第70話 灯り始めた黄色信号
昨夜の、あの溶けるような熱量は夢だったのだろうか。
いいや、俺の腿は、今もあの愛おしい重みを鮮明に覚えている。
肌の裏側にまで染み付いたような、生々しいまでのあの確かな感触を、忘れることなんてできるものかよ。
眩い朝陽が差し込む寝室で。
まどろみの特権を鋭く切り裂いたのは、リビングから漏れ聞こえてくる、冷徹な響きの声だった。
「……ですから、しばらくはお仕事を受けられないと、事前にお伝えしたはずです」
その声のトーンに、思考が一気に覚醒する。
「ええ、そうです。……仮にそれで仕事が減ったとしても構わないと、何度もお伝えしたじゃないですか。私の意思は変わりません」
一歩も引かない、毅然とした拒絶。
その冷たさが気になり、吸い寄せられるように寝室を出た俺の耳に、九条さんのさらなる追及の声が届く。
「それはそうですが……。っ! そんな、勝手な……っ」
チラリと覗いたリビング。
逆光の中に立つ彼女は、赤いスマホを耳に当てたまま、険しい表情で窓の外を見つめていた。
爽やかな朝の光を背負っているはずなのに、その輪郭はどこまでも鋭利で、近寄りがたい光を放っている。まさに『雪原の大氷壁』そのものの趣があった。
「わかりました。……ええ、失礼します」
通話を終え、彼女は深く、重いため息をついて肩を落とす。
その背中に漂う空気は、ひどく寒くて物憂げなまま。
だというのに。
その静かな厳冬の気配は、俺がリビングに一歩踏み出した途端に、鮮やかな春の訪れへと塗り替えられる。
まるでヴァイオリンソナタのような、君。
「……! 蒼くん、おはよう!」
俺の気配に気づき、振り返った彼女の顔を見たか。
さっきまでの険しさが嘘のように、そこにはパッと花が咲いたような明るい笑顔があって。
数秒前まで苦渋の面持ちで拒絶の言葉を投げかけていた人物とは、到底思えないほどの鮮やかな『雪解け』に、俺は言葉を失いそうになる。
「おはよう、九条さん。朝から、何か大変そうだったけど」
「ううん、まだ確定じゃないから。でも、もしかしたら、お休みがなくなってしまうかもしれないの」
「え、ゴールデンウィークの?」
「ま、まだ分からないから。きっと大丈夫よ、何とかするから」
彼女は弾むような足取りで俺に駆け寄ると、当たり前のような顔をして、俺の寝癖を優しく整え始める。
その指先から伝わってくる確かな温もりが、昨夜の情熱的なハグを思い出させて、胸の奥がチリりと熱くなる。
あれはあまりに鮮烈すぎた。
外の世界で見せる『孤高の氷壁』と、俺にだけ向ける『溶けた水面』の笑顔。
そのあまりの落差にいぶかしみながらも、彼女が必死に飲み込んだはずの溜息の正体を、俺はそれ以上追求することができなかった。
季節は残酷なほど足早に過ぎゆく。
張り出されたカレンダーには、大型連休を告げる赤い数字が、どこか他人事のような顔をして並んでいた。
「そういえば、明日からゴールデンウィークだけどさ。蒼、なんか予定あんのか?」
購買のパンを咀嚼しながら、健太が何気なく尋ねてくる。
「何分この手だからな。出かけたところで不自由なだけだし、やれることなんて何も無いだろ」
「あー、そりゃそうか。その手じゃ、せいぜい映画館の椅子に座ってるくらいしかねーもんな……。高階さんと九条さんの予定はどんな感じ?」
健太は首を傾げ、二人の女性に視線を向けた。
「もし暇だったら、俺たちとどっか遊びにいかねー? 蒼を連れてさ。せっかくの大型連休に、ずっと一人で何の動きもねえっていうのは、さすがにキツいだろうし」
健太なりの、不自由な俺を気遣った誘いなのだろう。
話を振られた『二輪の花』は、申し訳なさそうに、けれど対照的な理由で肩をすくめてみせた。
「私のところは家族旅行。ママが随分と張り切っちゃっててさ……。本当はみんなと遊びたかったんだけどね、はぁ」
高階さんは溜息をつき、向かいの九条さんに視線を流す。
「九条さんは? どこかへ行くの?」と。
期待の混じった注目が集まる中、彼女はわずかに言い淀むようにして、手元の箸を止めた。
「私は、その……今までお休みをいただいていた分、モデルの仕事が入ってしまっていて。連休は、かなり埋まってしまいそうなの。……全部ではなさそうだけど」
「うわー、休みの時まで仕事とか、考えたくねー」
「ホントね。大変そう」
これが、今朝聞いたあの『電話』の結末だ。
彼女は俺との時間を守るために、あんなに毅然とした声で戦ってくれていたのに。けれど結局、仕事という冷徹な鎖は、容赦なく彼女を俺の元から連れ去っていく。
彼女が不在になるということは、あの家で俺が一人になるということ。
そう悟った瞬間、眩しかったはずの大型連休という響きは、急速に色褪せてどうでもいいものに思えてきた。
ただ長いだけの、空虚な時間。
人を好きになるとは、きっとこういうことなのだろう。
相手の一挙手一投足に、これほどまで心をかき乱され、浮き沈みする自分を持て余す。
皆、こうして心に抱えた制御不能な感情と、懸命に戦っている、のか。
窓の外に広がる、春の終わりの浮き足立った喧騒が、今はひどく遠い世界の出来事のように感じられた。
* * *
仕事帰りの夜風が、少しだけ湿り気を帯びていた。
私、吉岡 七海は、街灯に照らされた教え子のマンションの前に立っている。
別に、世に言う『禁断の関係』とか、そういう不純なものじゃないから安心してくれると嬉しいわ。ただ、彼が放っておけないくらいに『可愛い教え子』であることは、……まあ、否定しないけれど。
「……水無月くん、ちゃんと食べてるといいけど」
ふと漏れた独り言が、夜の静寂に溶けていく。
あの子の背負ったものを思えば、放っておけるはずがない。
幼い頃に両親を亡くし、唯一の身寄りだったお祖父さんを見送ってからは、まだ十代という若さで独り立ちを余儀なくされた男の子。
そんな過酷な運命を、あの子は誰を恨むでもなく、ただ真面目に、健気に受け入れてきた。私にはそう見えた。
それなのに、神様は本当に残酷だわ。
あんなに不自由な、痛々しい怪我まで負わせるなんて。
酷いったらありはしない。
「えらそうなことを思う割に、お総菜なんだけどね。ごめんね水無月くん。先生仕事終わりだから、さ。ご愛敬よ」
手に提げたビニール袋を少しだけ持ち上げて、私は自嘲気味に独りごちた。
けれど、そんなささやかな善意を免罪符にしてでも、ここに来ずにはいられなかった。むしろもっと早く来るべきだったと、今は後悔すらしている。
両腕を怪我したまま、身寄りもなく一人暮らしをしている水無月くん。学校では「大丈夫です」と笑っているけれど、放っておけるはずがないわよ。
担任として、そして彼の事情を知る数少ない大人の一人として、こうして様子を見に来るのは当然の義務であり、……ええ、正当な権利だわ。
なんなら、私の家に連れて帰ろうかな、なんて思ったり。
ふふ、丁度明日から連休じゃない。
素晴らしいタイミングよね。
だってそうでしょ? 両腕を奪われ、家族もいない男の子が、誰の助けもなく生きていけるほど、この世の中は甘くないんだから。
自分の中の『正論』に、確かな手応えを感じて頷く。
私は一点の曇りもない善意を指先に込めて、インターホンを押し込んだ。
「水無月くん? 先生よ。いるなら空けて」
ピンポーン、という無機質な音が、無人のような静けさの中に響き渡る。
──けれど、返ってくるのは、夜の底のような冷たい沈黙だけ。




