第63話 その慈悲は、誰がために
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
─ 第四章、誰よりも短い至上なら、せめて誰よりも濃密に ─
──時間は諦めたの。
罪はいずれ、必ず白日に晒される。
だからせめて誰よりも濃密に。一生分の愛を、残り全てで貴方に捧ぐ。
九条 葵
あの壮絶な、学院の双璧同士による一騎打ち。
その決着がついについた時、彼女が傍観者たちへ放った鋭い一瞥と一言。
あれ以来、校内を支配していた異様な狂熱は、嘘のように沈静化へと向かっていた。
藤堂という男子カーストの頂点が、公衆の面前で無残にその自尊心を砕かれ、あまつさえ九条さんが「茶番は終わりにしましょう」と高らかに宣言したからだ。
それだけではない。
同時に、彼女が突きつけた条件は、あまりに抽象的な『心』という概念。
あやふやで。
それはとても大切なはずなのに、見ることは叶わない。
不安定極まりないモノ。
それを出された時、容姿や偏差値、家柄といったスペックだけで己を飾り立ててきた連中にとって、彼女は測りようのない未知となる。
為す術もなく凍りつくしかなかったのだろう。
とにもかくにも、これでようやく安寧が訪れる。
俺たちの生活を脅かす命知らずは、もう現れない──はずだったのに。
一度始まったこの狂想曲は、まだ終止符を打ってはくれなかった。
何度目だろう、こんなことを思うのは。
塀の中で鎮火したはずの火種は、予想もしない形で外へと飛び火していたのだと知る。
放課後。
並木道を抜け、大学の正門へと続く通りを歩いている時だった。
出口付近で待ち構えるように立っていた、見知らぬ他校の制服を着た男子生徒が、意を結したように駆け寄ってくる。
「あのっ、九条さん! ずっと見てました。よかったら今度、一緒に映画に行ってくれませんか」
彼は顔を真っ赤にして、会ったばかりの彼女にチケットを差し出している。
名も知らぬ彼の、必死の訴え。
青春だなあ、なんて呑気に笑ってはいられない。かといって、今の自分は『俺の九条さんに』なんて憤ることもできない。
ただ──人を呪わば穴二つ。
彼の無謀さを笑うことは、同じように彼女に焦がれる自分を笑うことと同義なのだと言い聞かせ、自らを戒めている。
さりとて、彼を応援する気はさらさらない。
いつかの自分が、彼のような結末を迎えないとは限らない。
どれだけ自信を纏っても尽きぬ不安と共に、独占欲という醜い感情が胸の奥でチリリと音を立てては、俺はそれを理屈の蓋で覆い隠していた。
「ごめんなさい。そういうのは、お受けできないの」
九条さんの返答は、残酷なまでに早かった。
しかし、外部の人間ゆえに早朝の断罪を知らない彼は、ここで必死に食い下がる。
罪悪感を逆手にとる交渉術──ドア・イン・ザ・フェイスのつもりだろうか。
「じゃ、じゃあ、せめて連絡先だけでも! 友達からでいいんで!」
「ごめんなさい。事務所から、私的なやり取りはきつく禁じられているの」
「えっ、でも、プライベートの番号なら……」
なおも詰め寄る男子生徒。
だけど、九条さんは一切動じることなく、冷徹なまでの瞳で彼を射抜いた。
連日続く無作法な接触に、彼女の温厚な仮面の下で、隠しきれない苛立ちが火花を散らし始めているのが分かる。
「私的な、と言いましたよ。それはプライベートもです」
有無を言わせぬ一言。
その言葉には「私の世界に踏み込む資格は、貴方にはない」という、絶対的な線引きが含まれているような。
それだけではない。事務所という最強のカードを使い、正論の防壁を築く彼女に勝てる者などいようか。その迫力と、取り付く島もない態度に気圧されたのか、彼は「そ、そっか……ごめん」と力なく肩を落とし、すごすごと去っていった。
だけど、まさにこの後。
この数日の騒乱の中で、たった一つだけ。
九条さんが唯一、その拒絶を口にしなかった告白があった。
俺と彼女が歩道を並んで歩いていると、少し先にいた別の男子生徒が、意を決したように声をかけてきたんだ。
その制服から、近隣にある公立高校の生徒だとすぐにわかる。
彼は、恐怖に近い緊張で顔を引きつらせながらも、深々と頭を下げていた。
「あの、邪魔してごめんなさい。初めまして。都立青山の大塚と言います」
「……九条 葵です」
「ず、ずっと……ずっと九条さんに憧れていました。綺麗だなって。でも、付き合って欲しいとか、そんな大それた望みがあるわけじゃないんです」
彼は大きく息を吸い込むと、震える声で、ただ一つの切なる願いを口にする。
「ただ、一枚だけ……一緒に写真を撮ってくれませんか? 高校生活の、一生の記念にしたいんです」
その言葉を聞いた瞬間。
九条さんの横顔から、あれほど頑なだった氷の緊張が、春の雪解けのようにフッと消え失せたよ。彼女はまっすぐ彼の顔を見つめる。
まるで、鏡の中に自分自身の姿を見つけたかのような、慈愛に満ちた眼差しで。
とても柔らかく微笑んでいた。
「……あなたのその気持ち。痛いほど、分かるから」
好きな人を、憧れの存在を、ただ遠くから見つめることしかできない痛み。
せめて形だけでもその想いを遺したいと願う、悲しいほどの純粋さ。
それはきっと、夢に、恋に。二度とない季節を懸命に生きる若さが、皆等しく胸の奥に秘めている熱情と同じ色をしていたから。
だから、届いた。
誰の手も、どんな肩書きも受け入れなかった九条 葵に、彼のあきらめにも似た願いだけが、届いたのだ。
「私で良いなら。いいですよ、大塚くん」
「えっ、本当に?」
彼は驚きと喜びで、一瞬呼吸を忘れたように固まる。
九条さんは優雅に、けれど迅速に、俺の隣から数歩離れて彼へと歩み寄った。
「写真を撮りましょう。……ただし、これっきりにしてくださいね」
「は、はい! ありがとうございます!」
夢でも見ているかのようにスマートフォンを取り出し、慌てて自撮りモードにする大塚くん。
九条さんは彼の肩には触れず、けれど拒絶を感じさせない絶妙な距離感で、穏やかな微笑みをカメラに向けた。
閃光が弾け、彼らの姿を一瞬だけ切り取っていく。
202X年、惜春の永遠。
「ありがとうございました。……大切にします」
感極まった様子で深々と頭を下げ、立ち去ろうとする彼を。
九条さんが静かに引き留めた。
「待って、大塚くん。──もう一枚、撮りましょう」
「えっ? で、でも。ご迷惑じゃ……」
戸惑う彼に、彼女は諭すように優しく告げる。
「ううん。記念になる、大切な一枚なんでしょう? ……だったら、もしも手ブレていたり、目が閉じていたりしたら悲しいじゃない。だから念のため、もう数枚。……ね?」
彼女はそう言って、にっこりと微笑んだよ。
連日の、おかしな告白ラッシュの中で相手に見せた、唯一最高の笑顔で。
一度慈悲を与えると決めたら、相手が恐縮して逃げ出したくなるほど徹底的に尽くす。
その、少し歪とも言える重すぎる誠実さ。
それこそが、いかにも九条さんらしいと、俺は思わずにはいられなかった。
再びシャッター音が空に鳴る。
今度こそ、彼は何度も何度もお辞儀をしながら、感動で泣き出しそうな顔で駆け去っていった。
「よかったな……」
何だか、俺の胸の奥まで熱くなっている。
その去りゆく背中を、九条さんはどこか寂しげな瞳で見送っていた。
それを見つめる俺の横顔は、一体、どんな色をしているのだろう。




