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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第70話 灯り始めた黄色信号

 昨夜の、あの溶けるような熱量は夢だったのだろうか。

 いいや、俺の腿は、今もあの愛おしい重みを鮮明に覚えている。

 肌の裏側にまで染み付いたような、生々しいまでのあの確かな感触を、忘れることなんてできるものかよ。

 

 眩い朝陽が差し込む寝室で。

 まどろみの特権を鋭く切り裂いたのは、リビングから漏れ聞こえてくる、冷徹な響きの声だった。


「……ですから、しばらくはお仕事を受けられないと、事前にお伝えしたはずです」

 その声のトーンに、思考が一気に覚醒する。


「ええ、そうです。……仮にそれで仕事が減ったとしても構わないと、何度もお伝えしたじゃないですか。私の意思は変わりません」


 一歩も引かない、毅然とした拒絶。

 その冷たさが気になり、吸い寄せられるように寝室を出た俺の耳に、九条さんのさらなる追及の声が届く。

「それはそうですが……。っ! そんな、勝手な……っ」

 

 チラリと覗いたリビング。

 逆光の中に立つ彼女は、赤いスマホを耳に当てたまま、険しい表情で窓の外を見つめていた。

 爽やかな朝の光を背負っているはずなのに、その輪郭はどこまでも鋭利で、近寄りがたい光を放っている。まさに『雪原の大氷壁』そのものの趣があった。


「わかりました。……ええ、失礼します」

 

 通話を終え、彼女は深く、重いため息をついて肩を落とす。

 その背中に漂う空気は、ひどく寒くて物憂げなまま。

 だというのに。

 その静かな厳冬の気配は、俺がリビングに一歩踏み出した途端に、鮮やかな春の訪れへと塗り替えられる。

 まるでヴァイオリンソナタのような、君。


「……! 蒼くん、おはよう!」


 俺の気配に気づき、振り返った彼女の顔を見たか。

 さっきまでの険しさが嘘のように、そこにはパッと花が咲いたような明るい笑顔があって。

 数秒前まで苦渋の面持ちで拒絶の言葉を投げかけていた人物とは、到底思えないほどの鮮やかな『雪解け』に、俺は言葉を失いそうになる。


「おはよう、九条さん。朝から、何か大変そうだったけど」

「ううん、まだ確定じゃないから。でも、もしかしたら、お休みがなくなってしまうかもしれないの」

「え、ゴールデンウィークの?」

「ま、まだ分からないから。きっと大丈夫よ、何とかするから」


 彼女は弾むような足取りで俺に駆け寄ると、当たり前のような顔をして、俺の寝癖を優しく整え始める。

 その指先から伝わってくる確かな温もりが、昨夜の情熱的なハグを思い出させて、胸の奥がチリりと熱くなる。

 あれはあまりに鮮烈すぎた。


 外の世界で見せる『孤高の氷壁』と、俺にだけ向ける『溶けた水面』の笑顔。

 そのあまりの落差にいぶかしみながらも、彼女が必死に飲み込んだはずの溜息の正体を、俺はそれ以上追求することができなかった。



 季節は残酷なほど足早に過ぎゆく。

 張り出されたカレンダーには、大型連休を告げる赤い数字が、どこか他人事のような顔をして並んでいた。


「そういえば、明日からゴールデンウィークだけどさ。蒼、なんか予定あんのか?」


 購買のパンを咀嚼しながら、健太が何気なく尋ねてくる。

「何分この手だからな。出かけたところで不自由なだけだし、やれることなんて何も無いだろ」

「あー、そりゃそうか。その手じゃ、せいぜい映画館の椅子に座ってるくらいしかねーもんな……。高階さんと九条さんの予定はどんな感じ?」


 健太は首を傾げ、二人の女性に視線を向けた。

「もし暇だったら、俺たちとどっか遊びにいかねー? 蒼を連れてさ。せっかくの大型連休に、ずっと一人で何の動きもねえっていうのは、さすがにキツいだろうし」


 健太なりの、不自由な俺を気遣った誘いなのだろう。

 話を振られた『二輪の花』は、申し訳なさそうに、けれど対照的な理由で肩をすくめてみせた。


「私のところは家族旅行。ママが随分と張り切っちゃっててさ……。本当はみんなと遊びたかったんだけどね、はぁ」

 高階さんは溜息をつき、向かいの九条さんに視線を流す。

「九条さんは? どこかへ行くの?」と。

 

 期待の混じった注目が集まる中、彼女はわずかに言い淀むようにして、手元の箸を止めた。


「私は、その……今までお休みをいただいていた分、モデルの仕事が入ってしまっていて。連休は、かなり埋まってしまいそうなの。……全部ではなさそうだけど」

「うわー、休みの時まで仕事とか、考えたくねー」

「ホントね。大変そう」


 これが、今朝聞いたあの『電話』の結末だ。


 彼女は俺との時間を守るために、あんなに毅然とした声で戦ってくれていたのに。けれど結局、仕事(ビジネス)という冷徹な鎖は、容赦なく彼女を俺の元から連れ去っていく。


 彼女が不在になるということは、あの家で俺が一人になるということ。

 そう悟った瞬間、眩しかったはずの大型連休という響きは、急速に色褪せてどうでもいいものに思えてきた。

 ただ長いだけの、空虚な時間。


 人を好きになるとは、きっとこういうことなのだろう。

 相手の一挙手一投足に、これほどまで心をかき乱され、浮き沈みする自分を持て余す。

 皆、こうして心に抱えた制御不能な感情と、懸命に戦っている、のか。

 窓の外に広がる、春の終わりの浮き足立った喧騒が、今はひどく遠い世界の出来事のように感じられた。


 * * *

 

 仕事帰りの夜風が、少しだけ湿り気を帯びていた。

 私、吉岡 七海は、街灯に照らされた教え子のマンションの前に立っている。


 別に、世に言う『禁断の関係』とか、そういう不純なものじゃないから安心してくれると嬉しいわ。ただ、彼が放っておけないくらいに『可愛い教え子』であることは、……まあ、否定しないけれど。


「……水無月くん、ちゃんと食べてるといいけど」


 ふと漏れた独り言が、夜の静寂に溶けていく。

 

 あの子の背負ったものを思えば、放っておけるはずがない。

 幼い頃に両親を亡くし、唯一の身寄りだったお祖父さんを見送ってからは、まだ十代という若さで独り立ちを余儀なくされた男の子。

 そんな過酷な運命を、あの子は誰を恨むでもなく、ただ真面目に、健気に受け入れてきた。私にはそう見えた。


 それなのに、神様は本当に残酷だわ。

 あんなに不自由な、痛々しい怪我まで負わせるなんて。

 酷いったらありはしない。


 「えらそうなことを思う割に、お総菜なんだけどね。ごめんね水無月くん。先生仕事終わりだから、さ。ご愛敬よ」

 

 手に提げたビニール袋を少しだけ持ち上げて、私は自嘲気味に独りごちた。

 けれど、そんなささやかな善意を免罪符にしてでも、ここに来ずにはいられなかった。むしろもっと早く来るべきだったと、今は後悔すらしている。


 両腕を怪我したまま、身寄りもなく一人暮らしをしている水無月くん。学校では「大丈夫です」と笑っているけれど、放っておけるはずがないわよ。

 担任として、そして彼の事情を知る数少ない大人の一人として、こうして様子を見に来るのは当然の義務であり、……ええ、正当な権利だわ。

 

 なんなら、私の家に連れて帰ろうかな、なんて思ったり。

 ふふ、丁度明日から連休じゃない。

 素晴らしいタイミングよね。

 だってそうでしょ? 両腕を奪われ、家族もいない男の子が、誰の助けもなく生きていけるほど、この世の中は甘くないんだから。


 自分の中の『正論』に、確かな手応えを感じて頷く。

 私は一点の曇りもない善意を指先に込めて、インターホンを押し込んだ。

 

「水無月くん? 先生よ。いるなら空けて」

 ピンポーン、という無機質な音が、無人のような静けさの中に響き渡る。

 

 ──けれど、返ってくるのは、夜の底のような冷たい沈黙だけ。

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