああ、ごめんなさい……。では、コーヒーを。……でも、八雲さん。あの子、アパートに帰っていないんです」
堰を切ったように、言葉が溢れ出す。
「郵便受けが溢れるほどチラシが溜まって、何日も。……八雲さん、あなたは何か知っているんでしょう? 隠さずに教えてください。あの子は今、誰と、どこにいるんですか……!?」




