第65話 どちらも世界に一つしかないもの
「ええっ、本当!?」
疲労の泥に沈んでいたはずの君の瞳が、パァッと鮮烈なまでに眩い輝きを取り戻した。
なんだ、電池まだあったじゃん。
そう思ったけど、その現金なまでの愛らしさに、俺の口元も知らず知らずのうちに緩んでしまうから、もういいや。
「蒼くんの手作りパフェ……? でもそれって、怪我した腕でも作れるものなの? 無理してない?」
「大丈夫。チョコや生クリーム主体なら、この手でも何とかなるはず。……君に食べてもらうために、今の俺ができる全てで作る特製パフェ。不格好になるかもしれないけど、それでもいい?」
「世界に一つだけ、特別……。行くわ、今すぐ行きましょう! 格好なんて気にしないもの。ほら蒼くん、早く」
先ほどまでの足取りの重さが嘘のよう(笑)
けれど、その瞳の輝きが、俺にはたまらなく嬉しかった。自分にしか見せない、自分にしか引き出せない『特別』な気がして。
その歪な優越感に、俺の足取りまで軽くなる。
駅から少し離れ、多摩川の土手沿いへと続く静かな路地裏。
夕暮れ時の淡い琥珀色の光に包まれたその場所に、俺のバイト先『Cafe Nine Flow』はある。
店の前まで来たところで、脳裏にふと、ある「企み」が浮かんだ。
いつも『特別』をくれる彼女に、俺なりに最高のお返しがしたくなったんだ。どうせなら、もっと徹底的に愛でてみないか。
俺は口元に小さく不敵な笑みを浮かべると、隣を歩く彼女を振り返った。
「九条さん。悪いんだけど、ここで少しだけ待っていてくれる?」
「えっ? 一緒に入らないの?」
彼女の顔に一瞬、不安の色がよぎる。
ほんの少しの間、視界から俺が消えることさえ寂しがるような瞳。
「ああ。ちょっとした『仕込み』が必要なんだ。すぐ戻る。約束だ」
力強く、彼女の瞳を真っ直ぐ見て告げると、彼女はようやく小さく頷いた。
「わかったわ。ここで、大人しく待ってる」
俺は一人で扉を開け、カランコロンと乾いたドアベルの音を響かせる。
「いらっしゃいませ。……おや、水無月くんじゃないか」
カウンターの中でグラスを磨いていた八雲店長が、驚いたように眉を上げる。俺は他のお客様の迷惑にならないよう足早に歩み寄ると、単刀直入に頭を下げた。
「すいません、店長。急な我儘を言わせてください。──厨房と、俺の制服を貸してもらえませんか」
「ほう? どういうことかな?」
「代金は払います。俺に、パフェを一人前作らせてほしいんです」
今、外で待っている彼女のために。
たったそれだけのことで彼女が喜ぶなら、頭を下げることなど、造作もない。
「パフェを、ねぇ……。その手でか?」
店長は俺の真剣すぎる表情を数秒見つめた後、すべてを察したように、自慢の髭を愛おしそうに撫でた。
「よし、いいだろう。君はウチの大切なスタッフだ。仲間の頼みを断るほど、私は野暮じゃない」
「店長……!」
「何十人分も作ると言うなら営業妨害だが、たった一人、特別な女性を喜ばせたいんだろう?」
「はい、そうです」
店長はニカっと少年のように笑うと、磨き上げたばかりのグラスを夕光にかざしてみせた。
「澄んだ、いい返事だ」
「ただし、それは正規の『売り物』として出すわけにはいかない。あくまで非番の君が、あの子の為に振る舞う一品だ。だから、代金は受け取らない」
「えっ、でも」
「その代わり、材料代だけはきっちり頂く。……いいね?」
それは、店長なりの線引きであり、精一杯のエールだったと思う。
俺はじわり胸が熱くなるのを感じながら、力強く頷いた。
この人はやっぱり、恰好がいい。
「はい! ありがとうございます!」
「なあに、礼には及ばんよ。さあ、とびっきりのを作ってあげるといい。……お連れさんを、随分と待たせているようだしね?」
店長は悪戯っぽく、顎で扉の方をしゃくってみせた。
やはり、この人には敵わないな。俺は急いでバックヤードへと駆け込んだ。
『水無月 蒼』のネームが貼られたロッカーを開け、着慣れた制服を取り出す。
糊のきいた白のワイシャツに袖を通し、黒のベストのボタンを、焦る指先で一つずつ丁寧に留めていく。彼女を一人、待たせすぎるのは忍びない。
最後に、腰からソムリエエプロンをきゅっと締め上げれば、完了だ。
鏡に映るは、いつもの水無月 蒼ではない。
そこには『Cafe Nine Flow』の、九条 葵のためだけのスタッフとしての俺が立っている。
なかなか決まっているんじゃないか?
「よし」
深呼吸を一つ。
襟元を正し、俺は再び重厚な木の扉を押し開けて、夕闇の迫る路地裏へと足を踏み出した。
カランコロン。
彼女を迎えるに相応しい、澄んだベルの音が静かな通りに響き渡る。
「……蒼くん、遅い」
街灯の下、手持ち無沙汰につま先で石畳をなぞっていた彼女が、音に反応して顔を上げる。その表情には、待ちくたびれた不満と、独り取り残された心細さが複雑に混じり合っていた。……けれど。
「え……?」
現れた俺の姿を見て、彼女は息を呑んで固まった。
見ろ、夕景の中に浮かび上がる、世にも美しい彫像の出来上がりだ。
もしこれが本当に無機質な彫像だったなら、このまま持ち去って独り占めしてしまいたい。……不意にそんな独占欲が芽生えそうになる。
おっと、無理もない、か。
学校のブレザー姿とは一線を画す、黒のベストと糊のきいた白シャツ。八雲店長のこだわりが詰まった『Nine Flow』の制服は、着る者の背筋を自然と伸ばさせる魔力がある。
俺はそんな彼女の驚きを味わうように、恭しく一歩踏み出した。演劇の舞台に立つ役者のように、片手を胸に当てて深々と腰を折る。
「お待たせいたしました、お客様」
「蒼、くん……?」
顔を上げ、悪戯っぽく微笑みながら左手を差し出す。
これで、ギプスと添え木が無ければ完璧だったのに。まあ、それも今の俺らしいと言えばらしい。
「当店自慢の特等席へご案内いたします。世界に一つだけのパフェを添えて」
「え、え……」
「さあ、どうぞ。──九条 葵 様」
彼女は、まるで夢を見ているかのように。俺が差し出した左手に、吸い寄せられるように指先をそっと重ねた。
そのまま導かれるように、静かな店内へと足を踏み入れる。
案内したのは、多摩川の河川敷が一望できる窓際の特等席。
黄金色の残照がテーブルの上を淡く、優しく染め上げている。俺は音を立てずに椅子を引き、彼女の着席を促した。
「お足元、お気をつけくださいませ」
「そ、蒼くん。あ、ありがとう」
学校で見せる『九条さん』としての余裕が完全に消えていた。
急遽訪れた非日常に、彼女の心が激しく揺さぶられている証拠だろう。俺は、彼女のそんな「綻び」を好ましく思いながら、さらに笑みを深めて畳み掛ける。
「九条 葵様、ここでは私のことを『水無月』と、および下さいませ」
「あう。み、水無月さん……ありがとう」
耳まで真っ赤に染めて、消え入りそうな声で「水無月さん」と呼ぶ彼女は、どこまでも可愛らしかった。
学校で見せる凛とした君も。
そうではない、君も。その、どちらにも惹かれている。
俺は彼女が席に落ち着いたのを見届けると、優雅に一礼し、踵を返そうとして……不意に、もう一つのサプライズを思いつく。
「ですが、葵様。最後にもう一つだけ、お聞きしても?」
立ち去り際に、あえて名前だけで呼んでみた。
初めて口にする、彼女のファーストネーム。少し照れくさいが、この特別な空間と纏った制服の重みが、今の俺にふさわしい「役柄」を与えてくれている気がした。
「は、はい。な、何かしら」
上目遣いで俺を見つめる彼女。その瞳は、期待と困惑で揺れに揺れている。
モデルという過酷な職業柄、彼女が日頃から徹底した食事管理をしていることは百も承知。
だからこそ、俺は意地悪く、けれど最大限の慈悲を込めて問いかける。
「本当に、とびっきり甘くて良いのですね?」
「う……」
彼女の顔に、魅惑的な『糖分』への渇望と、『自制』が激しく交錯する。その葛藤があまりにも可愛くて、吹き出しそうになるのを必死で堪える。
ここで笑えば、全てが台無しに、だろ?
「……では。少しだけ、ビターでお願いします。ううっ」
今日も色々な表情と、様々な声を聴かせてくれた君だけど。
最後は、我慢を強いられたような、少し情けない声だったかもね(笑)
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
踵を返す。その直前。
最後にもう一つだけ、とどめの『お遊び』を仕掛けてやることにした。
俺は身を屈め、彼女の耳元で密やかに囁く。
「──葵 様。そんなに俯いてばかりでは、せっかくの綺麗な顔が台無しですよ?」
「っ……!?」
完璧なパニック。彼女は雷に打たれたように全身を硬直させ、顔から火が出るのではないかというほど真っ赤に染まった。
本当にお疲れ様。
さあ、世界で一つの、控えめながらも濃厚な一皿を君に届けるとしようか。




