第68話 溺れ合う二人
カフェを出ると、夜気を含んだ冷たい風が、火照った頬を遠慮なく掠めていった。
本来ならそれで頭が冷えるはずなのに、触れ合う場所から伝わる熱は、冷めるどころか静かにその温度を上げ続けている。
原因は、間違いなく俺の左腕にある。
完全に機能不全に陥った、九条さんのせいだ。
「く、九条さん? ……さすがに、ちょっと歩きにくいんだけど」
「…………いいの」
何が「いいの」か。
困り果てた俺の問いかけを拒絶するように、彼女はぎゅっ、とさらに強く二の腕を抱きしめてしまう。
同じ背丈の彼女の肩が、俺の肩と隙間なく重なり合う。
一歩踏み出すたびに、お互いの太腿までが時折触れ合うほどの密着感。制服の布地越しに伝わってくる、彼女の体温と確かな柔らかさまでもが。
その全てが嬉しい。
男としてこれ以上の役得はないと、本気でそう思っている。
けれど、いつもの倍以上の労力を使う歩行と、逃げ場のない密着感。
千々に乱れる意識を必死に繋ぎ止めながら、俺はただ耐えるしかない。……全く、色んな意味で大変な一日だよ、今日は。
「これは、蒼くんが悪いのよ」
「えっ、俺のせい?」
正面を向いたまま、彼女が消え入りそうな声で呟く。
「そうよ。……私のせいじゃないもの。私は被害者なんだから」
赤く染まった横顔を隠すように、彼女はぷいっと反対側に顔を背けた。
腕は絶対離さないくせに、こちらの視線からは逃げようとする。
なんという、甘くて強引な責任転嫁だろう。
「……あんなふうに、我儘、叶えてくれる人なんて……他にいないもの。もう、絶対に離してあげないから」
夜の静寂に溶けそうな、けれど確かな決意と熱を帯びた独白。
そんなことを言われてしまったら、もうお手上げだ。
その言葉の裏にある「私をこんな風にしたのはあなたなんだから、最後まで責任取って」という切実な訴えが、どうしようもなく愛おしい。
たとえ、どれほど歩きづらくても。
ふとした拍子に、胸の傷がズキリと痛んだとしても。
あの『雪原の大氷壁』とまで称される九条 葵を、ここまで『ポンコツ』にしてしまった罪悪感。そしてそれを遥かに上回る、支配欲にも似た多幸感が、夜の街並みを鮮やかに彩っていった。
結局──溶けかけた砂糖菓子のように甘くなった九条さんは、家に着くまで俺の腕を離すことはなかった。
ずっしりと重たい幸福感と、それに比例する異常な歩きにくさ。その両方を一歩一歩噛み締めながら、俺たちは夜の底をなぞるようにして帰路についた。
「……ただいま」
玄関のドアを開け、ようやく俺の左腕がその重責から解放されたかに見えた。
彼女はふわりと腕を解くと、先に玄関へと上がり、慣れた手つきで靴を脱ぐ。
けれど、自由になった腕の軽さに安堵したのも束の間。
上がり框の上で振り返った彼女は、俺の「ただいま」に合わせるようにして、柔らかく慈しむような微笑みを浮かべた。
「……おかえりなさい、蒼くん」
そう告げた直後。
彼女は再び吸い込まれるように距離を詰めると、先ほどまでよりもさらに深く、俺の腕を自らの内側へと引き入れた。
やれやれ、これがやりすぎてしまった反動か。
洒落たリビングの照明をつけると、随分と見慣れた景色が広がって。今ではもう、ここが自分にとって一番落ち着く場所になっていることに気づく。
どちらからともなく、吸い寄せられるようにソファーへとなだれ込んだ。
「……ふぅ」
どさり、と二人分の体重がクッションに沈み込む。
いつもなら、ここでお互いに適度な距離を取り直すはずなんだけど。今晩の彼女には、パーソナルスペースという概念はどうやら存在しないらしい。
あのパフェの最後。彼女の唇を指先でなぞったあの瞬間から、奪い去られてしまったみたい。
ぴたり。
再び、俺の腕に柔らかな熱が密着する。
彼女はそのまま俺の肩に頭を預け、安堵しきった顔でそっと目を閉じていた。
「……あの、九条さん?」
「なあに?」
「くっつきすぎじゃないかな」
「今は充電中、なの」
「いや、さっきパフェでたっぷり充電したでしょ」
俺が苦笑して返すと、彼女はフルフルと、駄々をこねる子供のように頭を振った。
「だめよ。……あれは、その場限りの急速充電だもの、もちろん、とても嬉しかったけれど」
「急速充電?」
「……本当に人が幸せを感じるときって、もっと長くて、ゆっくりしたものがいいと思わない?」
「まあ、そうだね」
分からないでもない。
彼女なりの、どこか哲学めいた言い訳。
高嶺の花たる『九条 葵』の面影をどこか残しながら、中身はとろとろに溶けきっている。そんな彼女の温もりを、俺はただ享受するしかなかった。
けれど、ふと時計が目に入り、俺は現実に引き戻される。
「それはわかった。……けど、そろそろ夕飯の用意をしないと。もう結構な時間だ」
「──いけない、蒼くんの言う通りだわ」
それまでべったりと密着していた彼女が、弾かれたように身を起こす。
スッと背筋を伸ばし、乱れた髪を指先で整えた彼女は、もういつもの凛とした『九条 葵』へと、鮮やかな転換を遂げていた。
「蒼くんにばかり甘えてられないもの。次は、私が頑張る番ね」
「お、それは楽しみだ。でも無理はしないで。手伝えることはするから」
やる気を瞳に宿し、ソファから勢いよく立ち上がる彼女。
この鮮やかなる切り替えは、職業柄だろうか。いつ見ても感心してしまう。
キリッとした立ち姿の九条さんも、格好良くて俺は好きだったり。そう、ようやく安堵しかけた──その時だった。
「……でも、その前に」
キッチンへ向かおうとした彼女が、くるりと踵を返して俺を見下ろす。
その頬が、夜の帳を映したように、再びほんのりと朱に染まっていく。気づいた時には、もう遅かった。
「最後に一つだけ……我が儘をしてもいいかしら」
「ああ、いいよ。どうぞ何でも言ってみて」
俺が気楽に頷くと、彼女は花のように艶然と微笑んだ。
「じゃあ──失礼するわね」
淑女のような丁寧な言葉とは裏腹に。
彼女は、俺の開いた膝の間に、躊躇なくその細い足を踏み入れた。
「えっ、ちょっ……!?」
「動かないで」
俺が固まるのと、ふわりと甘い香りが降ってくるのは同時だったと思う。
彼女はスカートの裾を揺らしながら、正面から俺の太腿の上に、跨るようにして腰を下ろしたのだ。
腿の上に、愛おしい重みが伝わってくる。
至近距離にある彼女の顔。恥じらいに揺れながらも、熱っぽく潤んだ瞳が、俺の視線を絡め取って離さない。
「く、九条さ……」
「……ん」
俺が動揺して声を漏らすより早く。
彼女は俺の首筋に柔らかな腕を回した。怪我をしている俺の体を気遣うように、壊れ物を扱うような手つきで、そっと、けれど逃がさないように抱きしめてくる。
そのまま、しなだれかかるようにして俺の首元に顔を埋めた。
「…………」
「…………」
退院の時以来の、ハグ。
……けれど、あの時とは比べものにならないほどの密着度と、確かな『独占欲』。
心臓が、耳の奥で早鐘を打っている。
俺のものか、それとも彼女のものか。……きっとその両方だろう。
制服越しに伝わる体温は、先ほどのパフェよりもずっと熱くて、柔らかい。
「はぁ……。これで、今日のお返しは終り。夢のような時間を、本当にありがとう」
耳元で、甘く蕩けた声が囁かれる。
かつて誰も寄せ付けなかった高嶺の花から、とうてい想像もできないほど、熱く、震えていた声。
俺を包み込む、彼女から溢れ出した圧倒的な熱量。
それは彼女という『氷壁』が内部から崩壊し、溶け出した、あまりにも濃密で甘い情熱の奔流だ。
今思えば、抗う術なんて、最初からどこにもなかったんだ。
押し寄せる彼女の情愛と、温もりと、香りに、俺の理性はなす術もなく飲み込まれていくばかりの日々だった。
ああ、そうだ。
この美しくも切実な、白銀の氷壁が溶け出したあとの水に。
──俺は今、心地よく溺れている。
Drowning in the Melted Ice.(溶けた氷の中で溺れて)




