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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第68話 溺れ合う二人

 カフェを出ると、夜気を含んだ冷たい風が、火照った頬を遠慮なく掠めていった。

 本来ならそれで頭が冷えるはずなのに、触れ合う場所から伝わる熱は、冷めるどころか静かにその温度を上げ続けている。


 原因は、間違いなく俺の左腕にある。

 完全に機能不全に陥った、九条さんのせいだ。


「く、九条さん? ……さすがに、ちょっと歩きにくいんだけど」

「…………いいの」

 

 何が「いいの」か。

 困り果てた俺の問いかけを拒絶するように、彼女はぎゅっ、とさらに強く二の腕を抱きしめてしまう。

 

 同じ背丈の彼女の肩が、俺の肩と隙間なく重なり合う。

 一歩踏み出すたびに、お互いの太腿までが時折触れ合うほどの密着感。制服の布地越しに伝わってくる、彼女の体温と確かな柔らかさまでもが。

 その全てが嬉しい。

 男としてこれ以上の役得はないと、本気でそう思っている。


 けれど、いつもの倍以上の労力を使う歩行と、逃げ場のない密着感。

 千々に乱れる意識を必死に繋ぎ止めながら、俺はただ耐えるしかない。……全く、色んな意味で大変な一日だよ、今日は。


「これは、蒼くんが悪いのよ」

「えっ、俺のせい?」


 正面を向いたまま、彼女が消え入りそうな声で呟く。

「そうよ。……私のせいじゃないもの。私は被害者なんだから」


 赤く染まった横顔を隠すように、彼女はぷいっと反対側に顔を背けた。

 腕は絶対離さないくせに、こちらの視線からは逃げようとする。

 なんという、甘くて強引な責任転嫁だろう。


「……あんなふうに、我儘、叶えてくれる人なんて……他にいないもの。もう、絶対に離してあげないから」

 夜の静寂に溶けそうな、けれど確かな決意と熱を帯びた独白。


 そんなことを言われてしまったら、もうお手上げだ。

 その言葉の裏にある「私をこんな風にしたのはあなたなんだから、最後まで責任取って」という切実な訴えが、どうしようもなく愛おしい。


 たとえ、どれほど歩きづらくても。

 ふとした拍子に、胸の傷がズキリと痛んだとしても。


 あの『雪原の大氷壁』とまで称される九条 葵を、ここまで『ポンコツ』にしてしまった罪悪感。そしてそれを遥かに上回る、支配欲にも似た多幸感が、夜の街並みを鮮やかに彩っていった。


 結局──溶けかけた砂糖菓子のように甘くなった九条さんは、家に着くまで俺の腕を離すことはなかった。

 ずっしりと重たい幸福感と、それに比例する異常な歩きにくさ。その両方を一歩一歩噛み締めながら、俺たちは夜の底をなぞるようにして帰路についた。


「……ただいま」


 玄関のドアを開け、ようやく俺の左腕がその重責から解放されたかに見えた。

 彼女はふわりと腕を解くと、先に玄関へと上がり、慣れた手つきで靴を脱ぐ。


 けれど、自由になった腕の軽さに安堵したのも束の間。

 上がり(かまち)の上で振り返った彼女は、俺の「ただいま」に合わせるようにして、柔らかく慈しむような微笑みを浮かべた。


「……おかえりなさい、蒼くん」


 そう告げた直後。

 彼女は再び吸い込まれるように距離を詰めると、先ほどまでよりもさらに深く、俺の腕を自らの内側へと引き入れた。

 やれやれ、これがやりすぎてしまった反動か。


 洒落たリビングの照明をつけると、随分と見慣れた景色が広がって。今ではもう、ここが自分にとって一番落ち着く場所になっていることに気づく。

 どちらからともなく、吸い寄せられるようにソファーへとなだれ込んだ。


「……ふぅ」


 どさり、と二人分の体重がクッションに沈み込む。

 いつもなら、ここでお互いに適度な距離を取り直すはずなんだけど。今晩の彼女には、パーソナルスペースという概念はどうやら存在しないらしい。

 あのパフェの最後。彼女の唇を指先でなぞったあの瞬間から、奪い去られてしまったみたい。


 ぴたり。

 再び、俺の腕に柔らかな熱が密着する。

 彼女はそのまま俺の肩に頭を預け、安堵しきった顔でそっと目を閉じていた。

 

「……あの、九条さん?」

「なあに?」

「くっつきすぎじゃないかな」

「今は充電中、なの」

「いや、さっきパフェでたっぷり充電したでしょ」


 俺が苦笑して返すと、彼女はフルフルと、駄々をこねる子供のように頭を振った。

「だめよ。……あれは、その場限りの急速充電だもの、もちろん、とても嬉しかったけれど」

「急速充電?」

「……本当に人が幸せを感じるときって、もっと長くて、ゆっくりしたものがいいと思わない?」

「まあ、そうだね」


 分からないでもない。

 彼女なりの、どこか哲学めいた言い訳。

 高嶺の花たる『九条 葵』の面影をどこか残しながら、中身はとろとろに溶けきっている。そんな彼女の温もりを、俺はただ享受するしかなかった。


 けれど、ふと時計が目に入り、俺は現実に引き戻される。


「それはわかった。……けど、そろそろ夕飯の用意をしないと。もう結構な時間だ」

「──いけない、蒼くんの言う通りだわ」


 それまでべったりと密着していた彼女が、弾かれたように身を起こす。

 スッと背筋を伸ばし、乱れた髪を指先で整えた彼女は、もういつもの凛とした『九条 葵』へと、鮮やかな転換(スイッチ)を遂げていた。


「蒼くんにばかり甘えてられないもの。次は、私が頑張る番ね」

「お、それは楽しみだ。でも無理はしないで。手伝えることはするから」


 やる気を瞳に宿し、ソファから勢いよく立ち上がる彼女。

 この鮮やかなる切り替えは、職業柄だろうか。いつ見ても感心してしまう。

 キリッとした立ち姿の九条さんも、格好良くて俺は好きだったり。そう、ようやく安堵しかけた──その時だった。


「……でも、その前に」


 キッチンへ向かおうとした彼女が、くるりと踵を返して俺を見下ろす。

 その頬が、夜の帳を映したように、再びほんのりと朱に染まっていく。気づいた時には、もう遅かった。 

「最後に一つだけ……我が儘をしてもいいかしら」

「ああ、いいよ。どうぞ何でも言ってみて」


 俺が気楽に頷くと、彼女は花のように艶然と微笑んだ。

「じゃあ──失礼するわね」


 淑女のような丁寧な言葉とは裏腹に。

 彼女は、俺の開いた膝の間に、躊躇なくその細い足を踏み入れた。


「えっ、ちょっ……!?」

「動かないで」


 俺が固まるのと、ふわりと甘い香りが降ってくるのは同時だったと思う。

 彼女はスカートの裾を揺らしながら、正面から俺の太腿の上に、跨るようにして腰を下ろしたのだ。


 腿の上に、愛おしい重みが伝わってくる。

 至近距離にある彼女の顔。恥じらいに揺れながらも、熱っぽく潤んだ瞳が、俺の視線を絡め取って離さない。


「く、九条さ……」

「……ん」


 俺が動揺して声を漏らすより早く。

 彼女は俺の首筋に柔らかな腕を回した。怪我をしている俺の体を気遣うように、壊れ物を扱うような手つきで、そっと、けれど逃がさないように抱きしめてくる。

 そのまま、しなだれかかるようにして俺の首元に顔を埋めた。


「…………」

「…………」


 退院の時以来の、ハグ。

 ……けれど、あの時とは比べものにならないほどの密着度と、確かな『独占欲』。


 心臓が、耳の奥で早鐘を打っている。

 俺のものか、それとも彼女のものか。……きっとその両方だろう。

 制服越しに伝わる体温は、先ほどのパフェよりもずっと熱くて、柔らかい。


「はぁ……。これで、今日のお返しは終り。夢のような時間を、本当にありがとう」


 耳元で、甘く蕩けた声が囁かれる。

 かつて誰も寄せ付けなかった高嶺の花から、とうてい想像もできないほど、熱く、震えていた声。


 俺を包み込む、彼女から溢れ出した圧倒的な熱量。

 それは彼女という『氷壁』が内部から崩壊し、溶け出した、あまりにも濃密で甘い情熱の奔流だ。


 今思えば、抗う術なんて、最初からどこにもなかったんだ。

 押し寄せる彼女の情愛と、温もりと、香りに、俺の理性はなす術もなく飲み込まれていくばかりの日々だった。


 ああ、そうだ。

 この美しくも切実な、白銀の氷壁が溶け出したあとの水に。

 ──俺は今、心地よく溺れている。


 Drowning in the Melted Ice.(溶けた氷の中で溺れて)

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