第69話 溶け始めた境界線は
それからの時間は、まるで早回しの映画のように。
けれど、一瞬一瞬が鮮やかな色彩を伴って過ぎ去っていった。
彼女が腕によりをかけて振舞ってくれた夕食は、俺にとって嬉しい誤算だったよ。
数日前の買い出しで、彼女がカート山盛りに野菜を詰め込んでいたのを覚えているだろうか。
そう、あのポニーテールの日のことを。
俺はてっきり、しばらくの間は食事のすべてが『緑一色』になるのだと、半ば諦めに似た覚悟を決めていたのだけれど。
実際にテーブルへ並んだのは、香ばしい薫りと湯気を立てる、デミグラスソースたっぷりの肉厚なハンバーグだったんだ。
「今日は本当に嬉しかったから。……蒼くんの好きなもの、作りたくて」
「凄い美味しそうだね」
少し恥ずかしそうに、けれど誇らしげに添えられた言葉。
それだけで、もう胸がいっぱいになる。
おそらく、二人で暮らす前の一人の夜であったなら、自ら選ぶことはなかったであろう重量級の献立。不慣れな手つきで、けれど一生懸命に捏ねられたことが伝わってくる、少し不格好で、愛情の分だけ厚みのあるハンバーグ。
箸を入れると溢れ出す肉汁を、そのまま口へと運ぶ。
たとえ玉ねぎの刻み方が少し不揃いだったとしても。仮に、塩加減がまばらだったとしても、だ。俺にとってこの一皿は、決して高級レストランに劣っていない。
どんなシェフが作る逸品よりも優しく、美味しかった。
胃袋だけでなく心まで満たしてくれるような──そんな最高の出来だった。
本当だよ。九条さん。
ありがとう。
けれど、当然ながら『甘い時間』には相応の対価が必要な訳で。
モデル『MINA』にとって、パフェとハンバーグという最重量級のコンボは、職業倫理に関わる由々しき事態らしい。
そりゃそうか、この二つが合わされば牛丼どころじゃないもんな。
「さあ……頑張って消費、しなきゃね」
食後の余韻もそこそこに、彼女は決意を宿した瞳で戻ってきた。
先ほどまでの蕩けるような甘い雰囲気は影を潜め、しなやかな体のラインを強調するフィットネスウェアに身を包んでいる。
リビングの中央にヨガマットを広げるその背中からは、ストイックな熱気が陽炎のように立ち上っている。ような気さえしてくる。
プランクにストレッチ、そして俺には名前も分からない難度の高いヨガのポーズ。苦しげに、けれど芸術品のように美しく汗を流す彼女の横で、俺はテキストを開いてテーブルに向かう。
聞こえてくるのは、彼女のわずかな吐息と、俺が走らせるシャープペンシルの規則的な音だけ、か。
お互いに言葉を交わすことはない。
もう充分だった。
同じ空間で、それぞれの『やるべきこと』に向き合うこの時間は、何よりも心地よく、満ち足りたものへとなっている。
そうしてノルマを終えた後、戦いの舞台はいよいよバスルームへ移る。
ここからが、俺にとっての今日一番──いや、人生最大の『試練』が待っていると言っていいだろう。
シャワーの音が白く響く浴室で。
バススツールに座る俺の背中に、温かなお湯と、彼女の柔らかな掌が触れる。
「……痛くない?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
両腕が不自由な俺は、髪や背中を洗うのを彼女に委ねるしかない。
最初の頃は、ただただ「申し訳ない」という罪悪感と、あの『九条 葵』に世話を焼かれるという怒涛の気恥ずかしさが勝っていた。
それに加えて……すぐ後ろにバスタオル一枚の君がいるという邪な雑念。それを必死に振り払うだけで、俺の心根は簡単に限界を迎えるばかりだったんだ。
けれど、今はもっと——
彼女の細い指先が、泡越しに俺の肌を滑るたび。俺の心臓は、壊れそうなほど大きく跳ね上がる。
君が動くたび、バスタオル一枚で辛うじて隠された、その腿の間がどうにも気になって。「見てはいけない」と理性が叫ぶほど、その境界線へ吸い寄せられそうになる視線を、俺は必死に殺す。
鏡を見れば、濡れた君の肢体が映ってしまうから。
逃げ場を求めるように、俺はただ壁のタイルの一点を凝視し続けるしかない。
毎日毎日、あのタイルの模様だけを見つめて。
好きになればなるほど。
彼女への想いが募れば募るほど。
無防備に肌を晒し、慈しむように世話を焼いてもらうことが、どうしようもなく苦しくて、堪らなくなる。
恋心というのは、なんて厄介な劇薬だろう。
心の距離が近づくほどに、物理的な接触は甘い毒へと変わっていく。
冷静な居候を装っていても、その仮面を一枚剥ぎ取れば、俺だってその辺の男たちと何ら変わりはしないんだ。
衝動に任せて彼女を強く抱き寄せ、その薄いバスタオルごと、押し倒してしまいたくなる。
背中に触れる君の体温。
鼻孔をくすぐる、お揃いの優しいシャンプーの香り。
全身の血が沸騰しそうな熱を、俺はただ懸命に抑え込みながら、長く、苦しく、この上なく幸福な時間を耐え抜いてみせた。
今日は君の、生々しいまでの『重さ』をこの腿で知ってしまったから、余計に辛かったんだ。
入浴を終え、緊張と共にすべてを洗い流した後の脱衣所には、お揃いの香りがふわりと漂っている。
同じ香りを纏い、まるで番のように寄り添う二人がそこにいる。
「おやすみなさい、蒼くん」
「ああ。おやすみ、九条さん」
就寝前に交わす言葉は、いつもと変わらず短い。
話せば話すほどボロが出そうで、気づけば言葉を削るようになっていた。
けれど、その声音に含まれた糖度は、あのパフェよりもずっと濃厚で、耳の奥でいつまでも甘く響いている。
──そうして。
長くて、とても騒がしくて、溶け出すほどに幸せだった一日が、ゆっくりと幕を閉じる。
* * *
ふと、意識の底が揺れた。
深夜特有の、濃密な静寂。深い眠りの底から引き上げられた理由は──胸元に感じる、不思議な重みと熱のせい。
「……ん、なに……?」
重たい瞼を少しずつ、押し上げるようにして開ける。
闇に目が慣れるにつれて、視界がおぼろげな輪郭を結んでいく。
隣には、規則正しい寝息を立てる蒼くん。
今日、世界中で誰よりも素敵だった人が、すぐ傍で眠っている。近頃の彼は、あの坂道で出会った頃のように……いいえ、あの頃よりもずっと、眩しく見えるの。
そして。
あろうことか、彼の手が。
私の下着の上から、胸の膨らみを確かに捉えていたわ。
柔らかく、添えられるように。
「っ……!?」
心臓が、耳の奥で早鐘を打って跳ね上がる。
驚きで頭が一瞬真っ白になるけれど、彼の手はぴくりとも動かない。
どうやら、寝返りを打った拍子に偶然手が伸びてしまっただけの、完全に不可抗力な事故みたいね。
本来なら、声を上げて飛び起きるところかしら。
あるいは、慌てて彼の手を振り払うのが、正しい反応なのだと思う。
──けれどね。
私は、動けなかった。
ううん、自分でも驚くほどに、動きたくなかった。
……なんて、温かいんだろう。
やっぱり、そう。
うん、不思議なほど、嫌悪感なんて湧いてこない。
男性の手に、しかもこんな大切な場所を侵食されているというのに。
そこにあるのは恐怖ではなく、じんわりと身体の芯まで広がっていく安心感と、狂おしいほどの愛おしさだけ。
ああ、そうか。私はもう、とっくに。
私はゆっくりと瞬きをして、闇に溶けそうな天井を見上げた。
たぶん、彼は覚えていないだろうけど……それは仕方が無いこと。全部、私のせいだもの。
でもね、初めて、異性と手を繋いだのも、蒼くん。
初めて、自分から腕を絡めたのも、蒼くんで。
間接キスもそう。
さっきは初めて、唇をその指で触れられた。
誰にも触れさせたことなんてなかった私の「境界線」を、彼は当たり前のような顔をして越えていった。
私の『初めて』は、全部彼が連れ去っていく。
そして今日、また一つ無くした。
いま、こうして大事な場所に触れられてもちっとも嫌じゃない。むしろ、もっと触れていてほしいとさえ願ってしまう。
……すべてを差し出してしまいそうになる。
身体も、心も、もうとっくに彼だけのものになっているのに。
でも、ずっとは一緒にいられないね。
「…………」
私はそっと、胸の上にある彼の手の上に、自分の掌を重ねた。
この温度を、一滴も逃がさないように。
この鼓動が、どれほど彼のために高鳴っているか、伝わっても構わない。
上から覆いかぶせるようにして、ぎゅっ、と。その大きな掌を自分の胸へと、深く押し付ける。
「……I'm sorry I'm such a clingy woman, Sou-kun.(ごめんね、こんなに重い女で。蒼くん)」
暗闇に溶けるような、静かな英語の呟き。
母国語では決して口にできない、私の本当の姿。
彼の手の温もりが、胸の奥まで浸透していく。
私はその熱に心地よく縛られたまま、再び幸せな微睡みの中へと落ちていった。
このまま溶けて、彼の一部になればいいのに。
たとえ、それで『私』という形が消えて無くなったとしても、あなたの中に居られるなら……、許してあげる。




