第7話 これは、困ったクマー
窓の外が、夕焼けの名残であろう茜色から、深き藍の空へと変わった。
彼女が時折、静かにページをめくる音だけが、この不思議なほど穏やかな空間を満たしている。だけど、俺はこの穏やかさが、彼女の優しさの上に成り立っていることを知っている。
「九条さん」
静かに呼びかけると、彼女は文庫本からすっと顔を上げた。
「もう、遅いから。そろそろ帰った方がいいよ」
「また、それ……」
何かを言いかけて、彼女は口を噤む。
「昨晩も言ったけど、ほら、何かがあってからじゃ遅いから」
「わかったわ」
判で押したように昨晩と同じ表情。嬉しいような、そうでもないような不思議な感情を滲ませて、まるで重い体を持ち上げるかのように、ゆっくりと帰り支度を始めるんだよ。
細い、体なのにね。
「あ……いけない」
彼女は何かを思い出したように、慌てて鞄の中から小さな紙袋を取り出した。
「……ちょっと、待っててくれる?」
「え? うん?」
俺が返事をするやいなや、彼女は紙袋を手に、足早に病室を出ていってしまう。それから数分も経たないうちに、彼女は戻ってきた。見慣れないモノを手に持って。
「喉が渇くといけないから」
彼女はそう言って、手にしていた「それ」を、俺のサイドテーブルの上に置くんだけどさ。どうみても、それは、幼稚園児が首からぶら下げていそうなソレで……。
子供たちに大人気な、シロップのことしか考えていないであろうアイツ。あの黄色いクマーがつぶらな瞳で、にっこりと、底抜けに人の良さそうな笑顔を俺に向けているから。
「あのね、蓋をこうすると、中からストローがでてくるの」
いや、大事なのはそこじゃない!
僕が悩んでいるのは使い方じゃないんだ! なぜ、わからない。
「九条さん、もしかして……おやすみクマー、好き、なの?」
「い、いけない?」
え、ちょっと待って、その成りで?
嘘でしょ? まさか、本気で言ってる? 天下の九条 葵だよ!?
君がクマー好きってまじでぇぇぇ!?
俺の思考は、ブルースクリーンのようにシャットでダウンした。
誰か、我の、リセットスイッチを……はよう。
引き攣る顔、その沈黙を、彼女はどう受け取ったのだろうか。
男がこの年齢になって「おやすみクマーの水筒」を喜ぶと思うのか。そんな気持ちを、少しだけ察してくれたのなら、ありがたい。
とはいえ、好意を無碍にすることもできない。
「ち、違うの、これは……っ!」
おい、君。何が違うのか言ってみたまえ。
彼女は必死で何かを弁解しようとするが、もう遅い。
俺の顔から表情が抜け落ちていくのと反比例するように、彼女の顔は羞恥の色で満たされていく。一度崩れ落ちた完璧な仮面は、そう簡単には元に戻らないのだ。
そして俺は、その歴史的瞬間を前にして、まるで能面のように全ての感情を凍りつかせていた。
彼女の白い肌は、夕焼けの茜色ですら生温いと思えるほど、真っ赤に染め上がっている。その首筋までもが。
「わ、私、これで……っ!」
言うが早いか、彼女は殆どひったくるように自分の通学鞄を掴むと、脱兎のごとく踵を返した。その背中は、もはや『高嶺の花』のそれではないね。
香ばしい趣味がバレて一目散に逃げ出す、ただの痛いクラスメイトの背中にしか見えなかった。
それにしても麗しの君よ、今日一日で色々な面を晒し過ぎだろうに。
こっちはもう、いっぱいいっぱいだよ。
パフゥゥと、またまた間抜けな音を立てて、スライドドアが閉まる。
嵐は去る。そして病室に残るは俺一人。
いや、一人と、一体か。
ゆっくりと、サイドテーブルの上に鎮座する「奴」に視線を移していく。にっこりと、底抜けに人の良さそうな笑顔が少し腹立たしい。
「おい、お前のせいだぞ」
声なき声で、その黄色いクマーに向けて毒を吐いた。
「折角、良い感じだったのに台無しじゃないか。どうしてくれるんだ」
奴は何も答えない。そりゃそうだ。
馬鹿らしくてもう、何も考えたくなくなる。
俺は左手の動く指で、なんとかリモコンを操作すると、テレビの電源を入れた。特に見たい番組があるわけでもない。ただ、無機質な音声と光で、この静寂と、頭の中の混乱を上書きしてしまいたかっただけ。
画面では、芸人たちが体を張った何かで笑いを取っている。
俺はぼんやりと、その光景を眺めているのみ。
気が付けば喉が、カラカラに乾いていた。
画面を見つめたまま、無意識に体を傾ける。
左手のまだ動く指で、サイドテーブルの上にある『それ』を、少しだけ自分の方へと引き寄せた。そしてそのまま、ゆっくりと口を近づけていく。
唇に触れる、プラスチックの感触。
ちゅー、と。ストローから、生ぬるい麦茶が流れ込んでくる。
俺はもう一口、それを吸い込もうとして──ふと、自分の顎下にある、黄色い物体に視線を落とした。
にっこりと笑う、クマーがいて。
その脳天から突き出た、ストローが何ともシュール。
「うわぁぁぁぁっ!?」
飲んでる……、飲んでるだと!?
俺、普通に、無意識に飲んじゃってるよ……。
「こ、これは困ったクマー!?」
アホか! 一人でやってろ。ったく。
完敗だった。
俺のちっぽけなプライドは、九条 葵本人と、彼女が残していった黄色い刺客によって、跡形もなく殲滅させられたのだ。
◆ ◆ ◆
病院のロータリー。
深まる藍色の空の下、九条 葵は、おぼつかない足取りで歩いていた。
何メートルかを進んでは立ち止まり、そして振り返る。その繰り返し。
その視線の先にあるのは、巨大な建造物の無数にある窓の一つ。
彼がいるはずの、部屋の灯りを求めて。
その唇が、小さく震える。
完璧だったはずのポーカーフェイスは見る影もなく崩れ去り、そこには、どうしようもない感情の嵐に耐える、ただの無防備な女性の顔があった。
誰よりも綺麗なはずなのに。
やがて、ぽつり、と。
誰に聞かせるでもない、吐息のような声が、夜の空気に溶けて消えた。
「……蒼くんの、バカ」
それは、罵倒ではなかった。
こちらの気持ちも知らないで、残酷なほど優しい言葉をかけてくることへの、小さな抗議。
そして、ほんの少しでも楽に飲めればと、自分が精一杯の思いやりを込めて選んだ、その形の本当の意味を全く分かってくれないことへの、ほんの子供っぽい仕返し。
言えない全ての想いが、その一言に滲んでいた。
彼女はもう一度だけ、その窓に目を向けると、今度こそ振り返らずに雑踏の中へと消えていった。
「But it's been a while since we've talked so much.(でも、こんなにたくさん話せたのは、久しぶり)」
~あとがき~
第7話、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
さて、物語の最後にありました、「But it's been~」という英文についてです。
当初、皆様に違和感なくお読みいただけるよう、日本語訳をルビ(ふりがな)として表示しようと試みたのですが、どうやら小説投稿サイト様のルビ数制限により、正常に表示されないことが判明いたしました。
読書体験を損ねてしまい恐縮ですが、今回は()にてふりがな対応とさせてください。
神崎 水花




