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九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~  作者: 神崎水花
第四章 誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に

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第66話 あの「氷の美神」を弄ぶ男

 水無月 蒼はそのまま。パニック状態に陥った九条 葵を席へと置き去りにして、颯爽と厨房へと消えていった。

『とびっきりの逸品を作るから、待っててくれよな』そう背中で語るような、頼もしい佇まいを残して。


 後に残されたのは、夕暮れの残照が差し込む特等席で、至高の輝きを失い、ただ恋の熱に灼かれるウェヌスの像が一体のみ。

 九条 葵の明晰な頭脳は、彼が次々と繰り出す甘いサプライズの前に、ついに完全な機能停止に追い込まれていた。


(えっ、なになに……? 一体どうなってるの?)

(蒼くんの制服姿? エスコート? 『葵様』って名前で呼んだ? ああん、もう最高……っ!)

 

(反則よ。あんなの、聞いてない)

 彼女の頭の中では、今しがた起きた出来事の破片が無数に飛び交い、荒れ狂う感情の濁流となって、その処理能力(キャパシティ)を容易く超えていく。

 何年もの月日をかけて磨き上げてきた論理的思考も、冷静な判断力も。そのすべてが真っ白に焼き切れた後に残ったのは──理屈なんて一切介さない、ただ一つの巨大な衝動だけ。

 

 ──あ、あぁ……蒼くん、格好いぃぃ~~~~~!!!

 だ、だ……大好き、大好きすぎる……っ❤


 彼女はたまらず、燃えるように熱い顔を両手で覆い隠す。

 指の隙間から溢れ出るのは、この上ない幸福と、白日のもとに晒された「恋する乙女」の情愛そのもの。

 それは、窓の外に広がる夕暮れの空よりもなお赤く、彼女自身を激しく焦がし続ける赤熱の色。


 ──愚かなりや。


 蒼は、この表情を最後まで見ておくべきだった。

 そうすれば──彼はもっと早く、葵がひた隠す昏い情念、その懐の奥底に横たわる『罪』の真実へと、何よりも早く辿り着けていただろうに。


 葵が真に想う人が誰なのか。

 その正解は、火を見るよりも明らかだ。

 これほどまでに簡単で、『愛おしい答え合わせ』がこの世界のどこにあるというのか。 


 だが、この儚さと悲劇を孕んだ恋路において、たった一つだけ『救い』があったとするならば。

 蒼が見落としたそのウェヌスの表情を、たった一人の目撃者が捉えていたこと。

 そして何より、それが蒼が心から慕い、大人の男として強い憧れを抱く和泉 八雲であったことだろう。

 その救いがあったからこそ。

 後にすべてが壊れ、絶望へと堕ちた葵を、蒼は再び抱きしめることができた。それは、まだ誰も知らない遠い未来の奇跡の話である。


 八雲は、カウンター越しに葵の溢れんばかりの情愛を見つめ、口元の髭を撫でながら面白そうに一人呟いた。

「やるなぁ、蒼くん。……あんなに愛されてるじゃないか」

 

 彼は満足げに、手元のグラスを磨き上げる。

 その声音には、若い二人の恋路を温かく見守る、兄のような慈愛が満ちていた。

 

「ま、俺直伝だものな。──伊達に我が背中を見て育ってない、ってね」

 ニヤリと笑う彼の目には、キッチンへと消えた蒼の、かつてよりも一回り大きく見える背中の残像が映っていたのだろう。


 * * *


 さてと。

 厨房に入ると、冷えたステンレスの空気が肌を刺す。その冷徹さが、否応なしに俺の意識を『アプランティ(厨房見習い)』としてのそれへと切り替えてくれる。

 

「オーダーは『世界に一つの九条 葵スペシャル』か」


 実はもう、レシピの構想は固まっている。

 彼女が「甘いものをくれなきゃ、テコでも動かない」と初めて駄々をこねた、あの可愛い瞬間に──俺の中でイメージは鮮烈に閃いていたんだ。

 あとはそれを具現化するだけ。


 テーマは『ビター&スイート feat.クマー』

 葵、今のキミに必要なのは、疲れを癒やす糖分と、昂った神経を鎮める安らぎだ。

 なんつって。ダメだダメだ。

 この店に来るとつい、店長のノリに毒されてしまう。


 ここに至りて、迷いはなかった。

 俺は流れるような動作で冷蔵庫を開け、必要な食材をピックアップしていく。

 

 まずは、グラスの底にほろ苦いコーヒープリンを敷き詰める。その上には、濃厚なチョコマドレーヌを一口大にカットして投入だ。しっとりとした生地が、後で溶け出すアイスやチョコソースを余さず受け止める土台となってくれるはず。

 今の俺の手でも、なんとか扱える『柔らかさ』というのも大きな決め手だった。


 次いで、鮮やかなビターオレンジのコンフィをちりばめて。

 ダークブラウンの世界に、柑橘特有の爽やかな酸味と皮の苦味が加わることで、味に重奏的な奥行きが生まれるのさ。

 そしてメインとなる、口溶け滑らかな生チョコレートと生クリームを、惜しげもなく詰めていく。仕上げに、極上のバニラアイスをひと掬い。


「これは、思ったよりいいぞ」


 手早く、かつ丁寧に。

 全体的にシックで洗練された『夜のパフェ』を目指した。

 モデルでもある彼女が食べても罪悪感が少ないよう、甘さは控えめに、香りとコクを重視した構成にしてみたつもりだ。


 ……だが、これだけでは足りない。

 俺が思い描いた、完璧な『九条 葵スペシャル』にするためには、あと一押し。彼女の心を一瞬で溶かすような、とびきりの『遊び心』が必要だ。

 そう、いまこそ。真っ先に脳裏に浮かんだアイツの出番。


「ええっと、確かこの辺にあったはずなんだよな……」


 俺は戸棚の奥をごそごそと探る。

 普段はあまり使わない、秘密の隠しアイテム。

 

「……お、あったあった。よかったよ、こいつが無ければ未完成もいいところだ」


 取り出したのは、クマの形に焼き上げられた一口サイズのフィナンシェ。

 つぶらな瞳で見つめてくるその愛らしい焼き菓子を、俺は慎重に摘み上げる。

 そして、シックなチョコレートをベースに、真っ白なバニラと鮮やかなオレンジが彩る山の頂上へ、ちょこんと鎮座させた。


「仕上げに、ラズベリーソースを少しと、ミントを添えて。……よし、完成」


 黒とオレンジと赤のクールな世界に、突如として迷い込んだ一匹のクマー。

 そのシュールかつキュートな佇まいに、俺は満足げに頷く。

 

 愛だの恋だのなんて、今の俺にはまだ、言葉にするには気恥ずかしすぎる。

 だから、せめて。

 九条さんが、心の底から喜んでくれますように。


 柄にもなく、そんな祈りにも似た願いを込めて。

 トレイに乗せたその一皿と共に、俺は光の射すホールへと向かった。


「お待たせいたしました。当店……いえアプランティMINAZUKI特製。九条 葵様専用メニュー『真夜中のショコラックマ』でございます」


 コト、と静かな音を立て、パフェグラスが彼女の前に置かれる。

 窓際でぼんやりと脱力していた九条さんは、俺の気配にハッとして顔を上げた。


「あ……」

 彼女は慌てて背筋を伸ばし、まだほんのりと赤さの残る顔を取り繕うように、小さく咳払いをする。

「こほん……。ええ、とても、綺麗ね」


 彼女の瞳が、テーブルの上の一皿を捉えて淡く輝いた。

 幾層にも重なるチョコレートのグラデーションと、宝石のようなオレンジの輝き。アクセントとして散りばめられたベリーソースが、大人の色香を添える。


 その洗練された仕上がりに、彼女は「……はぁ」と感嘆の吐息を漏らす。


 けれど。その視線が、グラスの頂上に辿り着いた瞬間。


「…………え?」


 ようやく作り直したばかりの仮面に、ピキリと亀裂が入る。

 シックで漆黒なチョコの頂で、つぶらな瞳でこちらを見つめ返してくる、何とも愛らしいクマさんと目が合ったのだ。


 まさに、高嶺の花と、高嶺(頂き)のクマーの邂逅。


「……く、ま……?」

「君に似合うと思って。綺麗なのに、とんでもなく可愛いだろ?」

 俺は至って真面目に、そのデコレーションの意図を告げる。恐ろしい程の美と、目を疑う程の可愛さが同居した君だから。

 どちらか一方だけじゃ、九条 葵という人間は完成しないんだ。


「っ……!!」


 その瞬間。

 九条 葵の理性が、本日何度目か数えるのも馬鹿らしい崩壊を迎えた。


(か、かか、可愛いぃぃぃ~~~~~っ!!!)

(なにこれ!? こんなに気取ったパフェなのに、一番上にちょこんって! クマさんが私のこと見てるっ!)

(しかも、今……綺麗で可愛いって!? どっちのこと!?)


 誰よりもクールな外見に反して、実は可愛いものに目がない彼女。

 せっかく被り直した仮面は、もう跡形もなく木っ端微塵だ。


「あ、う……あぅ……」

「お気に召しましたか? 葵様」


 彼女は口元を両手で覆い、プルプルと震えている。

 耳まで真っ赤に染め上げ、言葉にならない声を漏らすその姿は、俺に完全な勝利を確信させた。

 なのに、彼女はスプーンを持ったまま、おろおろと視線を彷徨わせているばかり。

 可愛すぎて食べられないのか。それとも、この一瞬が終わるのが惜しいのか。


「しょうがないなぁ」


 俺は苦笑すると、彼女の手からスプーンを優しく取り上げた。

「相席、失礼いたします」

「え? ええっ?」

 

 当惑する彼女をよそに、俺は優雅な所作で、彼女の正面へと腰を下ろす

 幸い、この柄の細いパフェスプーンなら、不自由な左手でもなんとかなる。


 俺は濃厚な生チョコとオレンジに、マドレーヌを少し崩して、丁寧に掬い上げた。


「食べさせてあげるよ。葵さん」

「えっ、あ、蒼くん……っ?」

「──本当にお疲れ様。……ありがとう、俺のために頑張ってくれて」


 俺は子供をあやすような、慈愛に満ちた眼差しを向け、スプーンを彼女の口元へと差し出すのさ。


「蒼くん……? そ、その……他のお客様、が……」

「ああ、そう。さあ、あーん」

「~~~~~っ!」

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