第62話 長恨歌──願わくは、次の世こそ
……そうして、怒涛のような一日は終わった。
放課後も数人の勇者が散っていたけど、なんとか無事に彼女を家まで送り届けることができた。
あれだけ派手に何件も断ったんだ。明日からは少し静かになるに違いない。
俺も九条さんも、本気でそう信じていた。
それがどれほど甘い考えだったかを、翌朝すぐに思い知らされることになるとは。
俺たちは甘く見ていたんだ。
人の噂──特に難攻不落の高嶺の花が落ちかけているという特大のゴシップが、SNS全盛の現代において、どれほどの拡散力と熱量を持つのかを。
翌日の木曜日。
地獄の釜の蓋は閉まるどころか、より盛大に開け放たれていたなんて。
誰が予想できただろう?
登校した俺たちを待っていたのは、あまりに異様な光景だった。
ざわめきが、波が引くように消えていく。
まるでモーゼが海を割ったかのように、生徒たちの人垣が左右に分かれ、その奥から一人の男子生徒がゆっくりと歩いてくる。
演出過剰なほどに、ドラマじみていた。
歩くたびにサラリと揺れる、色素の薄い茶髪。爽やかな笑顔。
制服の着こなし一つとっても、カタログモデルのように洗練されている。
「……藤堂先輩だ」
「おお、ついに本命のお出ましかよ」
藤堂 聖人。
聖諒学院高等部三年。バレー部では副キャプテンを務め、全国大会に出場。おまけに実家は某有名ホテルチェーンの創業家という。その上、甘いマスクまで兼ね備えた、天が二物も三物も与えすぎたリアル貴公子。
多くの女子生徒が彼に憧れ、その隣に立つことを夢見る。
周りの男たちは嫉妬することすら諦める、高等部全男子の頂点に立つ男がそこにいた。
いわば彼こそが、単なる憧れという枠には収まりきらない、至高にして尊き一輪花──九条 葵。その犯しがたい美しさと唯一対をなし、学院の頂に君臨することを許された双璧の片割れ。
彼ならば、あの九条 葵の隣に立つのに相応しい。
根拠のない、だのに誰もが疑わないその確信こそが、この学院における『藤堂 聖人』という男の絶対的な評価であった。
両者に、一つだけ決定的な違いがあるとするならば。
いまだかつて、誰一人寄せ付けなかった彼女とは対照的に、彼について聞こえてくる噂の多くは恋多き聖諒の貴公子。
……まあ、平たく言えば女癖が悪いってことだ。
そんな恋多き(?)藤堂先輩は、九条さんの前でピタリと足を止めると、完璧な角度で微笑んだ。
「おはよう、九条さん。少し時間をいただけるかな?」
「おはようございます、藤堂先輩。……朝のHRまであまり時間がありませんが、何かご用件でしょうか?」
九条さんがやんわりと「忙しい」と牽制球を投げる。
だが、先輩は余裕たっぷりに片手を挙げ、そのボールを打ち返した。
「ああ、すまないね。なに、すぐ終わる話さ」
その言葉の裏には、「君は僕の誘いを断らないだろう? だから一瞬でOKだ」という強烈なナルシシズムが透けて見える。
すごいな、ここまで来ると逆に清々しいよ。
先輩は、注がれる視線をスポットライトのように浴びながら、一歩前へ出る。
その揺るぎない自信はどこから来るのだろう。
自分が拒絶される未来など、1ミリも想像していない王者の振る舞いが、見ていて涙を誘う。
なあ先輩。正直、辞めておいたほうがいい。
悪いことは言わないから、その差し出した手を今すぐ引っ込めろ。
この誰よりも気高く、重層的な美しさを湛えた『氷の美神』には、あんたが誇るチャラついたブランド力なんて一切通用しないことを、俺は知っている。
ましてや、彼女が最も忌み嫌う不誠実な噂を纏った男なんて。
視界に入った瞬間にアウトだろうに。
彼女自身が、自ら光を放つ孤高の恒星なんだ。
太陽の前で、借り物の光で輝く月がどれほど無意味か、なぜ分からない。
──彼女の瞳に俗世の輝きなんて映りはしないことを、知れ。
そして、後悔すればいい。
「単刀直入に言おう。僕の隣に立ってくれないか?」
取り巻く女子たちの黄色い悲鳴と、感嘆のため息が漏れる。
完璧だ。誰もが認める聖諒のビッグカップルの誕生。……俺以外の全員が、その予定調和を疑わなかったはずだ。
藤堂先輩は、さもそれが世界の摂理であり、既定路線であるかのように甘く囁く。
「学院の頂点の隣に立つのは──葵、君こそが相応しい」
「お断りします」
間髪入れずに放たれた、絶対零度の白刃。
先輩の完璧な笑顔が、陶器が割れるように固まった。
「……は? い、いま、なんていったのかな?」
「お断りします、と申し上げました。──それと」
彼女は氷のような視線で彼を射抜き、冷徹に引導を渡す。
「貴方に、私の名を気安く呼ぶ許可を出した覚えはありません」
絶句する学院の頂点(自称)を見据えたまま、彼女はその視線を、周囲を取り囲む野次馬たちへと巡らせる。
凛然とした、それでいてどこか哀しみを帯びた美声。
それが、水を打った構内に響き渡る。
「ちょうどいい機会ですので、皆さんにも申し上げておきます」
彼女は一呼吸置き、全校生徒の魂を揺さぶるように言い放った。
「──私は、誰かのトロフィーになるつもりはありません。そして興味もありません」
ざわり、と空気が鳴動した。
それは「高嶺の花が落ちそう」だの「攻略対象」だのと、彼女を勝手に神格化し、或いはゲームの駒のように扱っていた傍観者たちへの、苛烈なまでの釘刺し。
「学院の頂点だとか、将来はプロのアスリートですとか。そんな他人が勝手につけた価値や肩書きに、何の意味があるのでしょうか。私が隣に立ちたいと願うのは──」
彼女の視線が一瞬だけ、本当に一瞬だけ俺を捉え、そしてまた群衆へと戻る。
「私の飾り立てられた価値ではなく、私の『心』を大事にしてくださる方だけです。……これ以上、このような茶番で私の時間を奪わないでください」
現場は深い沈黙に沈んだ。
誰もが自分の浅ましさを突きつけられ、彼女の放つ圧倒的な至尊の輝きに、ただ平伏すしかない。
ただ一人、プライドを粉々に粉砕された男を除いて。
「……まさか」
藤堂の血走った視線が、彼女の数歩後ろで控えていた俺を射抜く。
彼は激昂に震える指を、俺の鼻先に突きつけるようにして言う。
「お前、まさかこんな……こんな冴えないゴミのような奴がいいと言うんじゃないだろうな!?」
あまりにも醜悪な、敗北者の八つ当たり。
周囲が凍りつく中、九条さんはふぅ、と重く、深い溜息を吐いただけ。
その瞳に宿っているのは、もう怒りですらない。
底知れないほどに冷ややかな憐憫だった。
「なんて、かわいそうな人」
静かなる声が、藤堂の虚勢を真っ向から貫く。
「人を貶めたからといって、ご自身の価値が上がるわけではないのに」
「なっ……!」
「他者を下げることでしかご自分の位置を確認できないなんて……本当に、哀れな方ですね」
それはどんな罵倒よりも鋭く、プライドの塊だった男の心臓を抉り取ったに違いない。
図星を突かれた藤堂の顔が、みるみるうちに赤黒く歪んでいく。王子の仮面が剥がれ落ち、そこに現れたのは、ただの癇癪持ちの子供だった。
「……くっ、お前だって外面が良いだけの女だろうが! 九条家だからって、いい気になるなよ!」
彼はギリと歯噛みし、なりふり構わず咆哮した。
「僕の家のホテルグループが本気になれば、お前の家だってただじゃ済まない! 自分の立ち位置を分かっているのか!?」
ああ、見苦しい。
あまりにも見苦しい。なんたる醜悪か。
負けた瞬間に親の看板を持ち出す男が、この学園の頂点だったのか。
くだらなすぎて反吐が出る。これでは、地に足を付けて懸命に生きている俺のが、何倍もマシではないか。
だが、そんな汚泥のような言葉にさえ、君は眉一つ動かさなかった。
「家柄は、私という人間には関係ありません」
彼女は静かに、けれど絶対的な意思を込めて言い放つ。
「それでも、何かをされるというなら──どうぞご自由に」
受けて立ちます、と。
そう告げる彼女の瞳は、脅しなど微風ほどにも感じていない。
圧倒的な格の違いに、藤堂はパクパクと金魚のように口を動かした後、絶叫を上げながらその場から逃げ出した。
それしかもう、彼の自尊心を保つ術がなかったのだろう。
後に残されたのは、ただ圧倒的な「個」として君臨する彼女の姿だけ。
「……格好いいな、君は」
俺は心の中で、彼女に惜しみない賛辞を送っていた。
そしていつの日か、この眩しすぎる太陽に挑むと、この胸に固く誓う。
今日はっきりとわかった。九条 葵、俺は君が──
水無月 蒼が、未来への希望を胸に決意している頃。
その気高き太陽は、ふと遠い空を見上げ、誰にも聞こえない声で独り、寂しげに翳っていた。
「……願わくは、次の世こそ」
それは、終わりを予感している者だけが抱く、悲痛な祈り。
今は亡き、遠き国の悲恋を謳った詩が、彼女の唇から零れ落ちる。
「天に在りては比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならんことを……」
その悲しき調べを聞いた者は、世界に誰もいない。
ただ、彼女の孤独だけが、夕暮れの予感の中に溶けていった。
九条葵は償いたい ~その献身には理由がある~
─ 第三章、あなたを追いかけて、完 ─




